第七話 火口
崖沿いの細い道は思いのほか安全であった。
足場は岩盤が削られてできた水平な道で幅も安定しており、こんな場所で天気の変化があるのかもわからないが――雨風で削られたかのように崩れている箇所なども特になかった。
時折、崖下から吹き上がる風が蜘蛛の巣を震わせキィィ……と泣かせたが、その音も耳に馴染んでしまえば風景の一部に過ぎない。
道はほとんどまっすぐであり、時折緩やかな弧を描きながら山肌に沿って続いている。
将明は休憩を取りながら進み、ジャージに包んだデーツを一つかじりその甘さで歩き疲れを誤魔化す。
カレーの匂いは歩くほどに強くなっていき、風向きのせいで強弱はあるものの、大元に向かっていることだけは確かであった。
周囲の景色を観察しながら歩くと奇妙なことに崖の斜面にはところどころに大きな岩が突き出し、その形状はやはり自然の侵食ではできまいと思わせるほど人工的だった。
まるで巨大な骨組みを土と岩で覆ったような造形かつ、一つ一つが異質であるほど全体としては壮観で赤い空を背景にした山岳の連なりは幻想的ですらあった。
「SNS映え……駄目だ。今はもうAIなんかで生成したことを疑われそうな景色だな、こりゃ」
そのように益体もなくひとりごちる将明。
無論、誰もいるはずなどないので笑う者などいなかった。
一時間ほど歩いた頃だろうか。
道の前方に低い丘のようなものが見えてきた。
丘の上が平らに開けており、そこから湯気のようなものが立ち上っている……。
そこを起点に、カレーの匂いが明確に濃くなっているのが伝わってくる。
将明は歩を進めて丘への登り坂を行くと次第に光景が開け、頂上に達した時に見渡すことができた。
「なんだこりゃあ……」
思わず声が漏れる
目の前に数十メートルはあろうかという大きな窪地があった。
中央が深く落ち込み縁は焦げ茶色の岩がリング状に盛り上がっており、窪地の底は赤黒い液体で満たされながらボコボコと泡が浮かび上がっていた。
まさに火山口――なのだが、こんな至近距離から覗いているにも関わらず、熱さというものを全く感じなかった。
まぁ、これだけイミテーション染みたモノや風景があふれた空間で、火山口だけが本物というのも変な話かもしれないが……。
地面の穴から赤黒い何かが激しく沸騰している。
溶岩ほど熱そうではないが触ればただでは済まない何かという雰囲気らしきものはあった。
時々、底から大きな泡が持ち上がり溶岩の表面で弾けると湯気のようなものが上がり、その湯気からカレーの匂いが漂っていた。
しかし将明が目を奪われたのは火山口そのものではなかった。
――いくつもの泡だ。
小さい泡は溶岩の表面で弾けて消えるだけだったが中には弾けずに排出されるかのように、空気に乗ってフワリと浮かび上がるものがあった。
それは普通の泡ではなく、蛙の卵を包む透明なゼリーないし何かを覆う膜のような、それでいて完全な球形を保った形を保っていた。
一つ一つが小さなシャボン玉のように宙へ上がっていく中、赤い空の光を受けて泡の表面が虹色に揺らめいた。
目を凝らしながら将明が泡の中を見つめる。
そこには――信じられないことに、カレーライスが映っていた。
スプーンが乗せられた皿の上に大盛りの白飯とその上を覆うようにかかったカレーのルー、そして、ごろりと角切りの野菜が透けて見えた。
将明は数秒、泡をぼんやりと眺めていた。
半ばなんとなくとはいえカレーに類する何かがあると思っていたが、それでも自分の目でみたものが信じられなかった。
カレーの皿を閉じ込めた泡がいくつもいくつも火山口から浮かび上がりふわふわと空へ漂いながら消えていく……。
そんな中、泡の一つが彼のいる方に向かって流れてきた。
将明は慌てたように足元に落ちていたプラスチックの質感の小枝を拾うと、突き刺すように泡に向けてゆっくりと伸ばす。
「待て待て待て……ってぇッ!!」
口の中で呟きながら狙いを定めた。
枝の先端が、泡に触れる。
――パチン!
