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幕間 確かめなかった一段

 前の人生で、取り返しがつかなかったことがある。


 死んだ時のことではない。


 そちらは今も思い出せない。だが、雨の匂いと、濡れた階段を見下ろした時のことは覚えていた。


 建物の入口で、知り合いを待っていた。


 名前も顔も、今では曖昧だ。同じ仕事をしていた相手だった気がする。俺より少し背が高く、急ぐ時には二段ずつ階段を下りる癖があった。


 その日、入口の照明が一つ消えていた。


 階段の端には雨水が入り、滑りやすくなっていた。俺は上がる時に一度、靴を滑らせている。


 転ばずに済んだので、そのまま通った。


 あとから相手が来て、俺を見つけた。


「こっちでいい?」


 そう聞かれた。


 別の出口を使えば、少し遠回りになる。俺たちは時間に余裕がなかった。


「大丈夫。さっき通れた」


 俺はそう答えた。


 通れたのは事実だった。


 滑らなかった、とは言っていない。


 相手は頷き、階段を下り始めた。途中で靴が鳴り、手すりへ伸ばした腕が空を掴んだ。


 倒れた時の音を、よく覚えている。


 駆け寄ると、相手は脚を押さえて動けずにいた。俺は何度も、大丈夫かと聞いた。


 さっき自分で言った言葉が、急に何の意味も持たなくなった。


 命に関わる怪我ではなかった。


 だが、脚の骨が折れていた。しばらく働けなくなり、楽しみにしていた予定も取りやめになった。


 後日、見舞いに行った。


「俺が滑っただけだよ」


 相手はそう言った。


 責められなかったからといって、気が楽にはならなかった。


 滑ると知っていた。


 ただ、言わなかった。


 自分が通れたことと、次の人も無事に通れることを、同じにしてしまった。


 それからは、何かを尋ねられるたび、一度考えるようになった。


 自分が見たのはどこまでか。確かめたのは何か。


 急いでいる相手に面倒な返事をして、嫌な顔をされたこともある。気にしすぎて、何も決められなくなったこともあった。


 慎重になれば、全部うまくいくわけではなかった。


 ◇


 宿の寝台で目を開けると、知らない天井があった。


 一瞬だけ戸惑い、それから街道の宿だと思い出す。窓の向こうから川の音が聞こえ、近くの寝台では誰かが寝返りを打った。


 夢に出てきた相手の顔は、もうはっきりしない。


 それでも、あの階段で何を言わなかったかは覚えている。


 俺は枕元の鞄へ触れた。


 その中には、リオと確かめた地図がある。テッサと数えた旅費がある。自分だけで決めなかったことが、いくつも入っている。


 明日も分からないことはあるだろう。


 その時は、分からないと言おう。見えたものは伝え、二人が見たものも聞こう。


 俺は鞄から手を離した。


 川の音を聞いているうちに、今度はゆっくり眠りへ戻っていった。

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