5.殺されてもいい、一割の奇跡
本日2回目の投稿です。
翌朝。ステファンは頭痛で目が覚めた。
「⋯⋯飲みすぎたか⋯⋯くそ、ブランシュの奴⋯⋯」
「私がどうしたって?」
隣から聞こえた涼やかな声。ステファンの思考はわずかに停止する。ぎぎぎ、とまるで油の切れた機械のような動きで声の方を向くと、ソファーにどっかりと座っているブランシュがステファンの宿の部屋にいた。
「⋯⋯なっ!? はっ!?」
「酔い潰れたあなたを宿まで支えて、一晩中ソーフィアへの愛を聞かされたこっちの身にもなってよ。ふぁ⋯⋯眠⋯⋯」
「ここで寝るな! 帰れ!」
コンコン、と戸を叩く音。
「ステファン、お、おはよう。あの⋯⋯」
ソーフィアの声とともに戸が開けられた。
「ソーっ、待っ⋯⋯!」
ソーフィアの視線がソファーに眠るブランシュに向けられ、彼女の瞳は驚きで見開かれ、みるみるうちに怒りと悲しみが混ざったような表情になる。
「⋯⋯ステファン、大っ嫌い!」
バタン! と閉められた扉の音だけが早朝の廊下に虚しく響いた。
閉ざされた扉の向こうから、ソーフィアの走り去る足音が遠ざかっていく。ステファンは、まだ酒の残る頭を抱え、絶望的に顔を歪めた。
「⋯⋯終わった。俺の人生、今、完全に終わった⋯⋯。死ぬ⋯⋯」
「あら、意外と早かったわね。ねえ、今の『大っ嫌い」って、『好き』の反対ってことでしょう? 完全に振られたわね」
「うるさい! 全部、全部お前のせいだぞ、ブランシュ!」
「なによぉ、ソーフィアと出会えたのは私のおかげなのよー」
ぶつくさと文句を言うブランシュを残し、ステファンは部屋を飛び出した。
宿から出た瞬間、一人の影が立っていた。
「ずいぶんと賑やかな朝ですこと。ノクスドラク。昨夜はずいぶんとお楽しみだったのでは?」
そこに立っていたのは、竜の魔力を具現化するほど怒りをたたえたアンナだった。
彼女の瞳孔は竜のように縦に伸びている。
「あ、アンナ!? 誤解だ! ブランシュが勝手に⋯⋯!」
「お嬢様が泣いておられました。番を泣かせるなど、竜人族の風上にも置けません。ここで『消毒』差し上げてもよろしいのですよ?」
アンナの手のひらからバチバチと魔力が空気を震わせていた。
「ま、待て! 話を聞け! ソーフィア、ソーフィアはどこだ!?」
「さあ、どこでしょう。あなたの血に聞けばよいのでは? さっさと振られればよろしい」
ステファンはアンナの脇をすり抜け、全速力で走り出した。
二日酔いでさえ、ソーフィアを失う恐怖と比べたら塵に等しい。
サザランズの朝の喧騒を、ステファンは風を切って駆け抜ける。
「クソっ、どこだ!? ソーフィア、どこにいる⋯⋯!」
ソーフィアはステファンの血を飲んだとはいえ、この街の中ではどこにいるのか近すぎて分からない。
街中ソーフィアの甘い香りで満たされ、ステファンを惑わす。
焦って魔力が暴走しそうになるのを必死に抑え、自身の血の中に流れる「番」への共鳴に全神経を集中させた。
魂が呼ぶ、竜人族の本能。
程なくして、街の喧騒から離れた古い教会の片隅に、震えるような魔力を感じ取った。
朝露に濡れたベンチにうずくまり、肩を震わせて泣いているソーフィアがいた。
「⋯⋯バカ。ステファンのバカ。番って、唯一って、言ったくせに⋯⋯」
白くなるほど握りしめた手に、ポタポタと熱い雫が零れていく。
「ソーフィア!!」
ステファンの叫び声に、ソーフィアはビクッと肩を跳ねさせ、顔を上げた。その瞳は真っ赤に腫れ、裏切られた悲しみでいっぱいだった。
「違う! 違うんだ、ソーフィア! あいつとは、そんなんじゃねえ! ⋯⋯あいつは、ただの⋯⋯っ」
言葉が詰まる。ブランシュとの「半年」という期限、そして「真の契り」の恐ろしいリスク。それらを隠したままでは、どんな言葉も上滑りして消えてしまうことに、ステファンはようやく気づいた。
「『ただの』何⋯⋯? 私、ステファンにとっての『番』って、もっと特別なものだと思ってた。でも、ステファンは私を信じてくれない。いつも何かを隠して、子供扱いして⋯⋯!」
ソーフィアの絞り出すような叫びが、ステファンの胸を貫く。
自身の血の中で、彼女の悲しみが濁流となって渦巻いている。これ以上、本能は嘘をつけなかった。
「⋯⋯隠していたのは、お前を失うのが、怖かったからだ」
ステファンは震える膝を地につき、彼女の目線まで腰を落とした。
朝の光が、二人の間に流れる「砂時計」を非情に照らし出す。
