第×話 真実
将明が視線を向けた先である壁面の一点……そこには、苔が生えていること以外は特に何もなかった。
しかし将明にとっては、その何の変哲もない壁こそがこの上なく彼に絶望を刻みつけ――これまで必死に抑えつけようとしていた恐ろしい想像を呼び起こす形となっていた。
それは、何回目かのジャングルへの移動した時のこと。
泉から近い明るい洞窟入り口付近の壁で、将明はあることを試みることにした。
彼はジャングルに落ちている人工物じみた植物の枝を手に取ると、洞窟の壁を軽く削りながら今行っていたような考察を刻みながら記していたのである。
ルートの図や三つのエリアの循環構造、出口の有無……etc.
そうした情報を壁に刻んでいき、記録として残した。
流石に深く掘ることは無理だった、指で触れれば削り跡が分かる程度の深さかつ文字が読める程度にははっきりと刻みつけた。
そして、次に砂漠から洞窟へと来た時――あれだけ書いたはずのこの空間に関する考察が、陰も形も消えていた。
壁面は完全に平滑かつ削り跡一つ残っておらず、岩肌に刻んだ文字だけが最初からなかったかのように書かれていた場所には既に苔が生えていた。
……この空間には生物と呼べるものが気配すら存在せず、万が一今まで将明から隠れおおせていたとしても、『壁に書いた考察だけを消す』などという将明に存在を気づかせるような、あるいは警戒心を過度に抱かせるような行為をする理由とは果たして何なのだろうか。
それよりも、やはりここには自分以外の生物など存在せず、このジャングルも、山岳も、砂漠も……最初に移動したエリアとは全く別の場所と考えるのが自然ではないだろうか?
誰かが何らかの意図を持って接触してきたのではなく、この場所そのものが全て似ているだけで違う空間なのではないだろうか?
……そう考え始めると、今まで気にしていなかったことが一気に違和感とともに脳裏に浮かび上がってくる。
二週目からの洞窟も、火口も、廃墟の机もすべて、食事が湧いてくる場所は同じだったものの、周回を重ねるごとに出てくるメニューはすべて違っていた。
洞窟の中ではデーツの代わりに寿司が醤油付きで盛り付けられた状態で出てきたし、火口からは仮にもマグマの中にも関わらず泡を割るといちごシロップのかき氷が、廃墟の机では酸味のあるソースが絡みついた香ばしい肉を包んだ柔らかなパンというケバブ?のような食べ物があの何が書かれているのか分からない書物とともに置かれていた。
これらの食べ物は同じ場所にとどまったままだと出てくるメニューはまったく変わらなかったものの、この異常な空間ではそういうものであり、最初の廃墟の扉から泉にダイブした時に濡れてそこらへんに捨てたはずの書物がまた机に置かれていてもそれはあの冷製スープ同様に、すぐに補充されるものだと認識していた。
それよりも、食べ飽きたり新たな刺激が欲しくなったら次のエリアに行けばいいのだと、このエリア移動を始めた時の将明はグルメ食べ歩きのような軽い気持ちでこれらの出来事を捉えていた。
けれど、最初のときに洞窟に適当に放り投げた大量のデーツの皮も、食べ終わってから火口近くで放置した食べ終わったカレーの皿も……それ以降も使ったまま放置してきた食器の数々も、一周してから戻ってくると何の痕跡もなく、別のメニューが湧き出るようになっていた。
あれらの食器等がただ単にリセットされているのではなく、自分がただ単に環境が似ているだけの別の場所を進み続けていたのだとしたら?
同じ場所を延々とループし続ける……というのは、緩やかながらも精神を確実に蝕む遅効性の毒のような恐ろしい事象に違いない。
けれど、これが同じ場所などではなくどこまでも似たような空間が続いているのだとしたら?
湧き出てくるメニューがこれほど明確に変質している以上、それ以外の要因が絶対変わらないなんて保障はなく、次に移動した時に見慣れた場所であっても、そこにそれまでなかった災害や自身に害意を向ける脅威存在が出現するようになるかもしれないのである。
少なくとも、無限ループだと認識していた時にはあった『絶対安全な場所を延々と行き来している』という意味は完全に失われている。
もしも、このエリア移動がループではなく連鎖だとしたら、自分はもうどれほど進んでしまったのか?
このエリアの果てがあるとしたら、そこで待ち受けるものとは一体何なのか?
……それ以上に、自分はあの現世へと帰還することが出来る岩から、どれだけ離れた場所に来てしまったのか?
