第41話 石雫の迷宮
崖の下に、洗濯物が干してあった。
石雫の迷宮があると聞いて見上げた場所には、岩の裂け目と、そこへ続く坂道がある。その手前では女が桶を抱え、物干し縄へ布を掛けていた。
「思ったより、普通に住んでるんだな」
俺が言うと、テッサが道端の看板を指した。
「宿もある。飯も」
「先に受付だろ」
「読んだだけ」
街道の宿を朝に出て、昼を少し過ぎた頃だった。
迷宮の近くには、宿や道具屋、素材の買い取り所が集まっていた。軒先では泥のついた靴が乾かされ、開いた扉の向こうから砥石の音がする。
冒険の入口というより、冒険者が帰ってくる場所だった。
俺たちはギルドの紋章がある建物へ入り、三人分の登録札を見せた。
「石雫は初めて?」
受付の男に聞かれ、頷く。
男はリーヴェでもらった案内へ目を通し、別の紙を重ねた。
「北の細道は、今朝の確認で狭くなっていた。初めてなら入らないこと。まずは入口から雫の広間までだな」
紙には確認した日付と、戻った冒険者の名前が添えられている。
北採石場の地図にあった、途中で切れた線を思い出した。こちらには線が多いが、ずっと同じ形とは限らない。
「今日はそこまでにします」
帰る目安の時刻を決め、入る三人の名前を記録してもらった。
宿に泊まれることも確かめ、旅の着替えを預ける。探索用の荷物だけにすると、肩が随分軽くなった。
いよいよ坂を上がろうとした時、上から三人の冒険者が下りてきた。
先頭は、俺たちより少し年上に見える剣士だった。短い外套の裾に白い泥がつき、腰の鞘には細かな擦り傷がある。
「初めて?」
丸めた案内図を見て、声をかけてきた。
「今日着いたところです」
「じゃあ、広間の右壁は寄りすぎない方がいい。甲虫が割れ目に入ってた」
後ろの槍使いが、抱えた袋を持ち直す。口から灰色の殻が覗いていた。
「倒したんじゃ?」
テッサが聞く。
「見えた分はね。奥までは分からない」
剣士はそう答え、俺たちの装備へ目を向けた。
「カイル。しばらくここにいるから、また会うかも」
「ノルです」
テッサとリオも名乗った。
カイルたちはそのまま買い取り所へ向かった。槍使いが袋を置くより先に、もう一人が中身を出す布を広げている。
何度もやっている動きだった。
「私たちも、帰りは袋を重くしたいね」
テッサが言った。
俺は頷き、坂の先を見た。
◇
入口を抜けると、風の匂いが変わった。
湿った石と、冷たい水の匂いがする。テッサが肩の灯りをつけると、岩肌に細い光の筋が浮かんだ。
最初は水が反射したのかと思った。
だが、灯りを動かしても、青白い点がいくつか残っている。
「光ってる」
リオが壁へ顔を近づけた。
細かな粒が、岩の中に散っていた。星空ほど明るくはない。目が暗さに慣れて、ようやく分かるくらいの光だ。
その下を、水滴が伝い落ちる。
「これ、全部売れる?」
テッサが聞いた。
「壁は勝手に削るなって言われただろ」
「聞いただけ」
声が通路の奥へ返り、俺たちは少し黙った。
遠くでも水が落ちている。音は重なり、どれが近いのか分からない。入口の明るさを振り返って確かめ、俺は最初の曲がり角を紙へ書いた。
先頭はテッサ。俺は剣を抜ける間隔を空け、リオが後ろを確かめる。
誰かについて歩くのとは違った。
俺たちが止まれば、三人とも止まる。進む方向も、灯りを向ける場所も、自分たちで決める。
少し怖くて、足を出すたびに胸が弾んだ。
途中、浅い水溜まりの縁に泥色の塊があった。
テッサが盾を下ろしかける。
「丸這い?」
「受付では泥スライムって呼んでたね」
リオが言った。
地域によって呼び方が違うらしい。白い核の位置を確かめたが、塊はこちらへ来ず、水際をゆっくり動いていた。
通る場所は空いている。
「今日は駆除じゃない。脇を通ろう」
俺が言うと、二人も頷いた。
剣を抜かずに魔物の横を通るのは、かえって落ち着かなかった。それでも振り返った時、泥スライムはまだ水溜まりのそばにいた。
◇
雫の広間には、天井から細い水が落ちていた。
中央の浅い泉に波紋が広がり、その光が壁を揺らしている。左側には三人で並べる乾いた場所があり、奥には別の通路が口を開けていた。
「着いた」
リオが息を吐く。
案内図の丸い印が、目の前の景色になっていた。
俺は入口と泉の位置を確かめ、紙へ線を足す。その間にテッサが右へ灯りを向けた。
岩の割れ目に、灰色の丸いものがある。
「いたよ。さっき言ってたやつ」
石殻甲虫だった。
殻の縁から脚が伸び、壁を下りてくる。地上で見たものと似ているが、こちらは殻の表面が濡れて黒っぽい。
俺は剣へ手をかけた。
「左の乾いたところへ寄ろう」
「待って。そこからだと、灯りが盾に隠れる」
リオが言った。
テッサが盾を構えると、確かに甲虫のいる床へ影が落ちた。明るい林道ではなかった問題だ。
彼女は左肩を少し前へ向け、盾を身体へ寄せ直した。
「これなら?」
「見える。俺も少し右へ行く」
リオは泉の手前で足を止めた。俺は左に残る。
甲虫が床へ下り、こちらへ走り出した。
盾が受ける音は、倉庫の外よりずっと大きかった。反響に驚き、俺の肩が跳ねる。
テッサはそのまま踏みとどまった。
「右、空ける!」
甲虫が縁を回ろうとする。首が伸びるのを待って、リオが矢を放った。
殻の下へ入った矢が揺れ、脚が乱れる。
それでも近づかず、三人で動きを見続けた。やがて完全に止まると、リオが長く息を吐いた。
「見えれば、狙えた」
「明るくするのも私の仕事か」
テッサが肩の灯りを見た。
俺は剣の柄から手を離す。
昨日までに覚えたことが、ここでも一つ通じた。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
◇
ほかに動くものがいないか確かめてから、泉の周囲を調べた。
底には小さな石が溜まっている。その中に、青白く光る欠片が一つあった。
受付で見せてもらった見本に似ていた。
「雫石かな」
落ちている欠片なら採ってよいと聞いていたので、俺は浅い縁へ手を伸ばした。
拾い上げると、小指の先ほどしかない。濡れた表面を拭き、掌で包むと、指の間から淡い光が漏れた。
テッサとリオが顔を寄せる。
「いくらだろ」
「先に、合ってるか確かめないと」
リオに言われ、テッサが笑った。
俺は欠片を布へ包み、買った袋へ入れた。袋はほとんど軽いままだったが、空ではなくなった。
広間の奥から、また水音が聞こえる。
灯りを向けても、通路は曲がっていて先が見えなかった。
今日はここまでだ。
それを残念に思った自分に、少し驚いた。
「戻ったら、この先のこと聞こう」
俺が言うと、リオが地図を覗いた。
「次の広間まで?」
「うん。どんな道か、どんな魔物がいるか」
テッサが盾を持ち直した。
「じゃあ、明日も来るんだね」
「来たい」
今度は迷わず答えた。
俺たちは入口へ向き直った。帰り道を確かめながら、袋の中の小さな欠片が潰れていないか、一度だけ手を添えた。




