第五話 洞窟
泉に沿うような形で歩きながら、将明は洞窟の前へと辿り着いた。
近くで見上げるとそこそこ大きく、内部は真っ暗ではなく何かが光っているのように見える。
どうやらそれは壁面のようであった。
洞窟の壁に淡い光を発する苔のようなものが付着しているが、またしても生物の気配はない。
ただ青白く発光する何かが、洞窟の奥へ続く道を照らし出していた。
将明は慎重に一歩踏み入れていく……。
空気が冷たく、外のジャングルよりも数度低い。
肌にまとわりつく湿気を感じながら、呼吸音がやけに大きく聞こえるのは、洞窟が音を反響させるからだろうか。
足を進めるごとに青白い光が強くなっていくように感じる。
天井から垂れ下がる鍾乳石のようなものは手を触れると表面がつるりとしており、やはりプラスチックに似ている。
どれくらい進んだか見当もつかないほどに歩いていく。
ジャングル内の探索に続いて、先が見えない洞窟内によって時間感覚は狂わされた将明は目に見えて疲弊していた。
喉はさっき飲んだ泉の水で辛うじて潤っていたが、空腹を感じ始めていた――まさにその時。
ふと、足元に違和感を覚えた。
地面の柔らかさを感じたかと思うと、洞窟内の硬い土の床から腐葉土のような質感に変化していた。
足を踏みしめるたびにふかふかと沈む。粘り気のある土の匂いが目の前に立ち昇っていく……。
「なんだ……?」
地面が盛り上がっていたが……よく見ると、土の中から何かが突き出している。
茶色い小判型の実にしか思えないものが、土から顔をのぞかせていた。
……あのジャングルの”植物”ともいえぬ人工物らしきものと同じ代物だろうか?
将明がしゃがみ込んで手を伸ばすと、ゆっくりとその物体に触れた。
ごわごわした皮の感触に乾燥した実の表面、軽く指で押すと中に弾力があり嗅いでみると甘い匂いがした。
「これは、ナツメヤシ……?」
確信はなかったが……しかし、見覚えがあった。
高級スーパーのドライフルーツ売り場や、ネット通販では中東産のデーツが高値で売買されている――将明は食料の転売も手掛けていた時期があったから、この形と質感を知っていた。
「……デーツじゃん。これ、デーツじゃん!!」
将明が声に出すのとほぼ同時に、地面が動き始めた。
――モリモリモリモリ。
そんな音を感じさせるかのように、実際に土が盛り上がっていく。
将明の目の前の地面がうごめくように隆起したかと思うと、その頂点から押し出されるように実だけが熟した果実だけが、地面の下からドンドン湧き出てくる。
モリモリモリモリモリ。
始まりは一箇所だったが次第に複数の地点で同時に起き始め、将明の足元の地面がまるで饅頭だかを押し出す蒸し器のようにぶつぶつと地面からデーツを出現させている。
将明は恐怖を覚えるべきだったのかもしれなかったのかもしれない。
だが彼の胸に去来したのはそういった感情などではなく、空腹と安堵であった。
「食べ物が……湧いてる……」
将明は地面から突き出た一つの実をひっこ抜く。
柔らかく熟し、しわが寄っている皮ごと指で割ると中からねっとりとした黒褐色の果肉が現れた。
甘い香りが鼻の奥まで届き、ドライフルーツのような凝縮された甘さの香りではなく生の果実が持つみずみずしい香りがそこかしこに漂う。
ここまで来れば人工物など疑う余地などなく、ためらうことなく口の中へと入れる。
強烈に甘さとねっとりした食感、後から追いかけてくる微かな酸味……まぎれもないデーツの風味が口いっぱいに広がっていく。
「うんま……」
意図せずして声が漏れ、目からは涙が出てしまった。
食事の味で涙が出たことなんて……果たして、自分の人生であっただろうか?