「⋯⋯聞け、ソーフィア。俺たちの『番』には、命懸けの裏側があるんだ」
肩で大きく息をしながら、ステファンはソーフィアの前に跪いた。
恐怖と息切れと二日酔いで顔色は悪かったが、その瞳は真剣そのものだった。
「お前と一生を添い遂げるための、『真の契り』。それには俺の逆鱗を、お前が飲み込む必要がある。――だが、それは俺の魔力で種族を再構築する、危険極まりない行為なんだ」
ステファンは彼女の握りしめられた手をそっと包み込み、それを自らの額に当てた。
「⋯⋯成功率は一割を切る⋯⋯。俺のエゴのために、そんな⋯⋯恐ろしいこと⋯⋯、お前を失うかもしれないと思うと⋯⋯」
包み込んだ彼の手は震えていた。
「ステファン⋯⋯」
それなのに、と彼は言葉を紡いだ。
「もし、お前と離れることを考えると、無理なんだよ⋯⋯。お前が、誰か別の男の隣にいるっていう未来を考えただけで死にそうになる⋯⋯! こんな、もう、離せそうにないのに、そんな重荷⋯⋯これ以上重荷をお前に背負わせられるか!!」
苦しい心からの言葉を吐き出し、ステファンはソーフィアをベンチから引っ張って抱きしめた。
「ソーフィア、俺は、俺は⋯⋯もう、どうすればいい⋯⋯? お前を失うのは嫌だ。それなら、このまま、この関係のまま、ここにいたい」
「⋯⋯ステファン⋯⋯」
「でも、もう、時間がないんだ。あと半年で、俺は国に帰る。⋯⋯嫌だ⋯⋯嫌だ、ソーフィア⋯⋯」
抱きしめられたソーフィアの肩に、ステファンの熱い額が押し当てられる。
人族よりも高い体温、激しく脈打つ心音。そして、微かに混じる酒精の香りと、隠しきれないステファンの「弱さ」が、肌を通じて彼女に流れ込んできた。
ステファンは怖かったのだ。
王家と戦うことでも、世界を敵に回すことでもない。
ただ、自分の「重すぎる愛」のせいで、ソーフィアが壊れてしまうことを。
「⋯⋯ずるいわ、ステファン」
ソーフィアは震える腕を上げ、彼の広い背中にそっと回した。
自分も怖かった。彼が自分を見ていないのではないかと、昨夜からずっと心が千切れそうだった。けれど、今こうして彼が曝け出したのは、無様で、美しくて、絶望的なほど深い「一途な執着」だった。
「⋯⋯あのね、ステファン。私、ブランシュとあなたが二人でいるところを見て、多分、嫉妬したの。ね、顔を上げてよ」
そっと両頬に手を当て、ソーフィアは促した。ノロノロと顔を上げたステファンは、涙の跡を残しながら情けない顔をしている。
「ステファン、あなた、私のことをそんなに大切に思ってくれていたのね」
そっと涙の跡を指でなぞる。
「重荷なんかじゃない。私、やっと自由になれたの。どこにでも行ける。でも、あなたが隣にいないとさみしいわ。寿命が違うのなら、同じにして。私を、本当の番にしてよ⋯⋯」
「ソーフィア、その意味、分かっているのか? 死ぬかもしれないんだぞ」
「あなたと一緒なら、なんだって乗り越えられる気がするの」
ソーフィアはステファンの胸に甘えるように顔を擦り寄せる。
「ステファン、もっと、ちゃんと伝えてよ。言葉で言えないなら、態度で。そんなに想ってくれてるなんて、知らなかったんだから⋯⋯!」
「まったく、朝からとんだ痴話喧嘩だったわ」
ブランシュは呆れながら建物の影から出てきた。
ステファンは、ソーフィアを抱きしめたまま、背後から現れたブランシュを鋭い眼光で睨みつた。
「⋯⋯いつから見てた」
「最初からよ。黒竜がワンワン泣きついてる姿なんて、腹が捩れるくらい傑作だったわ。⋯⋯でも、いいわ。今宵、真の契りを行いなさい」
「おい! ブランシュ!?」
「成功率一割って、ただの『平均』でしょう?」
ブランシュはいたずらっぽく微笑む。
「ただ漫然と逆鱗を飲ませた場合、成功率は限りなく低いわ。二人の共鳴率が高ければ高いほど、成功率は上がる。⋯⋯私の見立てでは、あなたたち、かなりの共鳴率よ?」
ソーフィアとステファンはお互い顔を見合わせる。
ブランシュは真剣な表情に戻り、ソーフィアの瞳をじっと見つめた。
「ソーフィア。竜人族の『番』として生きることは、貴女の魂をノクスドラクの魔力で染め上げるということ。人族としての平穏な死はもう訪れない。それでも、この不器用な男と数百年を歩む覚悟、本当にあるのね?」
「⋯⋯はい。私の居場所は、ステファンの隣だけだから」
ブランシュはソーフィアの覚悟を聞くと、ふっと微笑んだ。
「⋯⋯決まりだわ」
