第■話 ■■
――将明が取っ手を回した瞬間だった。
突如、風が来た。
……いや、風などという生易しいものではなかった。
壁が崩れるような圧力が扉を開けた将明の背後へと吹き荒れてきたのである――!!
「おっ、うわわぁっ!?」
成人である将明の身体が、難なく宙へ浮かぶ。
あまりの勢いに手は既に取っ手から弾かれており、足は床から離れている。
砂と瓦礫と埃が巻き上げられ視界を奪う中、将明はロクな抵抗も出来ぬまま人形のように扉の向こうの宙へと投げ出されていた。
やがて青い光が目を刺したかと思うと……。
――ドボンッ!!
身体が水中へと叩きつけられていた。
わけのわからぬままに全身が冷たさと水に包まれ、口と鼻にまで侵入してくる。
もはや書物など気にしてる場合ではなく、唯一の成果であるそれをかなぐり捨てて反射的に手足を動かしながら必死にもがいた。
とにかく水面を目指して足を蹴っている内に、なんとか顔を出す。
「ぷはっ!……げっほ、えほっ!!」
空気を吸い込んでから派手に咳き込む。
涙と水が混ざって視界がぼやけていたが、生き延びるために腕で水をかきながら体を浮かせる。
足が底に届かないあたりなかなかの深さのようである。
冷静さを取り戻してきた将明は、もがきながらも周囲を見渡す。
そこは、見覚えがあった。
透明に近いがどこか人工的な青さを持つ水中と、これだけ将明が騒いでいるというのに他の者達の気配が一切感じられないような、波紋一つない水面。
ここはまさに、
「嘘だろ……あの泉、なのかよ……!?」
周囲を見渡しながら、驚愕の表情を浮かべる将明。
プラスチックとおぼしき植物とデーツの湧く洞窟に、それらを一望できるこの泉。
間違いない、自分は最初のあのジャングルへと戻ってきたのだ!!
将明は急いで岸へと泳いだ。
水に濡れた衣服が重かったものの、足が底に触れる場所まで来て立ち上がることが出来た。
水を絞りながら地上に出た将明は、息を整えながら泉の向こうに視線を向ける。
青白い苔のような発光体が壁面に付着した、デーツの湧くスポットのあるあの洞窟。
将明は思わず膝をついた。
砂漠での移動で疲弊していた身体にさらに水濡れの重みが加わっていたのもあるが……しかし今は、それ以上に安堵の気持ちが大きかった。
――ここなら、既に知っている。
……ここなら、少なくとも安全だ。
デーツも水も、そして何よりあの現世と繋がっている岩がある。
あの岩の裂け目から高校の壁に戻れば、警察から逃げ延びてきたあの場所へと帰還出来る。
まずは、岩があるジャングルの方へと引き返す。
あの不気味な山岳での分岐にせよ絶望の具現ともいえる見渡す限りの砂漠にせよ、もうこんなところで安全に潜伏活動なんて寝ぼけたことを言っている場合じゃない。
警官に逮捕されることになってもいいから、この異常な空間から抜け出し現世に無事に帰還したいという思考が今の将明を突き動かしていた。
泉からそう遠く離れていないあの茂みに、高校の壁と繋がる岩があったはずだ。
相変わらず生物の気配がまったくないプラスチックの植物が生い茂るジャングル。
そこをかき分けるが――そこにあるはずの、あの岩が影も形も見当たらない。
「……えっ?」
将明は思わず、驚愕の声を上げる。
記憶の中の位置へ歩き、泉の畔を回り込んでジャングルの中へ入ったにも関わらず……あのわざとらしいまでに周囲から悪目立ちしていたはずの岩が、どこにもなかった。
「え……ちょ、待って待って」
将明はこことは真逆の、泉の反対側へと駆け出していく。
もしかしたら砂漠で迷っている内に自分の方向感覚が狂ってしまっただけで、あっちなら普通に何事もなく岩があるかもしれない。
……だが、ジャングルの中をどれだけ進んでも似たようなイミテーションの植物ばかり。
それでも将明はとにかく手当たり次第に探し回っていく。
やがて、一時間ほど歩きまわった頃だろうか。
心臓が早鐘を打ち息が切れているうえに、濡れた衣服が肌に張り付いて冷たく気持ち悪かった。
「……んだよ、コレ。本当に全然、ないじゃん……!!」
岩が――現世へと戻る唯一の出口が、ない。
何故消えてしまったのかわからず、このジャングルの中で自分がどこにいるのか分からない。
その場に座り込む将明。
土の感触だけが本物だが、しかしその土から生えているものはすべてが偽物だった。
完全に途方に暮れながら、将明は泉の畔に座る。
水は最初のときと同じで飲める。
洞窟に行けばきっとデーツもあるはずだろう。
カレー火山口への道もまた行けると思う。
そう考えれば生きてはいけるのは間違いないが――言ってしまえば、それはここで生きているというだけのことだ。
ここで一生を終えるということだ。
プラスチックの植物に囲まれてデーツを食べて泉の水を飲んで誰とも会わず誰とも話さずただ一人で生きて死ぬとこと――思わず震えたのは肌の寒さか、その意味を理解してしまったからなのか。
現世では警察が自分を探しているだろうか。
オホゴエの転売ランカー一斉摘発の中で逃走した自分をしつこく探しているだろうか?テツの死体はどうなったのだろうか?……そして、”オホゴエ”はどうなったのだろうか。
そんなことがまるで遠い国の出来事のように思えた。
「帰りてえな」
将明は呟いた。
「帰りてえよ」
そう呟いてから、ツツ……と涙が出た。
そのことに他でもない将明自身が驚いた。
……帰れないかもしれない。
その事実が、将明の肩に辛くのしかかる。
転売ランキング三位だった男が帰る場所も持ち物も何もない世界で途方に暮れることしか出来ない。
将明は膝を抱えたが……泉は何も答えない。




