3.王代理の絶叫、あるいは侍女の除菌作業
若干大人な表現注意ください。
あまりの怒涛の展開に立ち尽くすソーフィアの横で、アンナが静かに手袋をはめた。
「⋯⋯ソーフィア様。どうやらこの王宮、ブランシュ様がいらっしゃらなかったせいで、随分と『害虫』と『埃』が溜まっているようですわね」
アンナの目が、逃げ遅れた文官たちや、ヴェイロンが消えた廊下を鋭く見据える。
「⋯⋯まずは、この腐った空気から『除菌』して差し上げましょう。ノクスドラク、貴方はさっさと椅子に座って、山積みの書類を片付けなさいな」
数分後。ステファンは執務室で足の踏み場もないほどの書類の塔を見上げていた。
「⋯⋯クソっ、あいつの甘言に騙されて国を出たのがいけなかったのか⋯⋯? いや、それでソーフィアに会えたのは感謝すべきところか⋯⋯」
ブツブツと言いながら床にどっかりと座り(机は書類で埋まっていてスペースがなかった)、ペンを握った。
「王代理、これもお願い致します」
「こちらも決済していただきたく」
「王代理」「王代理」
基本真面目なステファンだが、全て押し付けられる事にものの数時間でキレた。そういえばこの男、基本的には面倒臭がりだった。
「畜生! 帰ってきてすぐ過労死する! 誰だ、ブランシュにちゃんとした補佐をつけなかったのは! ⋯⋯俺だ!! だいたい、書類もきちんと目を通してから決済まで持ってこい! くっそー、サザランズに帰るぞ俺は!!」
もともとブランシュが王に就任してからは十九年、王配候補としてステファンが補佐を行っていた。面倒臭がりで出不精のステファンだったが、ブランシュの王配になるのは諦めていたことだった。
ブランシュの「そうだ、番見つければ王配ならなくていいわよ。十年くらい探してきて」の言葉で国を追い出されて今に至るが、その時に信頼の置ける者を補佐につけなかったのはステファンの失態だった。
自由奔放なブランシュを叱って机に縛り付けられるのはステファンしかいなかったのだ。
「王代理! これも本日中に!」
「⋯⋯っ、分かった! 置いていけ! 崩れないように積めと言っただろうが!」
ステファンの怒号が執務室に響くが、文官たちは「あ、やっぱり仕事できる人が戻ってくると助かるわぁ」と言わんばかりの涼しい顔で、さらに書類を積み上げていく。
サザランズでの自由な冒険者生活が、もはや遠い前世の記憶のようだ。
「ステファン、休憩しない⋯⋯わあ、凄い書類の山」
おずおずと執務室に入ってきたのはソーフィアだ。それまで眼光鋭かったステファンだったが、いきなり恋する男の顔になる。
「⋯⋯悪い、ソーフィア。お前を補給しないと無理だ」
言いながら腰を抱き寄せ、床でソーフィアの頬に軽くキスをする。
ソーフィアは書類が汚れないようにそっとスペースを開け、お盆と共に茶器を置いた。
「私、ブランシュから一筆書いてもらってるから、手伝っていいのなら手伝わせて」
アンナは王宮侍女の鍛えなおしですって、と笑いながら小さなチョコレートをステファンの口に入れた。
「とても真面目なあなたですもの。根を詰めすぎないでね」
ステファンは呆然としながら頷いた。理性で抑え込まないとここでソーフィアを襲ってしまいそうで、口を開いたらに本能に負けそうで。
――結果として、理性が勝った。だが、あのサザランズに帰りたいと切実に思った。
「⋯⋯ソーフィア。お前、自分がどれほど危険なことをしてるか分かってるのか?」
ステファンは掠れた声で呟き、彼女の細い指先を甘噛みする。
書類に囲まれた殺風景な床の上が、彼女がいるだけで極上の寝室のように思えてくる。
「えっ⋯⋯? 甘いものが苦手だった?」
「逆だ。甘すぎて、仕事に戻れる気がしない⋯⋯。ブランシュの奴、よりによってこんな『劇薬』を俺に残していきやがって⋯⋯」
