第八話 濃霧
道を引き返し始めてから、二十分ほど歩いた頃だっただろうか。
赤い空は変わらず頭上に広がっており、風が吹くたびにあのキィィ……という不快な音が響く。
来た時と変わらぬ同じ景色……そう、同じはずだった。
しかし、急に将明は足を止めた。
火口に来るまでまっすぐだったはずなのに、道が分かれていたのである。
「……あれ?」
右に左に道が枝分かれしていたが、来る時にはこのような分岐なんてなかった。
休憩を挟みながら歩いていたからこそ周囲の景色をよく見ていたし、分岐があれば目につくはずである。
なのに――どうして?
右の道は将明が来た方向とは微妙に角度が違ったように思え、左の道は来た道の続きのように見える。
果たして、どちらが正解だろうか。
「……んだよ、コレ。こんなん左だろ左!常識的に考えて普通に!」
内心の動揺をかき消すかのように叫びながら将明は左を選んだ。
そこから五分ほど歩くと今度は道が右にカーブしていき……その先にまた分岐があった。
「……また?」
今度は左と右の二本を前に、将明は立ち止まった。
……いや、そもそも来た時にこんなカーブはなかったはずである。
道はどこまでもまっすぐであり、緩やかな弧を描いていたが急カーブなどではなかった。
……引き返すか?
転売ヤーとして損切りもある程度は大事なのだが、将明には先ほど自分が選ばなかった道がどうしてもあからさまにおかしい分岐にしか思えず、アレが正しいとは思えなかった。
そういう意味では、急カーブながらもどちらも平坦な目の前の左右の道の方が、洞窟に帰還するための道に繋がっているように将明には感じられていた。
舌打ちをしながらも将明は直感で右の道を選び、歩き始めていく……。
十分歩くと道が細くなり、崖に張り付くような幅となっていた。
おまけに足元の岩が濡れており、心なしか滑りやすい。
「クソッ」
――こんなはずじゃなかった。
そんな想いを呑み込みながら将明は前を向くと、細い道の先に道が広がる場所が見えてきた。
あそこまで行けば何か分かるかもしれない……と思案しながら、重い足取りで歩を進めていく。
道は広がることなく――それどころか、別の分岐の連続が続くだけであった。
――左、右、左。
選んだ→歩いた→分岐→選んだ→歩いた→分岐。
三十分前には帰路につくはずだったにも関わらず、あれよ、あれよという間に分岐の迷路へと飲み込まれていた。
来たはずの道が来た道でなく、記憶にある景色と目の前の景色が微妙にズレている。
将明は何度も立ち止まって周囲を見回し、目印になるものを探したものの……突出した岩、蜘蛛の巣の張り方、崖の高さ。
しかし、どれも似てはいても決定的な違いを見つけられなかった。
この山岳地帯の風景は変化に乏しく、一箇所と別の箇所の区別がつかなかった。
デーツを一つ食べると、甘さが口に広がった。
焦燥で乾いた喉に果汁が染みたが……これで、残り一つ。
「落ち着け俺。落ち着け」
冷静になろうと自分に言い聞かせる将明。
わかっている。
転売ヤーは決して焦らず、相場が急変してもパニック売りなど行わない。
しかしここは相場市場ではなく、将明を支えていたデータもランキングも入札履歴も何も存在しない……あるのは赤い空と蜘蛛の巣と分岐だけだ。
将明はなおも道を歩き続けるが――。
「嘘だろ」
目の前にあるのは――崖。
道は途切れており、下を見ると蜘蛛の巣が崖面を覆っているが……圧倒的な”断絶”を意味する崖、崖、崖。
将明は踵を返して戻った。
さっきの分岐まで戻ると右ではなく左を選び直して歩きはじめる。
分岐。
右。
左。
右。
――ひたすらに、歩く。
……そうして、どれくらい歩いたか分からなくなった頃であった。
赤い空が白くなっている。
いや空の色が変わったのではなく、空が霞んでいる。
やがて白い靄が視界の隅からじわじわと……しかし、急速に侵入してきていた。
最初は遠くの山の輪郭がぼやけ、次に中距離の岩壁が輪郭を失ったかと思えば――いつの間にか、気がつけば五メートル先が白く霞んでいた。
それは突如発生した霧であった。
赤い空の光を白く拡散する霧が湿った空気を帯びて肌へとまとわりつく。
視界が狭まったかと思うと、三メートル先が見えなくなり……二メートル、一メートルとすべての輪郭が失われていく。
「おいおいおい!!」
将明は壁に手をつけながら叫ぶ。
白い靄が視界を埋め尽くしているため目はもうほとんど役に立たず、岩の冷たさだけが感覚の頼りだった。
歩くのを止めるべきだった。
霧の中で歩けば道を外れ、最悪の場合は崖から落ちるかもしれない。
しかし突然のことに戸惑った将明は、この異常事態から少しでも遠いところに離れようと壁に手をついたまま歩き出してしまった。
一歩、また一歩と岩の感触を頼りに壁伝いに進んでいく。
そんな彼をあざ笑うかのように霧がさらに濃くなる。
「……勘弁しろよぉ~~~ッ!!」
声が出るが反響することなく霧にでも吸い込まれたかのように消えた。
そうしてから、どれくらい経っただろう。
ふと顔に当たる空気の流れが変わった。
霧の湿気が薄れ、肌に当たる温度が徐々に上がっていく。
光がまぶたを透過した感覚とともに――将明は目を開けた。




