第16話 最初の岩潜り
採石場の仕事が止まっても、採石場で働く人の仕事までなくなるわけではなかった。
通れなくなった道から荷車を移し、倉庫の資材を安全な場所へ運ぶ。俺たちがその朝頼まれたのは、西の作業小屋に残っている道具の搬出だった。入れるのはベックが確かめた道だけで、奥の石置き場と古い坑道には近づかない。
「一本ずつ持つな。まとめて縛って、二人で運べ」
ベックに言われ、俺とテッサは替え柄の束に縄を回した。近くでは、ラズとミトが空の木箱を重ねている。
石を割る作業は今日も止まっていた。聞こえるのは、道具を積む音と人の声くらいだ。その分、足の下で何かが動いていないか、昨日より気になった。
「そっち、持てる?」
テッサが束の反対側を持ち上げた。
「持てる。歩く方は、ゆっくり頼む」
「昨日も歩いたのに?」
「昨日歩いた分、今日の足が減ってる」
彼女は笑い、俺に合わせて歩き出した。
小屋から荷車までは、二十歩ほどだった。途中に大きな平石が埋まっていて、その脇だけ道が狭い。俺たちは平石を避け、荷車の後ろへ柄の束を置いた。
腰を伸ばしたとき、左の靴底に細かな震えが触れた。
すぐに足を浮かせ、置き直す。荷車は止まっていた。誰も槌を使っていない。もう一度感じようとしたところで、平石の端から砂がわずかにこぼれた。
「ベックさん。今、こっちが――」
左を指した俺の声を、乾いた破裂音が遮った。
崩れたのは、右手の石屑の山だった。
積もっていた欠片が外側へ押し出され、灰色の背が持ち上がる。最初は大きな岩が転がったように見えた。それが短い前脚を地面につき、土の中から頭を抜いたとき、ようやく生き物の形になった。
犬より低く、ずっと横幅があった。背中には岩片のような硬い板が重なり、頭の先は楔に似ている。前脚の爪が石を掻くたび、細かな破片が足元へ散った。
「全員、荷物を置け。東の坂へ下がれ!」
ベックが叫んだ。
俺は荷車の脇で止まっていた。左だと思ったものが、右にいる。その食い違いを考えているうちに、テッサが俺の腕を引いた。
「ノル、こっち!」
彼女は荷車に立てかけていた盾を取り、身体の前へ回した。俺も後ろを見てから下がる。さっき運んだ柄の束が踵に当たり、跨ごうとして、横へ避けた。
講習で何度も足を引っかけたときと同じだった。目の前のものだけ見ていると、足元が消える。
岩潜りは頭を左右に振り、前脚を石屑から引き抜いた。こちらへ向き直る動きは鈍く見えたが、肩が持ち上がった直後、身体が一気に前へ滑った。
爪が荷車の車輪に当たり、木が裂けた。
俺たちがさっきまで立っていた場所だった。
「盾で受けるな。離れろ」
ベックはテッサの横へ出て、剣を抜いた。それでも前には進まず、俺たちが下がるのと同じだけ後退していた。
作業小屋の方から、木箱の落ちる音がした。ミトが箱を放し、その向こうで作業員がしゃがみ込んでいる。散らばった楔を拾おうとしていた。
「道具は置け!」
「これだけでも――」
「手を離して歩け!」
ベックの声に、作業員が顔を上げた。ラズがその肘を掴み、立たせる。二人が走り出したのを見て、ベックは俺たちにも下がるよう手を振った。
岩潜りは壊れた車輪に頭を押しつけていた。荷車が傾き、積んでいた木箱が落ちる。俺はその間に距離を取ったが、何が気を引いているのか考える余裕はなかった。
東の坂の入口で、ミトの姿が見えなくなった。
振り返ると、小屋の角で立ち止まり、胸元と腰を交互に探っている。
「板が。記録の板、置いてきた」
「あとでいい!」
俺が言うより早く、テッサが呼んだ。
ミトは小屋へ半歩戻りかけていたが、顔を歪め、そのままこちらへ走ってきた。俺たちは坂へ入り、互いの足にぶつからないよう間を空けて上った。
最後にベックが来た。剣は抜いたままで、ときどき下を振り返っている。
坂の途中から見下ろすと、岩潜りの背中が荷車の陰を横切った。石屑が崩れ、灰色の板が低く沈む。そのあとには、傾いた荷車と、掻き返された土しか見えなくなった。
「潜った……?」
足を緩めかけたラズを、ベックが先へ行かせた。
「見えなくなっただけだ。止まるな」
入口の広場まで戻ると、ベックは俺たちを離れた場所へ集め、人数を数えた。作業員が二人、俺たちが四人。それぞれに怪我がないか答えさせてから、見張りに笛を吹かせ、西側へ続く道を閉じた。
俺はそこで初めて、短剣を一度も抜いていなかったことに気づいた。
柄には触っていた。だが、抜いたところで、あの背中のどこへ当てればいいのか分からなかった。
「やれなかったんですか」
ラズがベックに尋ねた。責めるような口調ではなく、本当に不思議そうだった。
ベックは剣を収める前に、刃に土がついていないか確かめた。
「一匹かどうかも分からん。地面がどこまで保つかも分からん。お前らと作業員を置いて、追い回せるか」
「でも、向き直るときは遅かったし」
「その次に車輪が割れたのも見ただろう」
ラズは黙った。
ベックは俺の方を向いた。
「さっき、何が分かった」
「足の下が震えて、石の脇から砂が落ちました。左だと思ったんですけど、出たのは右で」
「感じた場所と、いる場所が同じとは限らん。次も気づいたら言え。ただし、場所を決めつけるな」
俺は頷いた。少し早く気づいても、逆を向いていたら、その分だけ逃げるのが遅くなる。足元を気にするだけで安全になるほど、簡単ではなかった。
その日の搬出は中止になった。
ミトが記録板のことを謝ると、ベックは、覚えている範囲をここで書き直せと言った。作業員は失くした楔の数を指で数えかけ、途中で手を下ろした。
テッサは盾を地面に置き、持ち手を握っていた指を伸ばしていた。
「受けなくてよかった」
小さく言ったので、俺も壊れた車輪を思い出して頷いた。
少し離れたところで、ラズがミトに話しかけていた。
「あの背中じゃ、剣は通らないな。けど、腹の方なら……」
「見えなかっただろ、腹なんて」
「だから、見えたらって話だよ」
ラズは笑った。俺は笑う気になれず、靴についた土を払った。
姿を見る前より、分からないことが増えていた。ベックが迷わず下がれと言ったことだけは、今ならよく分かった。




