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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第九話 自動解約の光

判決書が届いた朝、私は、左手の指輪を見ていた。


銀の、細い、婚姻の指輪。

十年前の春、伯爵邸の礼拝堂で、夫の手ではめられた、それ。

普段は、指に馴染みすぎて、存在を忘れている。

忘れていたのに、今朝は、指の内側の付け根が、ほんの少し熱かった。


——契約魔法が、震えている。


執務室の卓の上で、封筒を開いた。

蝋の、王家の金の印。

中の紙は、上質の、少しだけ分厚い紙だった。


『リーデル伯爵家、領内経営に係る暫定召し上げに伴い、同領地の経営代行を、ローゼンベルク公爵家に委任す。

委任開始、本月、ラトゥス月、金曜日。

代行に係る実務監督責任者として、エレノラ・リーデル伯爵夫人を任命す——』


読み終えて、しばらく、紙を置かなかった。

卓の向かいで、公爵が、私を見ていた。

「——驚かれたでしょう」

「驚きました。けれど、途中からだいたい察しはついておりました」

「いつ頃から」

「先週、貴族院の、宰相閣下の視線から」

公爵は、少しだけ口元を動かした。

「お目がよろしい」


「——閣下」

私は、判決書を卓に戻した。

「実務監督責任者、という肩書きでお受けすれば、よろしいのですね」

「いえ」

公爵は、言った。

「顧問でもない。実務監督責任者でも、ない」


「……と、仰いますと」

「——共同経営者として、お受けいただけませんか」


指輪の内側の熱が、一段、上がった。



「……共同、経営者」

「顧問では、あなたの責任が限定されてしまう」

公爵は、続けた。

「王家の委任は、ローゼンベルク公爵家への代行指定です。けれど、代行の中身は、あなたがお作りになる。作る人間と責任を持つ人間が違うのは、——私の流儀ではありません」