その夜、サザランズの街がいつもの喧騒に包まれている中、静かな月の光だけが二人の部屋を照らしていた。
ここは、ステファンの部屋。十年ほど滞在している割には物が少なく、見る者によっては殺風景にも見える。
整えられた寝室と、寛ぐためのソファー。壁際には冒険者用のコートが掛けられ、きちんと手入れをされた双剣も掛けられている。あとは小さなクローゼットとシャワールーム。それだけだ。
「悪いな、待たせた」
所在なげに立っていたソーフィアの背後から声がかけられ、ビクンと肩が跳ねる。いつもよりも簡素な服を着たステファンが頭をかき上げた。
「アンナに捕まってアレやコレや小言を言われた」
ふう、とため息をつく。緊張しているソーフィアを見ると、ステファンは苦笑した。
「そう硬くならなくてもいい。⋯⋯まあ、無理な話か」
実は俺もだ、とステファンの胸にソーフィアの手を当てた。早鐘のように打つ彼の心臓の音が、高い体温と共にソーフィアの手に伝わってくる。
「⋯⋯これは、俺の逆鱗だ。これをお前に飲み込んでもらいたい」
そう言って出したのは、黒い魔力をまとい、ガラス質のまるで宝石のような竜の逆鱗だった。だが、同時に熱く脈打つような拍動を感じる。
ふいに、ソーフィアの脳裏にアンナの言葉が蘇る。
――彼は逆鱗を失って、死んでしまった――
ソーフィアは恐る恐る受け取る。手のひらに乗る、軽いようで、重い、ステファンの命。
「もし、儀式に失敗して、お前が死んだら、俺も一緒に死んでやる」
「⋯⋯っ!?」
「⋯⋯俺は、お前なら殺されてもいいと思った唯一の女だ」
それを聞いたソーフィアも覚悟を決めた。
「それを言われたら、絶対失敗できないじゃない。⋯⋯あなたの命、私に預けて」
言いながらソーフィアは黒く脈打つ宝石のような逆鱗を飲み込んだ。硬そうなそれは、ほのかに温かく、飲み込んだ瞬間に溶けるように消えた。
「あっ、くっ⋯⋯!」
同時に、ソーフィアの体の中で熱く燃えるような衝撃が走る。耐えきれず、彼女は胸を掻きむしった。
「耐えろ! ソーフィア!」
ステファンはソーフィアの手を押さえつけるように握りしめた。彼女が、それ以上己を傷つけないように抱きしめ、彼女に噛み付くような深い口づけをする。
「んんっ、んむ、あっ!」
体の中の灼熱と、それを冷ますかのようなステファンの魔力。ソーフィアの目尻から涙がこぼれた。
部屋の中に膨大な魔力が渦巻き、ソーフィアを包む繭となる。
「始まったわね⋯⋯」
宿の外、閉められたカーテンの隙間から見えるその明滅に、ブランシュは呟いた。傍らではアンナが祈るように両手を固く組んでいる。
「どうか、生き残ってよね⋯⋯」
苦しいほどの熱さ。けれど、それは不思議と心地よい、ステファンに包まれる感覚。熱は徐々に混ざり合い、ソーフィアのもう一つの鼓動を刻み始めた。
部屋を渦巻いていた膨大な魔力の繭が、雪が溶けるようにゆっくりと霧散していった。
静寂が戻った部屋で、ステファンはソーフィアを抱きしめたまま、その肩に深く顔を埋めている。彼の荒い呼吸が、安堵と共に少しずつ穏やかなものへと変わっていった。
「⋯⋯はぁ、⋯⋯っ、ソーフィア。大丈夫か? 気分は⋯⋯」
恐る恐る顔を上げたステファンの瞳には、隠しようのない不安と、それ以上の深い愛が滲んでいた。
ソーフィアがゆっくりと顔を上げると、ステファンは息を呑んだ。
金髪だった髪は、毛先にかけて夜の闇を溶かしたような漆黒のグラデーションを帯び、空色の瞳はステファンの紅を1部取り入れ、朝焼けを思わせる。瞳孔はやや縦に伸び、竜人族のそれになった。
彼女の首、ちょうど頸動脈の辺りにステファンの逆鱗と同じ色の印――ステラが輝き、苦しさに悶えた時にずり落ちた衣服から覗く左の肩甲骨に、小さな黒い竜の翼の模様が浮かんでいた。
「⋯⋯ふふ、ステファン。すごく体が軽いの。不思議だわ。⋯⋯それに、あなたの鼓動が聞こえる気がするの」
ソーフィアは自分の胸に手を当て、慈しむように微笑んだ。
「⋯⋯ソーフィア⋯⋯! 良かった⋯⋯」
感極まったようにステファンは名を呼び、そのまま寝台に押し倒した。
「きゃあっ!?」
「⋯⋯もう、離さないからな。泣いても喚いても、それこそ、一生」
「⋯⋯ええ、受けて立つわ」
そっと、ステファンはソーフィアに口づけを落とした。儀式のときとは違う、慈しみと未来への約束を込めた柔らかいものだった。
えっと……ステファン良かったね⁉




