第六話 山岳
洞窟の外を出ると、真っ先に眩んだ赤い光が視界を染め尽くした。
数秒間、何も見えなかったが網膜が順応するのを待ってから瞼を開くと……ゆっくりと風景が浮かび上がってくる。
最初に見えたのは赤い空であった。
どこまでも続く均一な赤と雲はおろか太陽らしき光源も見当たらない空。
ジャングルの空は気にならない程度にはまだ青空らしさはあったが、恐らくこの赤い空同様にこの世界の大半が作り物染みているに違いなかった。
次に将明の目に入ったのは遠くに見える巨大な山であった。
山岳地帯ともいえるそれは、見下ろすと切り立った崖が下方へと続き、見上げるとさらに高い岩壁が聳え立っている。
赤い空を背にした山々のシルエットが不気味なほど整っていた。
中央だけが突出した高さを誇るその山の形は、赤い空を背景にしていることもあって血染めの王冠のような形だと将明は感じていた。
ここに来て、どうやら洞窟の出口は山道に続いているのだと実感した将明は、崖の縁に立って眼下を見下ろす。
「なんだありゃ」
思わず息を呑んだが、それも無理はないことだろう。
崖から下、一面を覆い尽くすように広がる何かがあった。
白い巨大な網目状の構造物は、安全ネットのように崖壁を伝いながら谷間を埋め、斜面を覆っていたそれは――さながら、巨大な蜘蛛の巣そのものであった。
糸は太く、張り巡らされた糸は赤い空の光を受けて白く発光している。
網の目は等間間隔ではなく不規則で、ところどころで糸が絡み合い結び目を作っている。全体としてはネットのように見えるが、その規模は想像を絶していた。
目に見える範囲の崖面すべてがこの網で覆われていた。
「蜘蛛は……どう見ても、いないよな」
将明は網の上に目を凝らしたが、これまで同様に動くものは皆無であった。
糸の結び目に何かが絡んでいるかと思ったが、それは枯れ葉のような薄い片で、生物の残骸ではなかった。
それどころか、糸と糸の合間が結構粗い……というか隙間がガバガバに空いているため(ジャングル同様にまったく生物の気配がしないとはいえ)、これでは落下してきた獲物すら上手く捕まえることが出来ずにそのまま素通りして落下してしまいそうな構造である。
このネットに何の意味があるのか、いよいよ持ってまったくわけがわからない。
そのように思案していると、ふと風が吹いた。
……キィィィィィィィィィィィッ。
まるで猫の爪でガラスを引っ掻いたような不快な音であった。
風によって紡がれる耳の奥を直接こそぐような不快な音が、心の奥を盛大に掻き乱していく。
……キィィィッ。
生物が本能的に嫌悪するような、人間が危険を感知するために備え持った警報音のような響き。
風が鳴りやむと同時に音も消えたが、将明は顔をしかめながら不快なこの場所から引き返そうと洞窟の方へ向かおうとしていた――そのときであった。
ふと、無意識で鼻が動いたかと思うと、その匂いを確かめるように一度、二度、三度……と足を止めて嗅ぎ始めていた。
――間違いない、これは……。
「カレー……なのか!?」
そのように驚愕する将明。
彼が言う通り、あまりにも強烈なスパイスの香りが、風に乗って漂ってきていたのである。
ターメリックとコリアンダーとクミンが混ざり合った、鼻腔の奥を直接刺激するあの匂い。
玉ねぎがよく炒められたルーの深みのある香り。
不快な風の音が気にならなくなるくらいに、将明の胃はそれらを前に反応していた。
デーツの甘さで満たされたはずの胃袋が、カレーの匂いを嗅いだ瞬間に別の空腹感を訴える。
甘いものに対する渇望とも異なる、塩気と油分とスパイスに対する生理的な欲求。
人間の体は糖分だけでは生きられない。
人体には――いや、この世界には塩が、脂が、タンパク質が必要なのだと細胞全体で叫んでいるかのようであった。
「……マジのマジもんかよ……!!」
転売時代の在庫にあったボンカレーの箱買いや業務スーパーのレトルトカレーといったそれらの存在を克明に思い出す。
安価なカレーの匂いなどではない、もっと深く、もっと複雑で、粉末ルーではなくスパイスから仕込んだようなもっと本格的なカレーの匂い。
どうやらこの根源は、自身の前に見えるまっすぐな一本道の先にあるようだ。
将明は背後にある洞窟の出口を振り返る。
あそこを戻ればデーツが湧き出る洞窟や水が飲める泉、そしてジャングルにある岩の裂け目から現世に戻ることもできる。
戻る道はしっかりと確保されている以上、ここで進んでヤバくなったところですぐに引き返せる。
考えてみればあのジャングルも当然おかしな場所ではあるが――それでもこのエリアは、まだ探索をロクにしていない現時点で何もかもが不気味かつ不快さや不穏さに満ちている。
それでも、カレーが醸し出す懐かしさと何より内から湧き出る好奇心には勝てそうになかった。
それらに後押しされながら、将明を山道を進み始めていく。
「危なくなったら戻ればいい」
昨日自分に言った言葉をもう一度反芻する将明。
崖の縁に沿った細い道を、カレーの匂いに向かってしっかりと歩を進めていく。
……キィィィィ。
風が吹くと同時にあの不気味な音色が響き渡るが、もはや気にならなかった。
ポケットの中で持ってきたデーツがころころと揺れる。
血染めを連想させるような赤い空が広がる下で、転売ランカー三位の男は好奇心に導かれるままカレーの匂いを追って山岳地帯の奥へと歩いていく。