「……」

「それで、よろしいのですか」

「——よろしく、ありません」

思わず、少しだけ、口調が掠れた。

「よろしくない、というのは」

「私は、いまの、この立場で、こちらのお屋敷で暮らしながら、共同経営者の肩書きをお受けすることになります。それを、閣下は、本当によろしいのですか」

「……」

公爵は、しばらく、黙った。

「よろしくないのは、私のほうではなく、あなたのほうです、と、仰りたいのですね」

「ええ」

「離縁がまだ、制度上の手続きの中途である、とも、仰りたいのですね」

「ええ」

「ご心配には及びません」

公爵は、短く、首を横に振った。

「制度のほうが、すぐに追いつきます」


——追いつきます。

追いつかせる、とは、言わなかった。

追いつく、と、言った。

自分で起こすのではなく、既に起きることが見えているように。


「……お受けいたします」

私は、頭を下げた。

下げた頭の下で、指輪の熱が、もう一段、上がった。


◆◆◆


同じ日の午後。王都郊外、クラウン子爵領の小さな離れ。


仮住まいの客間の、午後の光。

アレクシスは、窓辺で、左手の指輪を見ていた。

妻のものと、対の、同じ細工の銀の指輪。

その内側が、ずっと熱かった。熱くなり続けて、それから、ゆっくりと冷めていった。

冷めた瞬間に、指輪の細い表面の、薄い、透明な光が、——消えた。

ずっとそこにあったと知らずにいた光が、消えて、はじめて、そこにあったのだと気づいた。

「……」

アレクシスは、指輪を外そうとした。

外れた。

十年、一度も外したことがなかった指輪が、何の抵抗もなく、指から滑った。


扉が、開いた。

レティシアが、入ってきた。

彼女は、アレクシスの手の中の指輪を見て、少しだけ目を細めた。

「……消えたのね」

「ああ」

「自動解約の条項、ですものね。——奥様が、十年前に、お父上の勧めで、ご自分の婚姻契約にお入れになっていた、と。弁護士の先生、仰っていたでしょう」

「……覚えている」

「十年、気にもしていなかったでしょう」

「……」

レティシアは、窓辺に歩み寄って、外の、ちらほらと咲き始めた白い花を見た。

「——もう、あなたには、何もないのね」

呟くように、言った。

「私にも、何も残らなかったけれど。——あなたには、もう、何も戻ってこないのね」

それから、彼女は、外套を肩から羽織った。

「実家に、帰ります」

「……レティシア」

「追ってこないで。追ってきても、父が迎え入れません。儀典官の職を失くした父に、もう、余分な部屋はないのよ」


扉が、閉まった。

部屋の中に、アレクシス一人と、ぬるくなった指輪が、残った。


◆◆◆


金曜日の朝。

公爵領の、大広間。

共同経営者就任の、小さな式典が開かれた。


出席者は、公爵家の主要貴族と、公爵の妹イザベラ嬢、家老のアンナ、そしてマーカス次官。規模は、形式を整えるためだけの、最小限のものだった。

中央の長机に、契約書が一通、置かれていた。

私が、公爵領の共同経営者として、署名する書類。


その前に、もう一つの契約が、解ける時刻が、近づいていた。


指輪の内側が、熱くなった。最後の熱の山が、指の付け根の裏側まで、上ってきた。

マーカス次官が、懐中時計を見た。

「——自動解約の、刻限でございます」


時計の針の音が、一度、大きく聞こえた。


指輪の、銀の表面の、薄い、透明な光が、——消えた。


左手の指の内側から、熱が引いた。

引いたあとに残ったのは、ただの、銀の、冷たい指輪だった。

婚姻の封印は、もう、そこになかった。

私は、指輪を外した。

外れた。

十年、一度も外したことがなかった指輪が、何の抵抗もなく、指から滑った。


指輪を、アンナに手渡した。

アンナは、銀の盆を両手で差し出して、その上に丁寧に置いた。


長机の前で、ペンを手に取った。

ペン先を紙の上に下ろす前に、一度、迷った。

リーデル——の姓は、もう、ない。

アシュフォード——の姓に戻る選択肢はあった。

けれど、戻る、という言葉は、今朝の私の内側には、なかった。


私は、一字ずつ書いた。


『エレノラ』


姓は、書かなかった。

それだけだった。


傍らで、公爵が、短く息を吐いた。

私は、顔を上げなかった。

上げずに、筆を置いた。


式典の列席者たちの拍手が、遅れて起きた。

拍手は、すぐに整った。

公爵は、一度も拍手をしなかった。

拍手をせずに、私の書いた署名を、しばらく見ていた。



式典のあと、大広間の柱の陰で、イザベラ嬢が兄の袖を引いた。

私は、離れた位置でマーカス次官と短い話をしていた。

話の合間に、少しだけ、視線がそちらへ流れた。


イザベラ嬢は、小さな声で何か言っていた。私の耳には届かなかった。

届かなかったけれど、兄のほうが妹の顔を見なかったのは、見えた。

視線を、少しだけ私の方に置いて、すぐに戻した。

戻して、首を、一度だけ横に振った。


「——兄上、本当に、言わないつもり、ですの」

イザベラ嬢の声だけが、一瞬、風に乗って届いた。

公爵は、答えなかった。



夜、執務室の扉の外で、足音が止まった。


仕事の最中だった。

ペン先の音を途切れさせずに書いていた書類の途中で、私は、手を止めた。

足音は、はっきりと扉の前まで近づいて——それから、止まった。

扉を叩く音は、来なかった。


……。


扉の向こうで、しばらく、人が立っていた。

立っているのが、空気の密度で分かる種類の近さだった。

人の呼吸が、あった気がした。

呼吸のあとに、一度、短い、小さな、息を吐く音があった気がした。


それから、足音は、来たときよりもゆっくりと遠ざかっていった。

扉は、叩かれなかった。

何も、言われなかった。

——今夜は。


ペン先を、もう一度、紙の上に下ろした。

書きかけの行の途中から、続けて書いた。

書いたけれど、一時、文字が揺れた。

揺れた文字は、一行、消して、もう一度書き直した。


署名の欄に、私は、署名をした。

『エレノラ』

姓のない署名は、まだ、ペン先が慣れなかった。

慣れなかったけれど、これが、私の、これからの手の動きだった。

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