耳障りではないしかし明確な破裂音がして、泡が弾けた。
泡の中から出現したカレーが入った皿を反射的に受け止める将明。
彼の両手の中に納まったそれは、まぎれもなく本物の――ちゃんと熱さが感じられるカレーであった。
「マジかよ……」
将明は地面に座りながら、スプーンでそっとルーを掬った。
匂いも間違いなく本物であり、飢えた五感が総動員で『コレは食える』と告げていた。
いや食えるという言葉ですら生ぬるく、もはや警告に近い欲求が腹の底から突き上げてくる。
気が付くと、無我夢中でがつがつと食べ始めた。
「うっま……!!」
一口目で涙が出るほどの、単なるなつかしさとも違う人生で味わったことのない極上のカレーであった。
ご飯が白く柔らかく、一粒一粒がルーに絡む。
牛肉がとろけているし、玉ねぎの甘みと一味違う辛味が舌を刺したかと思えば、香辛料の複雑な香りが鼻から抜けていく。
デーツの甘さで疲弊した胃袋に、塩気と油分が染みわたる。
掘削のようにスプーンが皿を削るのと引き換えに、口の中を満たしていく熱さと美味さ。
この世界に来て初めて口にする温かい食事に、無心で将明は食べ続けていく――。
「っ、はあ……!」
食べた、食べた、食べ続けた。
皿が空になるまで、顔を上げることなくスプーンを動かす。
最後の一掬いを口に運び、深く息をついた――その時。
火山口からまた泡が浮かび上がり、風に乗って将明の近くに不意に流れてきた。
気がつくと将明は反射的に枝を伸ばして泡を突いた。
パチンと弾けた泡から二皿目のカレーライスが落ちると、彼はそれをまたハシッ!と受け止めた。
思わず指が震える。
「え、待って」
泡がまた浮かぶ→弾ければカレーが出る→また浮かぶ→またカレー→浮かぶ→カレー。
泡がいくつも火山口から上がっているが、その中には将明の場所からでも皿の中まで見えるものがいくつもあった。
将明は二皿目を腹に収めながら、火山口を見つめる。
泡は絶え間なくボコボコ沸き立ち、そのまま次々と空に上がる。
「これ……ひょっとしなくても、いくらでもおかわりできるんじゃ……?」
自分でもわかるほどに間の抜けた声が出ていた。
さっきまで恐怖と孤独に震えていた男の声とは思えなかったが、そんなことが気にならなくなるくらいに、腹が満たされスパイスが脳を刺激し、何よりも温かい食事を摂取したことで、思考が一気に明るくなっていた。
「はしゃぐわ、こりゃ……!!」
そう呟いて、将明は空を見上げる。
赤い空に浮かぶいくつもの泡。
カレー皿を閉じ込めた泡たちがまるで逆さの流星群のように山岳地帯の空を漂っていた。
「……転売できんかなあ、あれ」
本気が冗談か自分でも分からなかった。
カレーが無限に湧く火山口はまさに食料の安定供給源を実現していた。
これが現世にあったら転売どころじゃない揺るぎない一大産業になったことだろう。
だが、そこで将明は笑った。
「……いやいや。誰が食うんだよ、こんなとこのカレー」
一人きりの山岳で赤い空の下、転売ランカーだった男はクツクツと笑った。
笑い声は火山口の泡の弾ける音に混ざって誰の耳にも届かずに消えていった。
三皿目を食べ終えた時点で将明は手を止めた。
満腹を通り越して微かな食後の倦怠感が襲ってきていた。
デーツの甘さで偏っていた栄養バランスがカレーの塩気と油分で補充されたせいか体が急激に眠気を覚えてきたようだ。
しかし今は眠る場合ではない。火山口の傍で野宿するわけにはいかない。あの泡が夜間も湧き続けるのかどうか分からないし何より作り物めいているとはいえ、火山口のそばで寝るのは賢明ではなかった。
――とりあえず、いったん帰還しよう。
将明は食べ終わった空の皿を地面に置くと、そのまま来た道を戻る。
火山口から洞窟の出口までは歩いて一時間であり、道はほぼ一本道であった。
「よし」
将明は立ち上がると、ジャージのポケットの中のデーツを確認した。
ここに来るまでにもつまんでいたからか、残りは二個。
まあカレーが湧く火山口の横を通るわけだから食料には事欠かないが、一応念のためだ。
そう判断しながら、将明は火口に背を向けて歩き出した。




