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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第十話 終身契約

翌朝、公爵が、私の執務室に来た。


昨夜、扉を叩かなかった人と、同じ足音だった。

けれど今朝は、足音は扉の前で止まらなかった。

止まらずに、短く、一度、扉が叩かれた。

「——どうぞ」

入ってきたのは、書類の束を脇に抱えた公爵だった。髪が、いつもよりほんの少しだけ整っていた。普段は気にしない人の、普段より整っている朝というのがある。それだけの違いだった。


机の向かいに、立った。

座らずに、書類の束から一枚を抜いて、机の真ん中にそっと置いた。


題を、目で追った。


『共同経営者契約 終身化案』


……。


紙の右下に、彼の署名が、既に入っていた。

左下の空欄は、私の名が入るように、空けられていた。


私は、契約書を手元に引き寄せた。

一条、一条、読んでいった。


第一条。業務時間は、一日六時間。——昨日と同じ条件。

第二条。休日は、週に二日。——昨日と同じ条件。

第三条。代表者の連名署名を要する書類の範囲。——昨日と同じ範囲。


公爵領の、共同経営者としての約束事が、並んでいた。

昨日交わしたばかりの条文のほとんどが、そのまま写されていた。

新しく書き加えられたのは、最後の一条だけだった。


第八条——末尾条項。

『両者の、相互敬意に基づく、終身の伴侶としての、約束とす』


顔を、上げた。

公爵の指先が、机の端で、一度、動いた。

すぐに、止まった。

止めた動きのほうに、私は、目を奪われた。


「——エレノラ殿」

公爵は、口を開いた。

「共同経営者の契約を、——終身に、書き換えていただけませんか」



部屋が、しばらく、静かだった。


窓の外で、春の朝の薄い風が、木立を小さく揺らしていた。

卓の上の、昨夜の紅茶の小さな匂いが、まだ残っていた。


「……閣下」

「ヴィンセントと、お呼びくださって結構です」

それより先に、言われた。

どちらが先に、どちらを呼ぶか、既に考えてきた人の答え方だった。

「……ヴィンセント様」

私は、言った。

言い慣れない名前を、一度、舌の上で預かって、それから、返した。


「——この、契約書の書き方を、先にうかがっても、よろしいでしょうか」

「どうぞ」

「『終身の伴侶』の前に、『相互敬意に基づく』と、入れてくださったのは」

公爵は、少しだけ目を伏せた。

「——私が、そう書かずにあなたに差し出すことは、できなかった」

「……」

「敬意がなくなった夜があれば、この一条は効力を失うと、お読みください。それが、私の、——書き方の誠実さです」


指輪の内側の熱は、もう、なかった。

ないのに、左手の指の同じ場所が、温かかった。

それは、指輪の熱とは別の、どこから来ているか分からない温度だった。


「——お受け、いたします」

私は、答えた。

「受諾を、前提の、ご質問、ですね」

「そうです」


ペンを取った。

ペン先を紙に下ろす前に、一度、目を閉じた。

閉じた向こうに、父の書斎の土の匂いが、一瞬だけあった。

それから、目を開いた。


『エレノラ』


と、書いた。

ここまでは、昨日の就任式と同じだった。


ペン先を、一度、止めた。

止めて、その下に、続けて書いた。


『ローゼンベルク』


姓を受け入れた瞬間が、自分の指の小さな筋肉の動きとして、手の中に残った。

十年前、伯爵夫人の姓を受けたときには、こういう感覚はなかった。

あの時は、書かされた。今は、書いた。

違いは、それだけだった。

それだけの違いで、——十年、足りなかったのだ。


公爵は、——ヴィンセント様は、紙の上の私の署名を、しばらく見ていた。

それから椅子を引いて、私の斜め向かいではなく、——私の、隣の椅子に、座った。

肩のほんの少し後ろに、彼の肩があった。昨日の玄関前と、同じ距離だった。


卓の端で、小さな木箱が、開かれた。

中には、新しい、細い、銀の指輪が、一対。

公爵は、片方を、指先で摘まんだ。

「お手を」

差し出した私の左手の薬指に、彼は、指輪を、ゆっくりと、嵌めた。

重さは、前のものと、似ていた。

