第十話 廃墟
砂漠の中を歩き続けてどれだけ経っただろうか。
気がつくと、それは突然視界に現れた。
白い砂の海に映る、灰色の影。
遠くに見えた時に、最初は蜃気楼かと思った。
砂漠で見る幻覚、脱水症状が進めば見えてしまう身体不調のシグナル。
しかし目を凝らしても影は消えずに瞬きしても影はそこにあり――やがて、形がはっきりしてきた。
――それは、廃墟としか言いようがない建物であった。
瓦礫の山に崩れた壁、折れた柱と半ば砂に埋もれた屋根。
そんな有様であっても、それを見つけた瞬間に将明の足は速くなっていた。
走ろうとして砂に足を取られて転びそうになりながらも、それでも歩調を速めながら死に物狂いで廃墟へと向かっていく。
変化のない白い世界に、ただ一つ出現した正真正銘の”異物”。
そこに行けば何かがあるかもしれない。
……いや、別に何もなくたって構わないから、とにかく砂以外の何かに触れ、今見ている景色を少しでも違うものに変えたい。
転売屋の頃には考えられなかった、そんな損得勘定を度外視した渇望が将明を突き動かしていた。
廃墟の前に到着した将明が近くで見ると、それはさらに無惨であった。
かつて石造りの建物だったものの残骸。
壁の一部が辛うじて直立しているが、大部分は崩落して砂の下に埋もれている。
内部は瓦礫と砂で埋まっていたが……屋根の一部が、残った空間が空洞と化していた。
将明は瓦礫を乗り越えながら、内部へと足を進めていく――。
廃墟の中は、外の白い光が差し込んでいるものの薄暗く、歩き続けてきた将明にとっては日よけになって実に心地よかった。
とはいえ、砂が床に積もっているわ瓦礫が転がっているわと、おまけに崩れた壁の向こうには空が見えているほどの荒れ果てているため、ここが異常な空間とはいえ精神的にあまり長居したくなるような場所ではなかった。
そんな空間の中央に、ポツンと一つの机があった。
四本脚の木製の机であり表面は埃と砂にまみれているが割れてはいない――まさに唯一、原型をとどめている家具であった。
そんな崩落を免れた奇跡的な一枚板の上に、二つの物体が置かれている。
一つは一冊の書物。
表紙は小汚なく、茶褐色の革表紙がさらに埃と砂で汚れている。
タイトルらしきものが表紙に刻まれているが、それは地球のどの言語でもない文字だった。
ひらがなはもちろんのこと、アルファベットでも漢字でもアラビア文字でもヒエログリフでもない……見たことのない記号の羅列。
幾何学的な線と曲線が組み合わさった図形にも見える文字が、表紙だけでなくページをめくってもびっしりと詰まっていた。
将明はそんな本に書かれている文字を凝視するが案の定、何も読めなかった。
何が書いてあるのか分からないため、この本が小説なのか?哲学書なのか?科学書なのか?魔導書(もしも本当にそんなものなら転売すればどれほどの値がつくことか!)なのか?何も分からない。
ただ文字ともいえぬ形が並んでいるだけの、解読不能な書物。
将明は本を机に戻した。
もう一つの物体は――スープだった。
書物の異様さに囚われていたものの、自分が砂漠を歩き回り喉の渇きを思い出した将明は、逸る気持ちを抑えてスープをのぞき込む。
スプーンがついた白い陶器のボウルに入った白濁した液体。
その中に透き通った冬瓜の薄切りと、淡いピンク色の鶏肉の細切れが浮かんでおり、冷やしスープのようだった。
将明はボウルを手に取ると、ひんやりとした冷たさが掌に伝わる。
急ぐようにスプーンで掬って、口に運んだ。
冬瓜の淡い甘みと鶏肉の出汁が混ざった、薄味の冷製スープ。
火口で食べたカレーの濃厚なスパイスも最高だったが、今の将明にはこの澄んだ冷たさが何よりもありがたかった。
スープを飲み干してボウルを机に置いてから……五秒ほど経っただろうか。
突如、ボウルが光った。
いや、その表現も正しくはないのだろう。
ボウルが一瞬揺らいだかと思うと次の瞬間、空のボウルの中に再び先ほどと寸分たがわぬ冬瓜と鶏肉が浮かんだスープが、何の前触れもなくボウルの中に現れていた。
「……なんだコレ。おもしろ~!!」
ボウルの中身に補充された冷製スープを見て、瞳を輝かせながら将明が呟く。
デーツが地面から湧き、カレーが泡から出たように、このスープも一定間隔で出現するらしい。
飲み干せば補充される、まさに無限のスープ。
将明は二杯目を飲んだ。
そこから一瞬だけカレーを食べた後の後悔が脳裏をよぎったりしたが、すぐに三杯目も飲み干して満腹になった。
そこからまたすぐに補充される形で出現するボウルだったが、流石に限界を迎えた将明は「いや、もういいよ」と笑いながら手を振ってから、自分の行為の滑稽さに気づいてもう一度笑う。
それにしても、一定間隔で出現と消滅を繰り返すスープにせよ、泡の中のカレーや地面から一定の量が湧き出るデーツにせよ、理解不能だがこの世界には確かな法則があるようだ。
将明が他に何かないかと視線を廃墟の中に巡らせる中――壁の一角に、それがあった。
それは、廃墟には似つかわしくない真新しい印象の扉だった。
瓦礫と埃にまみれた廃墟の中で埃や傷一つついておらず、周囲の崩れた壁とは対照的に、扉の周りだけが不自然なほどに整っている。
まるで扉のためにだけこのスペースが残っているかのように。
扉は木製でもなく金属でもない、何でできているのか分からない材質で構成されていた。
表面は滑らかで微かに発光しており、白でも銀でもなく、虹色にも見えるが虹色でもない。
見る角度で色が変わる――そんな、神秘的な光沢で彩られていた。
鍵穴はついておらず、黄金色の取っ手だけは明確に金属としての手触りを感じる。
本当のところ、この扉を開けてどうなるか分からないが……それでも、将明の選択肢は限られていた。
――一つ、この安全?な廃墟で延々とスープを飲み続ける。
――二つ、砂漠に出てあてもなく彷徨い続ける。
――三つ、扉を開けて未知の場所へと飛び出す。
「……三番目、だな」
将明は迷うことなく呟く。
――なんせ、ここで出来ることは他に何もなさそうだ……。
そう判断した将明は、読めもしない書物だが何かの役に立つかもしれないとそれを左手で掴みながら、扉の前に立つ。
あの広大な砂漠の中から山岳に戻る道を見つけ出すのは、それこそ広大な砂の中から誰かが放り投げた宝石を探し当てるくらいに困難なことに違いない。
となると、美味いスープがあるとはいえそれ以外何の意味も価値も見いだせないここに留まるよりかは、唯一の戦利品ともいえる書物を持ってここからまた新たな場所に繋がっていそうな扉で移動する方が得策だと将明は判断していた。
覚悟を決めるために、深呼吸を行う。
「……よし、行くか!!」
将明は取っ手を回すと、扉が開いた。
それが何を意味するかはわからないが――向こう側からは、光が漏れている。