客観的に見れば、ループも連鎖も打つ手がない以上はどちらも同程度に恐ろしい事態であるがそれだけに、想定していたのとは異なる別方向からの恐怖の形は、将明を追い詰めるのに十分な威力を誇っていた。
……ループなら、脱出出来なくてもその閉じた円環の中で最低限の生存は出来た。
けれどこれが似ているだけの別の場所へと深く、さらに奥へと進み続けているとしたら?
――この”安全”な状況はいつまで保たれる?――この移動の果てには何が待つ?――それ以前にここから先どれだけ進めば終わりがある?――いや、実は連鎖じゃなくてそういう仕組みで常に初期化とメニュー変更されているだけで同じエリアをループしているだけ、という可能性がないとは言い切れないんじゃないのか!?――この空間に終わりがあったとして、それが現実の出口に繋がっているなんて保障はそれこそどこにもないだろうッ!!
一旦思いついてしまうと恐ろしさよりも先に、自身の負の感情を増幅させるような猛毒染みた思考が脳裏を埋め尽くしていく。
声に出してしまえば現実になるような、何か取り返しのつかないことになってしまうような、そんな恐ろしい推論の数々。
それと同時に、これが”ループ”であろうと”連鎖”であろうと関係なしに思い浮かんでしまう残酷な真実。
――どうして、自分は引き返さなかったのか。
将明の脳内に、そんな後悔の言葉が溢れ出す。
……どこから引き返せば良かった?
最初にあの見渡す限りの無慈悲な砂漠にたどり着く前に。
いや、火山口でカレーを一皿食べたらおかわりなんかせずに、すぐに洞窟に戻ればよかった。
そうじゃない!あそこで引き返しても何故か分岐して道に迷うのだから、デーツの皮を目印にして戻ればよかった。
違う、好奇心に負けて洞窟の奥になんか進まずに、デーツが湧き出る安全な洞窟で泉の水を飲みながら過ごしていれば問題なんてなかった。
それを言うなら、潛伏なんか考えずに岩を通って現世へと帰還していたら。
……いっそのこと、現世に帰還する岩を見つけた時点で、便利さよりも異常さに気づいて大人しく警察に投降していたら。
警察が待っているから、検非違使には敵わないから……逮捕されるくらいならここに潛伏しよう。
そんな浅はかな考えで、この異常な空間で逃げ隠れる道を選んでしまった。
けれどあそこで逮捕されていれば、獄中だろうと自分の罪状なら年数が経てばいつかは出られるはず。
それに比べてここは何だ!?
どういう仕組みで構成されているのかもわからない、年数か?移動した距離か?何をどうすればここを出られるのかもわからないようなこの場所なんて――外界どころか牢獄と比べても”自由”なんて微塵もないじゃないかッ!!
……テツが目の前で死んだときに、あそこで立ち止まらなかったことが全ての終わりだった。
あの場所で走り去らずに、テツと現実に向き合えていたのなら。
――こんなところで、自身に残った思考やら感情やら人間性といったものをわけのわからない場所で廃棄し続けるような真似をせずに済んだのかな。
――それなら、最初から転売なんてしなけりゃ良かっただけじゃんか。
ここまで長い”旅”を繰り返してきた将明であっても初めてといえる思考が脳裏に浮かぶ。
最初から、最初から転売なんてしなければ……ッ!!
――オホゴエに登録しなければ。――ランキングを上げなければ。――盗品を売らなければ。――知らなくても得になるんなら売ればいいと割り切っていなければ。――テツを助手にしていなければ、アイツに裏切られることもなく、死なせずに済んだのに……!!
将明の体が震え始めていたが、それは決して寒さや恐怖のせいなどではなかった。
骨の髄から震えてくるような、全身を駆け巡る後悔が全身にもたらす叫びそのものであった。
「最初から、転売なんて……」
”ループ”や”連鎖”の恐怖とも違う、声に出せば全てが確定してしまうような確信。
はっきりと形にしてしまえば、自分の人生が最初から間違っていたことを認めることになる残酷な真実だったが――それでも将明は、認めるしかなかった。
「最初から、転売なんてしなきゃ良かっただけだろう……ッ!!」
今度こそ、はっきりと声に出した。
馬鹿野郎、馬鹿野郎……!!と己を責めながら、将明は掌で自身の顔を覆った。
――ここはどこだ。
自分は軽はずみな意思からなんてところまで来てしまったのだ。
どこから……答えがとっくに分かりきっていても、それでも自分は本当にどこから引き返せばよかったのか。
この場でそんな彼に答えられるものなど誰もおらず、答えもどこにも転がっていない。
将明は掌で顔を覆ったまま、嗚咽を漏らして泣き崩れたが――それでも、残酷なまでの静けさのもとにただ自分の泣き声が洞窟の壁に響きながら返ってくるのみであった。




