第九話 自動解約の光
判決書が届いた朝、私は、左手の指輪を見ていた。
銀の、細い、婚姻の指輪。
十年前の春、伯爵邸の礼拝堂で、夫の手ではめられた、それ。
普段は、指に馴染みすぎて、存在を忘れている。
忘れていたのに、今朝は、指の内側の付け根が、ほんの少し熱かった。
——契約魔法が、震えている。
執務室の卓の上で、封筒を開いた。
蝋の、王家の金の印。
中の紙は、上質の、少しだけ分厚い紙だった。
『リーデル伯爵家、領内経営に係る暫定召し上げに伴い、同領地の経営代行を、ローゼンベルク公爵家に委任す。
委任開始、本月、ラトゥス月、金曜日。
代行に係る実務監督責任者として、エレノラ・リーデル伯爵夫人を任命す——』
読み終えて、しばらく、紙を置かなかった。
卓の向かいで、公爵が、私を見ていた。
「——驚かれたでしょう」
「驚きました。けれど、途中からだいたい察しはついておりました」
「いつ頃から」
「先週、貴族院の、宰相閣下の視線から」
公爵は、少しだけ口元を動かした。
「お目がよろしい」
「——閣下」
私は、判決書を卓に戻した。
「実務監督責任者、という肩書きでお受けすれば、よろしいのですね」
「いえ」
公爵は、言った。
「顧問でもない。実務監督責任者でも、ない」
「……と、仰いますと」
「——共同経営者として、お受けいただけませんか」
指輪の内側の熱が、一段、上がった。
◇
「……共同、経営者」
「顧問では、あなたの責任が限定されてしまう」
公爵は、続けた。
「王家の委任は、ローゼンベルク公爵家への代行指定です。けれど、代行の中身は、あなたがお作りになる。作る人間と責任を持つ人間が違うのは、——私の流儀ではありません」
「……」
「それで、よろしいのですか」
「——よろしく、ありません」
思わず、少しだけ、口調が掠れた。
「よろしくない、というのは」
「私は、いまの、この立場で、こちらのお屋敷で暮らしながら、共同経営者の肩書きをお受けすることになります。それを、閣下は、本当によろしいのですか」
「……」
公爵は、しばらく、黙った。
「よろしくないのは、私のほうではなく、あなたのほうです、と、仰りたいのですね」
「ええ」
「離縁がまだ、制度上の手続きの中途である、とも、仰りたいのですね」
「ええ」
「ご心配には及びません」
公爵は、短く、首を横に振った。
「制度のほうが、すぐに追いつきます」
——追いつきます。
追いつかせる、とは、言わなかった。
追いつく、と、言った。
自分で起こすのではなく、既に起きることが見えているように。
「……お受けいたします」
私は、頭を下げた。
下げた頭の下で、指輪の熱が、もう一段、上がった。
◆◆◆
同じ日の午後。王都郊外、クラウン子爵領の小さな離れ。
仮住まいの客間の、午後の光。
アレクシスは、窓辺で、左手の指輪を見ていた。
妻のものと、対の、同じ細工の銀の指輪。
その内側が、ずっと熱かった。熱くなり続けて、それから、ゆっくりと冷めていった。
冷めた瞬間に、指輪の細い表面の、薄い、透明な光が、——消えた。
ずっとそこにあったと知らずにいた光が、消えて、はじめて、そこにあったのだと気づいた。
「……」
アレクシスは、指輪を外そうとした。
外れた。
十年、一度も外したことがなかった指輪が、何の抵抗もなく、指から滑った。
扉が、開いた。
レティシアが、入ってきた。
彼女は、アレクシスの手の中の指輪を見て、少しだけ目を細めた。
「……消えたのね」
「ああ」
「自動解約の条項、ですものね。——奥様が、十年前に、お父上の勧めで、ご自分の婚姻契約にお入れになっていた、と。弁護士の先生、仰っていたでしょう」
「……覚えている」
「十年、気にもしていなかったでしょう」
「……」
レティシアは、窓辺に歩み寄って、外の、ちらほらと咲き始めた白い花を見た。
