第三話 逃走
――将明とテツが勝手口のドアを開けようとした瞬間。
「いたぞ! 裏口にも回れ!」
突如、玄関の方から怒号が聞こえる。
見れば警察が二人の方へと押し寄せていた。
「くそっ!」
テツが舌打ちし、将明の腕を掴んで路地へ引きずり出すことに成功。
湿った空気が肌にまとわりつく中、路地は暗く……生ゴミの腐敗臭が漂っていた。
将明はテツに引かれるまま走り出していく。
しかし、それもすぐに足が止まる。
路地の出口が見えていた矢先、背後の警官隊に混じって一つの人影が近づいてくるのを目にしてしまったからである。
白い装束に独特の切り返しと顔を覆う布。
そして何より、その場に存在するだけで空気が凍りつくような異様な気配。
――まぎれもなく、検非違使だった。
日本政府直属の管轄下にある戦闘種族。
有事の際に動く暴力装置的な意味合いが強いが、まさか自分のような転売ヤーの摘発に投入されるとは夢にも思っていなかった様子で驚愕する将明。
それだけ国民の怒りが噴出している……ということの現れなのだろう。
その中でもこの検非違使は外見から判断するに、身体能力と拳闘技術に特化した個体のようである。
幸いにもこの場に投入された検非違使は一体だけのようだが、その後ろには制服警察官の姿も見えており、このまま走ったところで捕まるのは必定であった。
「……このままだと、逃げ場ないじゃん!!」
将明の口から絶望の声が漏れた。
テツの腕を掴む力が自然と強くなる中、将明は振り返り相棒の顔を見る。
テツの目は血走っており、さながら追い詰められた獣のようなそれはいつもの冷静な彼の目ではなかった。
「テツ……これ、どうすんのさ……!?」
テツは沈黙を返す。
代わりに彼は、腰のホルスターから一つのものを引き抜いた。
それはまぎれもなく、黒光りする自動式拳銃。
「テツ!?」
「お前ら!ついてくんじゃねぇッ!!」
声は裏返っていたものの、テツが勢いよく叫ぶ。
対する検非違使と警察官たちは動じることなくむしろ体勢を低くし、臨戦態勢をとった。
「これが最後だ!散れ、散れッ!!」
テツが銃口を向けて、警官隊に向けて手当たり次第に引き金を引く!!
――パンッ!パンッ!パンッ!!
乾いた発砲音が数発、路地に響く。
しかし次の瞬間、将明は目を見開いた。
検非違使は倒れるどころか、避けてすらいなかった。
なんてことはない動作と言わんばかりに無言のまま、白い手甲に覆われた手が宙で銃弾をすべて掴んでいたのである。
ありえないほどの反応速度を前に驚愕する将明。
発砲の瞬間に動いた気配すらなかったというのに……ただの結果として、銃弾が検非違使の掌の中で歪んだ金属片と化していた。
検非違使は布の下から無機質な視線をテツに向けたかと思うと、その手がゆっくりと開きつぶれた銃弾がカタン、という小さな音とともにアスファルトへと落下した。
「……あ」
テツの顔から血の気が引いていくのが見えた。
おそらく彼も自分がどう足掻いても勝ち目がないと理解したに違いなかった。
「テツ……」
将明の呼び掛けにテツが何も言わぬまま視線を返す。
その目にはもう焦燥も恐怖もなく、ただ冷徹な計算だけがあった。
刹那、テツの表情が鬼の形相になったかと思うと将明の手を振り払いながら勢いよく疾走していく――ッ!!
大通りへ向かって走っていくテツの背中を呆然と見つめる将明。
とても信じられるものではなかった。
危機の中を身を挺して助けに来てくれたんじゃなかったのか?心配して駆けつけてくれたんじゃなかったのか?転売仲間としての絆はそんなものだったのか?
