第八話 貴族院公開審理
貴族院の大会議場は、十年ぶりだった。
娘時代の終わり、父の葬儀の翌月、父の遺した学問の寄附について、簡単な報告のために、兄と一緒に、一度だけ、この場所に立った。その時には、傍聴席の端の方の、目立たない位置だった。
今日は、違う。
今日、私は、証人席に立つ。
公爵家の馬車は、朝の霧の中を、ゆっくりと進んでいた。
「——緊張を、なさっていますか」
向かいの席で、公爵が短く言った。
窓硝子越しの光が、彼の横顔に、薄く落ちていた。
「ええ、少しだけ」
「結構です」
「……結構、ですか」
「緊張していない人間は、人を裁けません」
それから、少しだけ間を置いて、公爵は続けた。
「——あなたの、戦いです」
一度、頷いた。
私の、戦いだった。
◇
大会議場の正面の扉が、開かれた。
王族の席。
左右に並ぶ、上位貴族たちの席。
中央の長机の手前に、証人席と被告の席。
被告の席に、アレクシスが座っていた。向かいに、クラウン子爵令嬢レティシアと、その父。三人とも、顔色がよくなかった。
傍聴席の、最前列。
公爵が、座っていた。外套を畳んで膝の上に置いたまま、それ以上の動きはしなかった。
中央に、王室監査局次官マーカス・モンリーが、書類の束と共に立ち上がった。
父と同じ年頃の人が、娘を見るような目で、私を、一度、見た。
それから、視線を長机のほうへ戻した。
「——証人、証拠の提示を願います」
私は、傍らの、布に覆われた台を引き寄せた。
布を、めくった。
家計簿、十二冊。
十年分の、紙の厚み。
一冊、一冊、長机の上に並べていく。
年度ごとに、順に。左から、右へ。
最後の一冊を置いたとき、十二冊は、机の端から端まで、ちょうど届いた。
会議場が、静かだった。
こんなに、物が並んでいるのに、静かだった。
「……エレノラ殿」
マーカス次官が、促した。
「この十二冊は、リーデル伯爵家の、私が作成した家計簿でございます。同じものの控えが、アシュフォード家にも保管されております」
会議場の端のほうで、兄ウィリアムが頷いた。
「控えは、相違なく、保管しております」
◇
一冊目を、開いた。
頁に、夫の署名で計上された「伯爵夫人への誕生祝い」の、三十二万リブラ。
同じ日付、同じ額の、クラウン子爵令嬢への納品記録——こちらは、アレクシス自身の書斎から私が持ち出した、愛人宛の簿冊。マーカス次官が、審理の前に、証拠として受理していた。
二冊目。
同じ数字が、並ぶ。
三冊目。
同じ数字が、並ぶ。
読み上げるのは、マーカス次官だった。
日付、品目、金額、計上名義。
淡々とした、事務的な声だった。その事務的な声の連続が、会議場の空気を、じわりと重くしていった。
四冊目で、アレクシスが顔を伏せた。
五冊目で、レティシアが扇子の端を強く握った。
七冊目で、読み上げが止まった。
「——十年分の、偽装計上の合計額」
マーカス次官は、書類に目を落として言った。
「三千二百万リブラ」
……。
会議場が、息を止めた。
止めたのが、音として耳に聞こえた気がした。
マーカス次官は、次の書類を取り上げた。
「——さらに、同被告人による、婚姻契約書、及び領地決算書への、伯爵夫人の筆跡の偽造使用。十二件」
「——加えて、宮廷通信局に保管されていた、十年前の、結婚式翌日未明の、被告人の通信記録」
マーカス次官は、ここで、一度、私の方を見た。
この頁だけは、私が読むかどうか、選ばせる目だった。
私は、首を小さく横に振った。
「マーカス様、お読みください」
マーカス次官は、頷いた。
通信記録が、公の場で読み上げられた。
『あの娘は、僕の家計係だ。愛人には絶対にしない——』
アレクシスは、顔を上げなかった。
レティシアは、扇子を握ったまま動かなかった。
上位貴族たちの席で、誰かが短く息を吐いた。
誰かが、席のわずかに後ろに、身体を引いた。
小さな動きだった。けれど一度起きると、それは伝播した。