「——もう、あなたには、何もないのね」
呟くように、言った。
「私にも、何も残らなかったけれど。——あなたには、もう、何も戻ってこないのね」
それから、彼女は、外套を肩から羽織った。
「実家に、帰ります」
「……レティシア」
「追ってこないで。追ってきても、父が迎え入れません。儀典官の職を失くした父に、もう、余分な部屋はないのよ」
扉が、閉まった。
部屋の中に、アレクシス一人と、ぬるくなった指輪が、残った。
◆◆◆
金曜日の朝。
公爵領の、大広間。
共同経営者就任の、小さな式典が開かれた。
出席者は、公爵家の主要貴族と、公爵の妹イザベラ嬢、家老のアンナ、そしてマーカス次官。規模は、形式を整えるためだけの、最小限のものだった。
中央の長机に、契約書が一通、置かれていた。
私が、公爵領の共同経営者として、署名する書類。
その前に、もう一つの契約が、解ける時刻が、近づいていた。
指輪の内側が、熱くなった。最後の熱の山が、指の付け根の裏側まで、上ってきた。
マーカス次官が、懐中時計を見た。
「——自動解約の、刻限でございます」
時計の針の音が、一度、大きく聞こえた。
指輪の、銀の表面の、薄い、透明な光が、——消えた。
左手の指の内側から、熱が引いた。
引いたあとに残ったのは、ただの、銀の、冷たい指輪だった。
婚姻の封印は、もう、そこになかった。
私は、指輪を外した。
外れた。
十年、一度も外したことがなかった指輪が、何の抵抗もなく、指から滑った。
指輪を、アンナに手渡した。
アンナは、銀の盆を両手で差し出して、その上に丁寧に置いた。
長机の前で、ペンを手に取った。
ペン先を紙の上に下ろす前に、一度、迷った。
リーデル——の姓は、もう、ない。
アシュフォード——の姓に戻る選択肢はあった。
けれど、戻る、という言葉は、今朝の私の内側には、なかった。
私は、一字ずつ書いた。
『エレノラ』
姓は、書かなかった。
それだけだった。
傍らで、公爵が、短く息を吐いた。
私は、顔を上げなかった。
上げずに、筆を置いた。
式典の列席者たちの拍手が、遅れて起きた。
拍手は、すぐに整った。
公爵は、一度も拍手をしなかった。
拍手をせずに、私の書いた署名を、しばらく見ていた。
◇
式典のあと、大広間の柱の陰で、イザベラ嬢が兄の袖を引いた。
私は、離れた位置でマーカス次官と短い話をしていた。
話の合間に、少しだけ、視線がそちらへ流れた。
イザベラ嬢は、小さな声で何か言っていた。私の耳には届かなかった。
届かなかったけれど、兄のほうが妹の顔を見なかったのは、見えた。
視線を、少しだけ私の方に置いて、すぐに戻した。
戻して、首を、一度だけ横に振った。
「——兄上、本当に、言わないつもり、ですの」
イザベラ嬢の声だけが、一瞬、風に乗って届いた。
公爵は、答えなかった。
◇
夜、執務室の扉の外で、足音が止まった。
仕事の最中だった。
ペン先の音を途切れさせずに書いていた書類の途中で、私は、手を止めた。
足音は、はっきりと扉の前まで近づいて——それから、止まった。
扉を叩く音は、来なかった。
……。
扉の向こうで、しばらく、人が立っていた。
立っているのが、空気の密度で分かる種類の近さだった。
人の呼吸が、あった気がした。
呼吸のあとに、一度、短い、小さな、息を吐く音があった気がした。
それから、足音は、来たときよりもゆっくりと遠ざかっていった。
扉は、叩かれなかった。
何も、言われなかった。
——今夜は。
ペン先を、もう一度、紙の上に下ろした。
書きかけの行の途中から、続けて書いた。
書いたけれど、一時、文字が揺れた。
揺れた文字は、一行、消して、もう一度書き直した。
署名の欄に、私は、署名をした。
『エレノラ』
姓のない署名は、まだ、ペン先が慣れなかった。
慣れなかったけれど、これが、私の、これからの手の動きだった。




