第四話 密林
そこはとても大きな泉と見渡す限りのジャングルであった。
まずは泉の方に視線を移すと、向こう岸が見えるか見えないかの広さがあり、水は透明に近いがどこか人工的な青さを持っている。
風がないのか水面には波紋一つなく、池の底までクリアに見える。
底には何もなく砂利や水草どころか魚の影すらも見当たらない。
ただ青く塗られたような平面が底にあるだけであった。
他に何かないかと視線を移すと、泉の向こうに洞窟が見えた。
パッと見の印象だとそこそこ大きさはあるようだが……何かを誘い込むような、あるいは何も吐き出さないような、静謐で不気味な洞窟であった。
将明の視線が泉と洞窟の間に広がる地面に落ちた。
そこにあったのは植物らしき見たことのない形状の何かが地面から生えていた。
茎に見える部分は滑らかで光沢があり、葉に見える部分は幾何学的な曲線を描いていた。
色は緑ではあるが塗料のような均一さを持っており、将明は一番近くにある"植物"へも手を伸ばす。
……それは、生命の質感をまったく感じさせないような冷たさだった。
さながらプラスチックのような手触りかつ指先で表面をなぞると、微細な継ぎ目のようなものが感じられた。
将明は立ち上がると、足元の土を踏みしめる。
土は本物の感触と湿り気があったが……しかし、土の中から生えているものは本物からは程遠いものであった。
泉を囲むジャングルはプラスチックの植物らしきものが鬱蒼と生い茂っている。
巨大な葉に螺旋状に巻いた蔓、歪な形の幹――すべてがプラスチックの質感を持っておりさながら映画のセットのようである。
テーマパークのジャングルエリアのような規模ではあるものの……あまりにも静かだった。
虫の音がしない、鳥の声がしない、風の音すらない――生物の気配が、一切しない。
ただ将明自身の呼吸音と、早鐘を打つ心臓だけがこの空間に存在する音だった。
生命が存在することを否定されている空間のような、あまりにも根源的な欠落であった。
森の中で感じる静けさとも異なる『何かがいる可能性』すら皆無。
将明の背筋に冷たいものが走る。
さっきまで警察や検非違使に囲まれていたはずであり、テツはその過程で命を落とした。
なのに今、将明はそんな現実から切り離された自身とは何の縁もゆかりもないどこでもない場所に立っていた。
「……ここ、どこだよ」
思わず漏れ出た声は反響することなく、吸い込まれるように消えた。
将明は後ろを振り返った。
自分が最初に転がり込んだあたりの場所。
背後には人工物めいた植物ばかりのジャングルにおいて、大人一人が寄りかかれそうな大きさの岩が不自然なくらいにそこにどっしりと存在していた。
それに恐る恐る手を触れるとズモ……ッとここへ来た時のようなすり抜ける感覚が掌を通じて伝わってくる。
もしやと思い上半身から岩の中に身体を滑り込ませたてみたところ、案の定向こう側には高校の校舎裏の壁が見えていた。
――戻れるのだ!!
これでいつでも戻れる。
……流石に今戻れば、警察が待っているだろうが。
将明は泉の畔に座り込んでいた。
プラスチックの植物が風もないのに時折かさかさと擦れる音を立てており、それがこの世界における唯一の環境音だった。
耳を澄ませば何かが聞こえるかもしれないと思い何度も試したが、木々のざわめきも、獣の遠吠えも鳥の羽ばたきも、虫の翅音も……ジャングルだと言うのに、何も聞こえなかった。
将明は眉をひそめて周囲を見渡すと、丈の高い草に見えるものすべてがプラスチックであり、蔓のように見えるものも幹に見えるものも、すべて表面に微細な金型の跡があった。
塗装が剥げた箇所からは下地の樹脂が見えており、すべてがハリボテ、全部が作り物でそれでいて広大な空間を埋め尽くしていた。
何か食べ物はないかと、しばらく歩けば木の影に見えたもののを見つけた。
一見すると林檎にも似た赤い球体。
しかしコレの表面にも継ぎ目があり、触れればコツコツと中空の音がした。
軽く握ると簡単にへこんで元に戻る、ビニール製の何かのようだ。
こんなものを食べられるはずがない。
将明はそれを放り投げて再び探索を続ける。
探索している内に咽が渇いた将明は目の前の泉に興味を示した。
透明度は高く、異臭もないが……しかし生物の影も形もありはしない。
魚はおろか微生物の気配すらなく、水面をいつまでも見つめていても、虫が卵を産みに来ることもなければ鳥が水浴びに来ることもない――まさに、完全に無菌の空間のようだった。
……だが、それでも。
「……こんなもん、飲めるんだったら飲むしかねえだろ」
将明は呟いて、泉の水を手ですくう。
ひんやりと冷たく、口に含むとごく普通の水の味がした。
少なくとも塩素の味もなければ鉄の味もしない。
毒のことなどは分からないが、身体が渇きを訴えている限り飲むしかなかった。
水はどうにかなるかもしれないが、問題は食料だ。
将明はため息をついて立ち上がると、視線が自然と泉の向こうの洞窟に向かっていた。
将明を誘うように口を開けている洞窟……。
「戻りたい時に戻れるんだったら……少し探索してみるのもありかもな」
将明は後ろを振り返ると、少し歩いた場所にあの岩がある。
警官たちはオホゴエの転売ランカー一斉摘発のために、まだ探していることだろう。
検非違使まで動員されている以上『戻る』という選択肢は現時点ではありえなかった。
「当分はここに隠れるしかねえか」
声に出して確認するがもちろん返事はない。
静寂が答えだった。
将明は再び泉の方へ向き直ってから洞窟を見た。
暗い楕円が岩肌に穿たれており、あそこに何かあるかもしれない。
少なくとも食料になるような何かがなければいずれ飢える。
警察に逮捕されるのが先か、それともこの無生物のジャングルで餓死するのが先か。
前者を選ぶ気はなかったため、選ぶならまだ後者だった。
そう思った瞬間自分はもう終わっているのかもしれないと将明は軽く自嘲した。
――だが、それでも。
足は自然と洞窟へと向かっていた。




