第26話 壁の向こうの響き
昨日、妙な音を聞いた坂へ戻ると、ガレスが槍の石突きで床を軽く打った。
硬い音が通路に響き、そのあとへ薄い響きが重なった。
「これか?」
「似ています。昨日は、足音のあとに聞こえました」
俺は袋の留め具を押さえた。昨夜、宿で荷物を一つずつ揺すってみたが、同じ音は出なかった。壁の向こうに何かあると分かったわけではない。それでも、また聞こえたことには少しほっとした。
セナが灯りを上げ、左側の壁を照らした。
灰色の岩肌は緩く膨らみ、上から下まで浅い筋が続いていた。目立つ穴はない。ガレスが位置を変えようとしたとき、坂の下で黒いものが走った。
前に見た、脚の長い虫だった。
一匹が壁際を横切り、その後ろから、ずっと大きなものが現れた。両手で抱える鍋ほどの胴に、折り畳まれた長い脚。黒い背が灯りを弾き、頭の下で二本の顎が開いた。
「裂き顎だ。小さいのも触るなよ」
ガレスが槍を前へ出した。
大きな個体は三匹いた。先頭の一匹が低く身を沈めたかと思うと、脚を伸ばして跳んだ。
ガレスの槍が、その腹の下へ入った。
男は突き上げず、横へ流すように身体を捌いた。黒い胴が床へ落ち、脚が石を掻く。もう一匹がその横を抜け、俺たちの方へ走ってきた。
「盾、前!」
ベックの声と同時に、テッサが俺の横へ出た。
俺は記録板を袋へ押し込み、短剣を抜いた。セナが後ろへ退き、灯りを高く掲げる。床に伸びた影が揺れた。
裂き顎が盾へぶつかった。
思っていたより重い音がした。テッサの肘が沈んだが、足は止まっていた。魔物は盾を登ろうと脚を伸ばし、滑り落ちると右へ回り込んだ。
そちらには壁があった。
テッサが盾を斜めに寄せ、俺の前に細い隙間を残した。
「ノル!」
俺は短剣を突き出した。
刃先が黒い背の端を掠め、硬いものに弾かれた。先端にわずかな手応えはあったが、深く入っていない。
裂き顎がこちらを向いた。
開いた顎が靴の先へ迫り、俺は慌てて足を引いた。踵が濡れた床に触れ、滑りかける。背中が冷たくなった。
もう一歩下がる前に、足元を見た。
右には浅い水溜まりがある。左の壁際には乾いた石が張り出していた。俺はそちらへ足を置き、身体を立て直した。
盾の縁が、魔物の頭を押し戻した。
「こっち、抜けさせない!」
テッサが腰を落とした。裂き顎は壁と盾の間で向きを変えようとし、長い脚を重ねた。背中へ突き立てても、さっきと同じになる。
俺は刃を少し下げた。
「脚の付け根を狙う。少しだけ押せるか」
「少しだけね!」
盾が前へ動き、魔物の胴が斜めになった。片側の脚が伸び、硬い背の下に薄い節が見えた。
今度は腕だけで突かなかった。足を置いたまま膝を曲げ、短剣の先を隙間へ差し込む。
刃が入った。
裂き顎が暴れ、手首を捻られそうになった。柄を握り締め、引き抜く。黒い脚が俺の袖を掻いたが、身体は盾に遮られていた。
「下がって!」
テッサの声で刃を引くと、小型棍棒が振り下ろされた。
頭の脇を打たれた裂き顎が倒れた。まだ脚が動いていたので、俺たちはすぐには近づかなかった。やがて動きが弱まり、盾を少し離しても起き上がらなくなった。
自分の息が、やけにうるさかった。
顔を上げると、ガレスは二匹目に槍を向け、後ろへ押し返していた。ベックがセナの脇から回り込み、逃げ道を塞ぐ。魔物が向きを変えたところで剣が落ち、黒い胴が床へ伏せた。
俺たちが一匹を相手にしている間に、向こうはもう終わっていた。
「腕、見せろ」
ベックに言われ、俺は袖を持ち上げた。布には引っかいた跡があったが、皮膚までは届いていなかった。
「平気です」
「なら、刃を拭け。鞘へはそのあとだ」
俺は頷き、布を出した。指が少し震えていたが、短剣は落とさなかった。
テッサが盾越しに俺を見た。
「一回目、硬そうなところに当てたね」
「相手が柔らかいところを出してくれなかった」
「頼んでも、出さないと思う」
笑うと、詰まっていた息が少し抜けた。
そのとき、壁際で小さな脚が動いた。
最初に見た小型の個体が、左の岩肌を伝って走っていた。俺は反射的に短剣を持ち直したが、そいつは俺たちへ向かってこなかった。
壁の膨らみに沿って進み、その端で消えた。
「あそこ」
俺は指を向けた。
「今、壁の裏へ入りました」
ガレスが灯りを受け取り、俺の示した場所へ回った。正面からは一枚の壁に見えた岩が、斜めに見ると、奥の壁に重なっている。
その間に、黒い縦の隙間があった。
男が槍先を差し入れた。途中で止まると思った柄が、そのまま奥へ進んだ。
「深いな。身体も通せそうだ」
セナが俺の記録板を開いた。昨日、音を聞いた場所を示す二つの印が、岩の膨らみに沿って並んでいた。
「通路へ返ってくる音に、こちらからの響きも重なっていたのかもしれませんね」
俺は隙間を覗いた。灯りが手前の岩に遮られ、奥までは見えない。
音だけを聞いていたときには、壁のどこを見ればいいかさえ分からなかった。小さな魔物が走らなければ、今日も前を通り過ぎていたかもしれない。
ガレスは床を確かめると、身体を横にして隙間へ入った。槍の先と灯りがゆっくり奥へ消え、すぐに声が返ってきた。
「向こうで広がってる。短い通路だ」
ベックがセナと目を合わせ、時計を確かめた。
「入口を見に行く。今日はその先を追いすぎんぞ」
テッサが盾を身体へ寄せ、隙間の幅を見た。
「私も通れるかな」
「盾を斜めにすれば」
「私じゃなくて、盾の心配してた?」
「だいたい同じ幅だからな」
彼女に肘で軽く突かれた。
俺は拭いた短剣を鞘へ戻し、記録板を袋へ収めた。地図では壁だった場所に、ガレスの灯りが揺れている。
隙間の向こうから冷たい空気が流れてきた。今度は、自分の足で確かめに行ける道だった。