ふう、と長い長いため息をつく。何を思ったのか、ソーフィアはステファンの頭をよしよしと撫でた。
「もう少し、休んでて」
ソーフィアを膝枕にしようと横になったステファンは床に転がった。ソーフィアは立ち上がって書類の山を見据え――。
「よし!」
と、腕まくりをするととんでもない早さで書類を仕分けていった。
「そ、ソーフィア⋯⋯?」
「これは急ぎ、これは要確認、これは急ぎでないもの⋯⋯」
「あの⋯⋯?」
「あら、これは署の確認もされていないわ。子どもの落書きかしら。担当に返す、と」
「ちょ⋯⋯」
「何で決済済みがここにあるのよ? ダメね」
みるみるうちに書類の塔が崩れ、綺麗に整理されていく。それはまるで、神の御業のようでもあった。
「ふふ、こんなものかしら。あっ、ごめんなさい、ステファン! 勝手に⋯⋯!」
「いや、助かった⋯⋯」
「私、カイル殿下の仕事をしていたから、これくらいは得意なの」
俺の番は可愛いだけでなく最高に有能だった⋯⋯。
その頃、王宮の裏手にある侍女詰所からは、悲鳴にも似た号令が響き渡っていた。
「背筋が曲がっていますわよ! それでソーフィア様をお迎えするつもり!? 除菌いたしますわよ!!」
アンナの手に握られているのは、いつの間にか作られていた「除菌スプレー・改Ⅱ」。
だらけきっていた王宮の侍女たちは、元・赤竜の放つ凄まじい威圧感の前に、一糸乱れぬ動きで床を磨き、シーツを整えていた。
「侍女長! 次は厨房の衛生管理ですわ! 腐った食材も腐った根性も、まとめて消毒して差し上げます!」
「ひ、ひぃぃぃ! アンナ様、ご容赦をー!」
「⋯⋯ソーフィア。お前、もしかして俺より仕事できるんじゃないか?」
「そんなことないわよ。ただ、数字と日付の整合性を取るのは昔から得意だっただけ。⋯⋯ステファン、あとはこの『急ぎ』の束にサインするだけよ!」
ステファンは感動のあまり、ソーフィアの細い腰をガシッと抱き寄せ、そのお腹に顔を埋める。
「愛してる⋯⋯。一生離さないし、一生書類仕事手伝ってもらう⋯⋯」
「はいはい。お仕事が終わったら、ね」
ソーフィアが赤くなりながらステファンの頭を撫でる、そんな平和な執務室。その時、仕分けた書類の小山から、ひらり、と一枚の書類がステファンの鼻先に落ちてきた。
「⋯⋯ん、紙が⋯⋯」
そこには、「天竜祭」の企画が記載されていた。しかも日付は一年前だ。
「んなっ⋯⋯」
ステファンはがばりと起き上がり、絶句した。
「⋯⋯あんの、ブランシュの野郎⋯⋯っ! 溜め込み過ぎにも程があるだろう! あれほど日付を守れと、言ったろうがああああ!」
ステファンの絶望的な声が、執務室に響き渡った。
天竜祭。五年に一度開かれる、竜の強さと命の連鎖を竜神に証明する祭りだ。竜化した騎士達が「星落としの儀」で空にある星を落とし、その欠片を人々に振り注がせることで加護を得るのだ。
そして、竜神が祀られている祭壇に王の伴侶が祈りを捧げ、カザドゥームの結界強化を行う。これまではブランシュの王配候補だったステファンが行なってきたが、今年はステファンが王代理であるため、彼の番であるソーフィアが行なわなければならない。
「私が? ⋯⋯できるかしら」
「祈りをささげると言っても、心臓部の水晶に魔力を与えるだけだ。何も難しいことはない」
やや不安げに首を傾げたソーフィアの手をステファンが包む。
「俺達竜人族の、まあ新年を祝うようなもんだ。寿命が長い分、五年に一回だがな」
「でも、結界への魔力の補充なんでしょう? 五年分注がなければならないのではないの?」
「それなりに魔力は必要だが⋯⋯。ソーフィアなら大丈夫だ。何せ、俺の番なんだからな」
そっとステファンはソーフィアの頬に手を添える。少し恥ずかしそうにソーフィアは目を伏せた。そのままステファンは身を屈め、顔を近づけて――。
ドォォォォン!!
