第十話 終身契約
翌朝、公爵が、私の執務室に来た。
昨夜、扉を叩かなかった人と、同じ足音だった。
けれど今朝は、足音は扉の前で止まらなかった。
止まらずに、短く、一度、扉が叩かれた。
「——どうぞ」
入ってきたのは、書類の束を脇に抱えた公爵だった。髪が、いつもよりほんの少しだけ整っていた。普段は気にしない人の、普段より整っている朝というのがある。それだけの違いだった。
机の向かいに、立った。
座らずに、書類の束から一枚を抜いて、机の真ん中にそっと置いた。
題を、目で追った。
『共同経営者契約 終身化案』
……。
紙の右下に、彼の署名が、既に入っていた。
左下の空欄は、私の名が入るように、空けられていた。
私は、契約書を手元に引き寄せた。
一条、一条、読んでいった。
第一条。業務時間は、一日六時間。——昨日と同じ条件。
第二条。休日は、週に二日。——昨日と同じ条件。
第三条。代表者の連名署名を要する書類の範囲。——昨日と同じ範囲。
公爵領の、共同経営者としての約束事が、並んでいた。
昨日交わしたばかりの条文のほとんどが、そのまま写されていた。
新しく書き加えられたのは、最後の一条だけだった。
第八条——末尾条項。
『両者の、相互敬意に基づく、終身の伴侶としての、約束とす』
顔を、上げた。
公爵の指先が、机の端で、一度、動いた。
すぐに、止まった。
止めた動きのほうに、私は、目を奪われた。
「——エレノラ殿」
公爵は、口を開いた。
「共同経営者の契約を、——終身に、書き換えていただけませんか」
◇
部屋が、しばらく、静かだった。
窓の外で、春の朝の薄い風が、木立を小さく揺らしていた。
卓の上の、昨夜の紅茶の小さな匂いが、まだ残っていた。
「……閣下」
「ヴィンセントと、お呼びくださって結構です」
それより先に、言われた。
どちらが先に、どちらを呼ぶか、既に考えてきた人の答え方だった。
「……ヴィンセント様」
私は、言った。
言い慣れない名前を、一度、舌の上で預かって、それから、返した。
「——この、契約書の書き方を、先にうかがっても、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「『終身の伴侶』の前に、『相互敬意に基づく』と、入れてくださったのは」
公爵は、少しだけ目を伏せた。
「——私が、そう書かずにあなたに差し出すことは、できなかった」
「……」
「敬意がなくなった夜があれば、この一条は効力を失うと、お読みください。それが、私の、——書き方の誠実さです」
指輪の内側の熱は、もう、なかった。
ないのに、左手の指の同じ場所が、温かかった。
それは、指輪の熱とは別の、どこから来ているか分からない温度だった。
「——お受け、いたします」
私は、答えた。
「受諾を、前提の、ご質問、ですね」
「そうです」
ペンを取った。
ペン先を紙に下ろす前に、一度、目を閉じた。
閉じた向こうに、父の書斎の土の匂いが、一瞬だけあった。
それから、目を開いた。
『エレノラ』
と、書いた。
ここまでは、昨日の就任式と同じだった。
ペン先を、一度、止めた。
止めて、その下に、続けて書いた。
『ローゼンベルク』
姓を受け入れた瞬間が、自分の指の小さな筋肉の動きとして、手の中に残った。
十年前、伯爵夫人の姓を受けたときには、こういう感覚はなかった。
あの時は、書かされた。今は、書いた。
違いは、それだけだった。
それだけの違いで、——十年、足りなかったのだ。
公爵は、——ヴィンセント様は、紙の上の私の署名を、しばらく見ていた。
それから椅子を引いて、私の斜め向かいではなく、——私の、隣の椅子に、座った。
肩のほんの少し後ろに、彼の肩があった。昨日の玄関前と、同じ距離だった。
卓の端で、小さな木箱が、開かれた。
中には、新しい、細い、銀の指輪が、一対。
公爵は、片方を、指先で摘まんだ。
「お手を」
差し出した私の左手の薬指に、彼は、指輪を、ゆっくりと、嵌めた。
重さは、前のものと、似ていた。