けれど、温度が、違った。

冷えた銀が、指に馴染むまでの速さが、違った。

——昨夕外した指輪と、今朝嵌まった指輪の、違い。

違いは、それだけのようで、十年ぶんの違いだった。



夕方、大広間に、家臣団が集まった。


公爵家の主要貴族、家老のアンナ、イザベラ嬢、マーカス次官。

規模は、先日の就任式とそう違わなかった。

違っていたのは、私の左手の指に、新しい細い銀の指輪が、戻っていたことだった。


公爵——ヴィンセント様が、短く発表した。

「——共同経営者にして、我が、伴侶。エレノラ・ローゼンベルク」


イザベラ嬢が、最初に拍手をした。

拍手のあとで、彼女は私の方へ歩み寄り、少しだけ背伸びをして、兄の耳元に何かを囁いた。

兄は、初めて、彼女に返事をした。

「——遅くなってすまない」

それだけだった。

イザベラ嬢は、それで満足した顔をして、また拍手の列に戻った。


アンナが、私の方へ歩み寄って、小さく頭を下げた。

「お父様も、お喜びでしょう」

「……ええ」

「明朝の紅茶も、同じものでよろしゅうございますか」

「ええ、お願いいたします」

アンナは、頭を上げて微笑んだ。

この人は、五年間、公爵家の家老として、あの執務室の扉の前を、何度、掃き清めてきたのだろう。

考えて、途中でやめた。

考えずに、——ただ、ありがとう、とだけ、心の中で繰り返した。


◆◆◆


一ヶ月後。クラウン子爵領の、郊外の離れ。


アレクシスは、朝の卓で、一人で珈琲を飲んでいた。

向かいの椅子は、空いていた。

レティシアは、実家の、その実家の、——遠縁の名ばかりの家に、身を寄せていると聞いた。ひと月ほど前に出ていった。迎えに行かなかった。


卓の端に、王室からひと月に一度届く書類があった。

『旧リーデル伯爵領・再建状況、月次報告書』。

旧当主には、現状を知る形ばかりの権利が、残されていた。


封を、切った。

紙は、よく整った丁寧な書式だった。数字の並びも、項目の立て方も、旧い様式と新しい様式を完璧に繋ぎ合わせてあった。誰が書いたかは、読む前から分かった。


最後の頁の末尾に、署名があった。


『旧リーデル伯爵領・経営代行責任者

ローゼンベルク公爵夫人・エレノラ』


……。


指先が、冷えた。

冷えた指を、手のひらで包んだ。

彼女は——僕の名前を、捨てた。

いや、違う。

僕が、彼女に、僕の名前を渡せなかったのだ。十年、渡さなかった。

渡せなかったものを、ようやく、誰かが彼女に渡したのだ。

渡した人が誰か、書類の左上の家紋が、はっきりと教えていた。


報告書を、卓に伏せた。

卓の向かいの空いた椅子が、朝の光で、ただ少しだけ、白く見えた。


◆◆◆


同じ朝。公爵領、エレノラの執務室。


窓辺の花瓶に、白い、五弁の花が活けてあった。

今年も、春先の数日だけ咲く花だった。アンナが、昨夜のうちに活けてくれたものだった。


書類の束を、手元に引き寄せた。

月次の報告書。

最後の頁の署名欄に、ペンを下ろした。

『ローゼンベルク公爵夫人・エレノラ』


ペン先の音が、紙の上で、薄く走った。

この音を、十年、伯爵邸で立てた。

ひと月前、公爵領で、姓のない署名として立てた。

今朝、姓のある署名として立てた。


同じ音だった。

同じ音だけれど、別の音でもあった。


ペンを、置いた。

窓の外で、朝の光が、少し濃くなった。


廊下の少し先のほうで、——昨日の、扉の前の足音が、歩いていた。

今朝は、私の扉の前を、通り過ぎた。

通り過ぎる前に、扉の向こうで、一度、足を止めて、小さく、声をかけた。

「——紅茶が淹れ上がったら、執務室へお運びいたしましょうか」

「いいえ」

私は、答えた。

「そちらの執務室へ、お持ちいたしますわ。——今朝は、私が、お運びを」


足音は、少し、早く歩き始めた。

早くなった速度のほうに、私は、笑った。

笑ったのを、知っているのは、窓辺の、白いチャノキの花だけだった。


——私は、私の名前で、誰かの隣に立つことを、初めて選んだ。


ペン先を、筆立てに戻した。

立ち上がって、扉を開けた。

廊下の向こうの、光の中を、歩いていった。

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