と、けたたましい音を立ててアンナが扉を蹴破った。
「ノクスドラク! 休憩時間は終了です!」
扉が蹴破られた瞬間、二人の肩はビクッと跳ね、真っ赤な顔のソーフィアはステファンを押しのけた。そんな二人の様子には何も触れず、アンナはつかつかとソーフィアのもとへと歩いてくる。
「それとソーフィア様、厨房の不浄な食材をすべて廃棄させ、栄養学に基づいた献立に書き換えさせましたわ。あと、この城の下々の教育は終了です」
「え、ええ。って、まだ来たばっかりよね? 早くない!?」
驚愕するソーフィアに、アンナは微笑んだ。
「侍女長は昔の知り合いでしたので、(脅したら)快く了承してくださいました」
「⋯⋯なんだか不穏な言葉が聞こえたような気がするけれど……」
「気の所為です」
にっこりと。それはそれはとても良い笑顔だった。
一方、自邸で余裕の表情を浮かべていたヴェイロンは、目の前に突きつけられた報告書を見て、手にしたワイングラスを叩き割った。
「⋯⋯何だと? 侍従や侍女が赤髪の女一人に洗脳されただと? 馬鹿な、十年以上掛けて人族への怨嗟を積み重ねてきたのだぞ!?」
さらに報告は続く。
「そ、それから⋯⋯。王代理の執務室から、数ヶ月分の滞納書類がすべて『完璧な処理』で各部署に返却されております⋯⋯。処理の速さは、以前のブランシュ陛下の十倍以上かと⋯⋯」
ヴェイロンは震える手で顔を覆う。
「ノクスドラクが来た途端、これほどまでに⋯⋯。あれは、あいつらは、番も含めて化け物か⋯⋯?」
「⋯⋯ヴェイロン様に注意しろ?」
夜も更けた頃。ステファンの王宮での部屋にて。
書類を捌き切ったご褒美としてソーフィアを堪能する権利を(アンナから一日だけ)もらった。
先程からステファンはソーフィアを後ろから抱きしめ、肩口に顔を埋めたまま動かない。
「⋯⋯ああ、ブランシュの異母兄⋯⋯というか、俺の従兄弟なんだが、奴は、自分こそが王に相応しいと思っている。昔から俺への当たりも強かった。もしかすると、ソーフィアが標的になるかもしれん。充分注意してくれ」
「え、ええ。分かったけど、この体勢で言う、ふつう?」
「⋯⋯効率化だ。もう限界だ。お前が、⋯⋯欲しい。いいか⋯⋯?」
そして後ろから深く口づける。
「んむっ!? ⋯⋯それ、どんな話のつながり……」
「話のつながりなんて、知るか⋯⋯」
ステファンの低く掠れた声が耳元を掠め、ソーフィアの思考は一瞬で白く染まった。
書類の山を片付け、張り詰めていた「王代理」としての虚飾が剥がれ落ちる瞬間。そこにいるのは、ただただ愛する番を渇望する一頭の黒竜だった。
カーテンの隙間から差し込む光に、ソーフィアは重い瞼を開ける。浮遊島が隙間から微かに見えた。
隣には、昨夜の「強欲」な姿とは裏腹に、満足げな寝顔で自分を抱きしめるステファン。
(⋯⋯本当に、竜人族の体力って底なしなんだから⋯⋯)
ソーフィアがそっと身を起こそうとした瞬間、首の「番の刻印」が微かに熱を持った。ステファンの魔力がソーフィアの体内に馴染み、確かな「盾」として機能し始めた合図だった。
「時間ですよ、ノクスドラク王代理!!」
爆音のようなノックと共に、アンナが部屋に踏み込んできた。
一瞬で布団を頭まで被ったソーフィアと、飛び起きて「クソッ、あと五分⋯⋯!」と叫ぶステファン。
「五分もクソもありません! 昨夜の『ご褒美』は存分に堪能されたのでしょう? 今日からはまた、灰色のトカゲを黙らせる仕事が待っております!」
アンナは手際よくソーフィアを回収し、着替えさせるために隣の部屋へと消えていった。
――「天竜祭」当日まで、あと少し。
カザドゥームの王宮に降り立った時から、アンナはどこか懐かしいような香りを嗅ぎ取っていた。
――まさか、ね。
王宮侍女たちの働きぶりを見回っていると、見知った香りを持つ年若い青年騎士が通り過ぎていく。
「っ!?」
ドクン。
心臓が鳴り、アンナは無我夢中で走り出した。
「ちょっと、お待ちください!」
――竜人族には言い伝えがある。逆鱗を渡せずに死んだ竜人族は、番を見つける能力は失われるが、生まれ変わることができる――と。
「⋯⋯ハァ、ハァ⋯⋯っ。どこ⋯⋯?」
アンナの鋭い視線が四方を探るが、先ほど角を曲がったはずの青年騎士の姿は、影も形もなかった。
かつて、自分が逆鱗を渡そうとした、あの愛しい人。
彼と最後に会った時の「甘いジンジャーの香り」が、今の風の中に確かに混じっていた。
「⋯⋯気のせいよ。そんなはず、ありません」
アンナは震える手で自らの頬を叩く。
自分はもう、五百歳を越えた竜。対して先ほどの背中は、まだ成竜式を終えたばかりのような、瑞々しくも青い気配を纏っていた。
一方、王宮の練兵場。
一人の青年騎士が、先輩騎士たちに囲まれていた。
「おい、リュカ! お前、さっき侍女軍団の『死神』に追いかけられてなかったか?」
「えっ? ⋯⋯ああ、あの赤髪の⋯⋯。いえ、僕はただ通り過ぎただけですが。なんだか、ひどく懐かしい香りがしたような気がして、つい振り返りそうになって⋯⋯」
リュカと呼ばれたその青年は、困ったように笑いながら、自分の胸元をさすった。
そこには、生まれつき痣のような、奇妙な「欠けた逆鱗の形」をした刻印があった。
あ……アンナ……!?