傍聴席の最前列。公爵は、動かなかった。
ただ、私のほうを見ていた。
目が、合った。
私の指が、次の書類を取ろうとして、一度、震えた。
——震えた。
震えたことを、公爵が見た。
彼は、頷いた。一度だけ、静かに。
私は、書類を取った。
◇
監査官が、立ち上がった。
初老の、細身の、法服の人だった。
「——これは、横領です」
短く、そう言った。
それだけだった。
それだけが、この一時間の中で、いちばん重い一言だった。
マーカス次官は、次の書類の束を取り上げた。
「——続けて、本件に関連し、本局は、別件の調査結果を、あわせて当議場にご報告申し上げます」
会議場の空気が、一瞬、変わった。
クラウン子爵の顔が、初めて動いた。
「——故アシュフォード男爵、ヘンリー・アシュフォード氏の、遺産処分に関する過去の書類、一連」
兄が、立ち上がった。
「父の遺産処分の一部が、手続き上、不自然でした。永らく理由がわからずに、おりました。——本件の調査の過程で、当時、宮廷儀典官であったクラウン子爵閣下の、署名入りの文書が発見されました」
兄は、書類をマーカス次官に手渡した。
「——娘の婚姻に有利な縁談を動かすため、父の遺産の一部を、私の知らぬところで処分する手配が、なされておりました」
クラウン子爵は、反論しようとした。
口を、開いた。
けれど、口は言葉を見つけなかった。
……十年前の偽装。
五年前の、父の遺産処分。
同じ一つの家の、同じ一つの欲の下で、時間が違う場所を、別々に腐らせていた。
繋いだのは、父の旧友だった、この、マーカスという人だった。
傍聴席の奥で、王家の宰相が、公爵のほうへ、一度、視線を投げた。
視線は、すぐに戻った。
けれど、投げたこと自体を、私は、目の端で見た。
その視線の意味は、いま、ここでは分からなかった。
分からないまま、次の言葉を待った。
◇
判決は、短かった。
王族の席の、中央の人が、静かに立ち上がった。
「——リーデル伯爵家、領内経営に係る重大な背信、及び公文書の偽造使用、並びに妻名義の組織的な偽装計上、総額三千二百万リブラ。
リーデル伯爵家の領地経営権を、暫定的に王家が召し上げる。今後の処理については、次週、あらためて当議場で発表する」
……。
「——クラウン子爵、宮廷儀典官の職を剥奪す」
クラウン子爵の背中が、一瞬だけ、屋根から落ちたように縮んだ。
それから、ゆっくりと、元の姿勢に戻った。戻したのは、誇りではなく、諦めだった。
アレクシスは、俯いたまま、両手を膝の上に重ねていた。
重ね方が、十年、私の誕生日にレモンセージを受け取ったときと、同じ、丁寧な手の重ね方だった。
十年、その手を、何度、見ただろう。
見ていた時間の全部を、いまは、思い出せなかった。
◇
退席して、廊下に出た。
柱の陰で、マーカス次官が、私の前に立った。
「——よく、お運びくださいました」
「こちらこそ、ありがとうございました。父がご存命であれば——」
「お父上は、お前は、数字が合っているかどうかを見ている人間だ、と、仰っていた」
「……」
「合っていないものを、合っていると、仰らなかった。それだけです」
マーカス次官は、短く頭を下げて、別の廊下へ去った。
玄関前で、公爵家の馬車が待っていた。
公爵は、先に乗らなかった。私が乗るのを見届けてから、続いて乗った。
扉が、閉まった。
馬車が、石畳を鳴らして走り出した。
しばらく、二人とも、話さなかった。
窓の外を、霧が払われた朝の光が、流れていった。
「——エレノラ殿」
公爵が、口を開いた。
「今夜、少し、お話ししたいことがございます」
「何でございましょう」
「次週の、王家の発表の前に」
それだけ言って、公爵は、窓の外へ視線を移した。
私は、頷いた。
次週の発表が、どのような形で降りてくるか、その内容は、この馬車の中では、まだ、どちらからも、口にはされなかった。




