第40話 帰らない日の夕暮れ
ガルドの食堂へ入ると、玉葱を炒める匂いがした。
夕食には少し早い。厨房を覗くと、大きな背中が鍋の前にあった。俺は声をかけようとして、その脇に積まれた皿へ目を留めた。
「それ、棚ですか」
「おう」
返事を聞いてから皿を持ち上げる。乾ききっていない一枚だけ拭き、いつもの場所へ戻した。
「仕事に戻る気になったか?」
「今日は報告です」
ガルドが鍋を混ぜながら、こちらを見た。
「明日から、石雫の迷宮へ行ってきます。テッサとリオと、三人で」
「泊まりか」
「はい。道だけで二日近くかかるので」
ガルドは頷き、俺の肩に掛かった鞄へ目を向けた。
「ずいぶん膨らんだな」
「雨具とか、食料とか。持っていくものが多くて」
「着替えは上へ入れるなよ。飯を出すたびに落とすぞ」
俺は鞄を見下ろした。
まさに、一番上に着替えが入っている。
「……あとで詰め直します」
「その辺でやれ。通路は塞ぐな」
指された卓を借り、荷物を広げた。
ガルドは何も言わず、鍋へ向き直った。俺が食料と着替えを入れ替えている間にも、包丁の音が続く。
ここでは、俺が明日出発しても仕込みがある。皿を洗い、床を掃き、客へ料理を出す。
それが少し寂しくて、同じくらい安心した。
「向こうで何か食ったら、覚えてこい」
ガルドが言った。
「作り方ですか?」
「味だ。作り方まで分かるなら、聞いてもいいがな」
「美味くなかったら?」
「それも覚えとけ」
俺は笑って、鞄の口を閉じた。
そのあと食べた煮込みは、よく知っている味だった。底に残った汁までパンで拭い、きれいに食べた。
◇
翌朝、東門へ着くと、テッサとリオが並んで待っていた。
「遅い」
「まだ鐘は鳴ってないだろ」
「私たちは来てる」
反論はできるが、出発前からする話でもなかった。
テッサは大盾を背負い、リオは弓の弦を外して包んでいた。二人の鞄にも、丸めた雨具が留められている。
俺たちは顔を見合わせ、そのまま門をくぐった。
朝の街道には、荷車と徒歩の旅人がいた。最初は見慣れた畑が続き、仕事へ行く時とあまり変わらない。
違ったのは、林道へ曲がる場所を通り過ぎたことだった。
白筋草の生える沢へも、樹皮トカゲと戦った倒木の跡へも向かわない。俺たちは幅の広い街道を、その先へ進んだ。
「あの丘、越えるんだよね」
リオが地図と前方を見比べる。
「向こうに分岐があるはずだ」
「登ったら町、見えるかな」
テッサの言葉に、俺も少し歩調を上げた。
だが、坂は見た目より長かった。
登り切った頃には三人とも息が弾み、景色を見る前に水を飲むことになった。
振り返ると、リーヴェの外壁が低く見えた。水路の筋が光り、その先で二本の川が一つになる。
いつも歩いていた街が、両手の間に収まりそうだった。
「水道橋、どれ?」
テッサが目を細める。
「たぶん、あっち」
「たぶん?」
「下からしか見てないからな」
俺たちが知っている場所も、離れると見分けがつかなかった。
もう一度鞄を背負い、丘の向こうへ下りる。やがて町は見えなくなり、代わりに麦畑と赤い屋根の風車が現れた。
リオが風車を指して、村にも似たものがあったと話し始めた。
回っている羽根を見るのに夢中で、俺は道の石につまずきかけた。
「足元を見る人じゃなかった?」
テッサに言われる。
「景色も見たいんだよ」
「忙しいね」
本当に、その通りだった。
◇
昼は街道脇の休憩所で食べた。
屋根と長椅子だけの場所だったが、鞄を下ろすと肩が急に軽くなる。俺たちは干し肉とパンを出し、水袋を回した。
テッサが靴紐を緩めながら、地図を覗く。
「もう半分くらい?」
「今日泊まるところまでは、半分ちょっと」
リオの返事に、彼女は空を仰いだ。
「町の依頼って近かったんだね」
「帰ってからありがたみが分かりそうだな」
隣の長椅子には、籠を背負った年配の女が座っていた。俺たちの話を聞き、宿場まで行くなら石橋の先を右だと教えてくれる。
「左にも屋根は見えるけど、あれは粉挽き場だからね」
「ありがとうございます」
「宿の豆煮込みが残ってたら食べるといい。あそこのは腹にたまるよ」
急に、残り半分を歩く理由が増えた。
午後の道は川沿いだった。橋へ近づくにつれて荷車が増え、車輪の音に水音が重なる。
リオは道端の鳥を見つけるのが早かった。テッサは宿場までの距離を尋ねるのが早かった。
俺は二人の間で、見たことのないものを見つけては歩く速さを落としていた。
初めての遠征は、今のところ全員の得意なことが違った。
◇
石橋を渡った先に、宿場があった。
井戸を囲んで建物が並び、荷車を置く広場からは馬の匂いがする。低い屋根の宿へ入り、三人分の寝床を頼んだ時には、脚がまだ歩いているような感じが残っていた。
荷物を置き、顔と手を洗って食堂へ下りる。
豆煮込みは、まだあった。
浅い皿に盛られた白い豆の上へ、刻んだ燻製肉と緑の葉が散らされている。匙を入れると、思っていたよりとろりとしていた。
「酸っぱい」
テッサが驚いた顔をした。
俺も食べてみる。肉の塩気のあとに、軽い酸味が残った。疲れた身体には、それが妙に美味かった。
皿を運んできた女に聞くと、仕上げに果実酢を少し入れるのだという。
「うちじゃ、夏も冬もそうだよ」
俺は忘れないように、持ってきた紙の端へ書いた。
隣でリオが覗き込む。
「迷宮の記録?」
「夕飯の記録」
「それも書くんだ」
「帰ったら、聞かれるから」
テッサが皿を差し出した。
「美味しかった、も書いといて」
それは書かなくても覚えていられそうだった。
食事を終え、外へ出ると、空の端が橙色になっていた。
この時間なら、いつもはリーヴェへ戻る道を急いでいる。だが今日は、町へ帰らなくていい。
宿の場所も、明日の行き先も決まっている。
俺たちは石橋の上まで歩いた。
川面に窓の灯りが映り、流れに合わせて細長く揺れる。橋の向こうでは、まだ知らない土地へ続く街道が、木々の間へ消えていた。
「明日には着くね」
リオが言った。
俺は頷いた。迷宮で何が見つかるかは分からないが、ここまで来ただけでも、見たことのないものは随分増えた。
「楽しみ?」
テッサに聞かれ、少しだけ迷ってから答えた。
「かなり」
「私も」
リオも同じように頷いた。
しばらく三人で、川を眺めていた。
水門都市の水路で聞いていた水の音とは、少し違う。広い川の音だった。
俺は欄干から手を離し、二人と宿へ戻った。
明日はこの橋を渡って、さらに先へ行く。