(いや、違うな……)
将明が走りながらも静かに思案する。
絆なんてものは最初からなかった。
転売の世界に絆なんて最初からなく、あるのは互いの利用するかされるかの損得勘定があるだけ。
テツが自分を助けようとしたのは友情からなどではなく、将明というトップランカーを失えば組んでいる自分も困るから……というビジネスパートナーとしての保護行動だったに過ぎなかったのだろう。
そして今、そのビジネスパートナーとしての利益よりも損失の方が大きいと決断したからテツは一人でこの場から逃げ出したに違いなかった。
いずれにせよ、このまま行けば自分は背後からの警官か検非違使に取り押さえられるだろう……。
そう判断していた――まさに、そのとき。
「あっ!」
背後の警察官の一人が叫んだ。
テツの死に物狂いの疾走はとてつもなく速かった。
銃を捨てて身軽になった彼の足は、到底追いつけそうになかった。
大通りの光が路地の出口から差し込んでおり、あそこに出ればタクシーを拾えるかもしれない。
あるいは地下鉄に逃げ込めるかもしれないし、人混みに紛れられるかもしれない。
――いずれにせよ、逃げおおせるのは確実……!!
そんな意思を見る者に感じさせる跳躍とともに、テツが路地から飛び出した――その瞬間。
けたたましいクラクションの音とともに、タイヤのスキール音が辺り一面に響き渡る。
それからすぐに、ドスン……!!という鈍い音がした。
肉と骨と鉄板による衝突音。
世界で一番重くて――一番冷たい音であった。
大型トラックの前に飛び出しはねられたテツの体が……手足が不自然な方向に曲がった状態でまるで放り投げられた人形のように宙を舞う。
そして、あっけなくアスファルトの上へと落下する。
動かなくなったテツを前に、一瞬の静寂が場を支配する。
そしてすぐに、将明の喉から声にならない叫びが漏れた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
足がもつれながらも、路地の出口へ向かう。
突然のことに呆然としたり混乱している警官隊やそれに阻まれてわずわらしそうにしている検非違使に構うことなく、将明は大通りへ転がり出た。
運転手が降りてくる足音や、野次馬が集まってくるざわめき。
そして、動かなくなったテツの身体――には目もくれずにアスファルトの上に横たえたまま、将明はひたすら走った。
思考などなかった。
考えれば足が止まる、そうすれば全てが終わると本能が告げていた。
運転手の叫び声、野次馬の悲鳴、どこか遠くで鳴り始めたサイレンの音――それらすべてが背後の世界に属するもので、将明はもうその世界の人間ではなかった。
足の痛みとともに、安物のスニーカーが底を突き抜けるような感覚がある。
さっきアパートを飛び出す時に履いたままだった。
財布も持ってないし、スマートフォンはテツに捨てられた。
今の将明には身についた薄汚れたトレーナーとジャージのボトムスと、震える身体だけが己の全財産だった。
「待て!止まれッ!!」
背後から声が聞こえるが、我に返った警官たちが追走を始めたに違いない。
革靴がアスファルトを叩く音が規則正しく近づいてくるあたり訓練された足音だった。
対して将明の足音は不規則で乱れており、逃げる側と追う側の違いが如実に現れていた。
将明は曲がって見知らぬ路地に入る。
右に左に、ただ本能的に直線を避けながら方位感覚を失うくらいにとにかく走り続けた。
肺が焼けるようだったし、喉の奥からは鉄の味までしてくる。
平日の午後、買い物帰りの主婦や仕事中のサラリーマンが奇異の視線を投げかけ誰かがスマートフォンを向けていたが、そんなことは心底どうでもよかった。
走る、走る、ひたすら走る――ッ!!
どこを走っているのか分からなくなった頃、将明の目に灰色の壁が映った。
コンクリート打ちっぱなしの高い塀、その上に鉄柵がついており、壁面に沿って等間隔に並ぶ看板。
「県立一間坂高等学校」
どうやら高校のようであった。
将明は切羽詰まりながらも塀の切れ目を探し始める。
追手に怯えながらも探している内に、塀の一部が劣化していて鉄柵が緩んでいる箇所があった。
生徒用の通用口だろうか?