けれど、温度が、違った。
冷えた銀が、指に馴染むまでの速さが、違った。
——昨夕外した指輪と、今朝嵌まった指輪の、違い。
違いは、それだけのようで、十年ぶんの違いだった。
◇
夕方、大広間に、家臣団が集まった。
公爵家の主要貴族、家老のアンナ、イザベラ嬢、マーカス次官。
規模は、先日の就任式とそう違わなかった。
違っていたのは、私の左手の指に、新しい細い銀の指輪が、戻っていたことだった。
公爵——ヴィンセント様が、短く発表した。
「——共同経営者にして、我が、伴侶。エレノラ・ローゼンベルク」
イザベラ嬢が、最初に拍手をした。
拍手のあとで、彼女は私の方へ歩み寄り、少しだけ背伸びをして、兄の耳元に何かを囁いた。
兄は、初めて、彼女に返事をした。
「——遅くなってすまない」
それだけだった。
イザベラ嬢は、それで満足した顔をして、また拍手の列に戻った。
アンナが、私の方へ歩み寄って、小さく頭を下げた。
「お父様も、お喜びでしょう」
「……ええ」
「明朝の紅茶も、同じものでよろしゅうございますか」
「ええ、お願いいたします」
アンナは、頭を上げて微笑んだ。
この人は、五年間、公爵家の家老として、あの執務室の扉の前を、何度、掃き清めてきたのだろう。
考えて、途中でやめた。
考えずに、——ただ、ありがとう、とだけ、心の中で繰り返した。
◆◆◆
一ヶ月後。クラウン子爵領の、郊外の離れ。
アレクシスは、朝の卓で、一人で珈琲を飲んでいた。
向かいの椅子は、空いていた。
レティシアは、実家の、その実家の、——遠縁の名ばかりの家に、身を寄せていると聞いた。ひと月ほど前に出ていった。迎えに行かなかった。
卓の端に、王室からひと月に一度届く書類があった。
『旧リーデル伯爵領・再建状況、月次報告書』。
旧当主には、現状を知る形ばかりの権利が、残されていた。
封を、切った。
紙は、よく整った丁寧な書式だった。数字の並びも、項目の立て方も、旧い様式と新しい様式を完璧に繋ぎ合わせてあった。誰が書いたかは、読む前から分かった。
最後の頁の末尾に、署名があった。
『旧リーデル伯爵領・経営代行責任者
ローゼンベルク公爵夫人・エレノラ』
……。
指先が、冷えた。
冷えた指を、手のひらで包んだ。
彼女は——僕の名前を、捨てた。
いや、違う。
僕が、彼女に、僕の名前を渡せなかったのだ。十年、渡さなかった。
渡せなかったものを、ようやく、誰かが彼女に渡したのだ。
渡した人が誰か、書類の左上の家紋が、はっきりと教えていた。
報告書を、卓に伏せた。
卓の向かいの空いた椅子が、朝の光で、ただ少しだけ、白く見えた。
◆◆◆
同じ朝。公爵領、エレノラの執務室。
窓辺の花瓶に、白い、五弁の花が活けてあった。
今年も、春先の数日だけ咲く花だった。アンナが、昨夜のうちに活けてくれたものだった。
書類の束を、手元に引き寄せた。
月次の報告書。
最後の頁の署名欄に、ペンを下ろした。
『ローゼンベルク公爵夫人・エレノラ』
ペン先の音が、紙の上で、薄く走った。
この音を、十年、伯爵邸で立てた。
ひと月前、公爵領で、姓のない署名として立てた。
今朝、姓のある署名として立てた。
同じ音だった。
同じ音だけれど、別の音でもあった。
ペンを、置いた。
窓の外で、朝の光が、少し濃くなった。
廊下の少し先のほうで、——昨日の、扉の前の足音が、歩いていた。
今朝は、私の扉の前を、通り過ぎた。
通り過ぎる前に、扉の向こうで、一度、足を止めて、小さく、声をかけた。
「——紅茶が淹れ上がったら、執務室へお運びいたしましょうか」
「いいえ」
私は、答えた。
「そちらの執務室へ、お持ちいたしますわ。——今朝は、私が、お運びを」
足音は、少し、早く歩き始めた。
早くなった速度のほうに、私は、笑った。
笑ったのを、知っているのは、窓辺の、白いチャノキの花だけだった。
——私は、私の名前で、誰かの隣に立つことを、初めて選んだ。
ペン先を、筆立てに戻した。
立ち上がって、扉を開けた。
廊下の向こうの、光の中を、歩いていった。