面倒くさくてカップラーメンとコンビニ弁当で生きてきた男には、あまりにも不釣り合いなほどの甘美な味であった。
その間も地面からは欠けた分を補充するかのようにモリモリと実が湧き続けてきたため、将明は次々とそれを摘み取っては口内へと放り込む。
口の周りを果汁で汚しながらむしゃぶりついたため何個食べたのは覚えていないが、腹が膨れるまで食べ続けた。
皮だけが足元に散らばる段階になって、ようやく満腹になった。
洞窟の青白い光が横になった将明と新たに補充されたいくつものデーツの実を照らしている(デーツは食べるのをやめた時点で湧き出なくなっていた。量の制限でもあるのだろうか?)。
「ここで……暮らしていけるかもな」
将明はひとり呟く。
水が飲みたければ泉があるし、この洞窟内であればいくらでもデーツが湧いて出る。
プラスチックのジャングルの奥にはあの岩があり、そこから現世に戻ろうと思えばいつでも出来る。
それに何より、この場には警官や検非違使や――こちらを裏切ったオホゴエ運営事務局やテツのような自分の脅威となり得る者が皆無なことが素晴らしかった。
オホゴエのランキングも盗品騒動も、摘発騒動も国民の怒りもテツの死体も――何もかもが遠い世界の出来事であった。
将明は仰向けに寝転がりながら青白く光る洞窟の天井を眺めてフフッ……と笑う。
「転売……してぇな~」
呟いた後でこの場所には脅威と同じく転売する相手などいないことに気づいた。
当然である。
なんせ人間どころか生物すらまったくいないのだ。
こんな場所で需要も供給もへったくれもないだろう。
急に空恐ろしいものを感じてしまった将明の顔から、少しずつ笑みが消えていく……。
そんな最中、仰向けになっていた将明の視界に唐突にそれが入ってきた。
天井の青白い発光体ではない、洞窟の深部。
――赤。
暗い赤が脈動するように存在を主張している赤い光だった。
体を起こして目を細めた将明は、壁面の青白い苔光が及ばない領域を別の何かが照らしているのをはっきりと認識していた。
「なんだありゃ……」
膝についた土を払いながら立ち上がり、洞窟の奥を見据えながら好奇心と現実的計算の間で将明は静かに思案する。
――この場所に留まれば、生存に必要な条件は満たされているため安全地帯としてはなんら過不足ない。
……潜伏生活をする上では全く問題はない、が。
「……正直、毎食デーツはなあ……」
口の中に広がる甘さが、すでに胃の奥から逆流しかけていた。
甘いものを腹いっぱい食べた後特有の胸焼けを感じて少しばかり苦しい。
デーツは高カロリーで栄養価は高いものの、人間の食事として毎食摂取するには糖分が強すぎる。
ましてや、昨日までカップラーメンとコンビニ弁当で生きてきた男の胃袋には、いささか刺激が強すぎるというものだろう。
――あの赤い光の向こうに、何かあるかもしれない。
将明は退屈だったのに加えて自身の欲望に正直なこともあり、半ばこれからの選択は決まっているようなものであった。
この空間に転がり込んでからまだ数時間しか経っていないが、将明は人間の声も環境音もスマートフォンの通知音もオホゴエの出品ページの更新も入札履歴の変動ないしランキングの推移も存在せず、そういった将明の人生を構成していたあらゆる刺激が欠落した空間がもたらす静寂を前に、彼の精神は飢えきっていた。
そんな中であの赤い光はこの世界における唯一の変化であり、将明の注意を引く数少ない外部情報がもたらす刺激であった。
「まぁ、危なくなったらあの岩があるから戻ればいいだけだし……大丈夫だろ」
独り言は誰に言ったものでもなく、どちらかと言うと自分自身を納得させるためだけの確認作業であった。
洞窟の入口から岩までは走れば数分くらいで行けるはずだし、何か異変を感じたら即座に撤退すればいい。
リスクヘッジとしては十分、転売ヤーの基本である損切りの早さも問題なく機能している。
そう結論づけた将明は覚悟を決めた。
「――よし!明日だ」
赤い光を見据えながら、明日に備えて今日は休む。
将明はデーツの皮を集めることでそれを不格好な枕にすることにした。
この世界に昼夜の概念があるのかどうかも分からないが……見知らぬ異空間で探索して回っていた将明の身体に精神的な疲労と肉体的な疲労が同時に襲ってきていた。
目を閉じるとすぐに、まぶたの裏に映像が流れていく……。
――テツが走り去っていく背中。――トラックのフロントガラスに映るテツの顔。――アスファルトに散った何か。――警官の足音。――検非違使の掌に握られたつぶれた銃弾。――オホゴエのランキング画面。――パクリシアのアクリルスタンド。――アナホルのフィギュア。――ドクオのトートバッグ。
映像が断片的で順序がないものの、やがて深い眠りとともに将明の意識は暗闇の中へと沈んでいった。
洞窟の静寂の中で将明の呼吸音だけが一定のリズムを刻んでいた。
――吸って、吐いて、吸って、吐いて。
この無生物の空間において、彼の呼吸だけが唯一の生命活動だった。
洞窟の奥では赤い光が変わらず静かに燃えていた。
将明が眠っている間も赤い光は何かを待つように……あるいは、何かを呼ぶように光を放ちながら存在し続けていた。
「……うぐっ」
硬い質感の洞窟内で目を覚ます将明。
昨日までの出来事を寝ぼけ眼で思い出しながら、関節をポキポキと鳴らす。
何時間眠ったのか分からないが、休息を求めていた分は回復しているようであり、頭も冴えわたっていた。
湧き出るデーツをポケットに入れてから、手にした分の三個だけ食べながら洞窟の奥へと歩き出す。
赤い光はまだあったものの、代わりに青白い光が段々と薄れていった。
やがて洞窟が広くなってきたかと思うと、代わりに天井が高くなり壁が左右に退いていく。
そして前方に、洞窟の出口と思われる光の源が見えた。
外に繋がる開口部から差し込んでいたのは赤い光。
夕焼けのような色だが、もっと濃く、もっと人工的な――それでいて、地獄の底を照らす業火のような赤。
将明は出口に向かって歩を進めると、赤い光の中へと飛び出した。