そこには、小さな鉄の門があった。
鍵がかかっていたが、将明はジャージのポケットに入っていた弁当の割り箸を取り出して――いやそんな器用な真似はできなかったため、将明は体ごとぶつかった。
一度目は弾かれた。
二度目、肩の骨が軋む痛みとともに門の金具が歪んだかと思うと、三度目でようやく開いたので転がり込むようにして敷地内へと侵入していく……。
高校の敷地内は静謐に満ちていた。
授業中なのか、人影がまったくない。
将明が校舎の裏手に回るとそこに植え込みがあり、その奥に古びたコンクリートの壁があった。
校地の境界だろうか?
壁の向こうは何なのか分からないが……雑木林かもしれないし、放置された空き地かもしれない。
ただ将明は今、とにかく壁が欲しかった。
何もかもに疲れた自身の背中を預けられるような、何かが欲しかった。
警官の足音はまだ聞こえない。
通用口から敷地内に入ったことまでは気づかれていないのか、あるいは別のルートで包囲網を狭めているかもしれない。
将明は植え込みをかき分けて壁にたどり着き、そこで背中を預けた。
コンクリートの冷たさが薄汚れたトレーナーを通して伝わってきたが、その冷たさが妙に心地よかった。
熱を持った体に、ようやく安らぎのようなものを与えてくれた。
呼吸が荒く肩で息をしている。
心臓の鼓動がドクドク、ドクドク……!!と規則的で暴力的なリズムを鳴らし、それが耳の奥で響いている。
片手を壁につくと掌から伝わるコンクリートの粗い質感が伝わってくる。
その手触りだけが、今の将明と世界を繋ぐ唯一の接点だった。
「はあ……はあ……はあ……」
呼吸を落ち着かせようとすると、口から唾液が垂れそうになったため慌てて拭う。
目に入る汗を拭った手のひらが、ひしひしと震えている。
ふとテツのことが頭をよぎったが――将明は静かに目を閉じる。
瞼の裏に赤い何かが明滅したが、それがテツの血なのか、それとも自分の精神が生み出した幻影なのか、もう区別がつかなかった。
「テツ……」
嗄れた声が、喉に張り付く。
「どうすりゃ、いいんだよ……!?」
呼吸が少しずつ落ち着いてくると同時に、肺の痛みが徐々に引いていく。
心拍数も落ち着いてきた――その時であった。
突如、背中の感触が消えた。
最初は疲弊による気のせいか何かだと思った。
体勢が崩れて背中が壁から離れただけだと思ったが……しかし、違った。
将明の体が後ろに、壁があるはずの方向に傾いていく――!!
反射的に手をつこうと片手が壁を探ったものの手応えがない。
あるはずの場所に壁がない。
あるのは虚無の空間があるだけだ。
「……えっ?」
声が出たのと同時に、将明の体は後ろに倒れ込んだ。
壁にぶつかる衝撃を予期して体を硬直させたが、衝撃は来なかった。
数センチの落下ではなかった。
視界が反転したかと思うと光と影が混ざり合い、色彩が溶け合うような感覚に襲われる。
だがそれも一瞬のことであり、ドサッ!という音とともに転がり込む将明。
そこは柔らかい地面であった。
コンクリートではないし、アスファルトでもない。
湿った腐葉土のような土の上に体を打ちつけた衝撃で、将明の肺から空気が一気に絞り出された。
「ぐっ……」
呻きながらも身体を起こそうとすると、全身が痛かったが骨折しているような感覚はなかった。
将明は四つん這いのまま、ゆっくりと顔を上げる。
息が止まった。
――目の前に、学校のプールとはまったく異なる大きな泉があった。




