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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第八話 貴族院公開審理

貴族院の大会議場は、十年ぶりだった。


娘時代の終わり、父の葬儀の翌月、父の遺した学問の寄附について、簡単な報告のために、兄と一緒に、一度だけ、この場所に立った。その時には、傍聴席の端の方の、目立たない位置だった。

今日は、違う。

今日、私は、証人席に立つ。


公爵家の馬車は、朝の霧の中を、ゆっくりと進んでいた。

「——緊張を、なさっていますか」

向かいの席で、公爵が短く言った。

窓硝子越しの光が、彼の横顔に、薄く落ちていた。

「ええ、少しだけ」

「結構です」

「……結構、ですか」

「緊張していない人間は、人を裁けません」

それから、少しだけ間を置いて、公爵は続けた。

「——あなたの、戦いです」

一度、頷いた。

私の、戦いだった。



大会議場の正面の扉が、開かれた。


王族の席。

左右に並ぶ、上位貴族たちの席。

中央の長机の手前に、証人席と被告の席。

被告の席に、アレクシスが座っていた。向かいに、クラウン子爵令嬢レティシアと、その父。三人とも、顔色がよくなかった。


傍聴席の、最前列。

公爵が、座っていた。外套を畳んで膝の上に置いたまま、それ以上の動きはしなかった。


中央に、王室監査局次官マーカス・モンリーが、書類の束と共に立ち上がった。

父と同じ年頃の人が、娘を見るような目で、私を、一度、見た。

それから、視線を長机のほうへ戻した。

「——証人、証拠の提示を願います」


私は、傍らの、布に覆われた台を引き寄せた。

布を、めくった。


家計簿、十二冊。

十年分の、紙の厚み。


一冊、一冊、長机の上に並べていく。

年度ごとに、順に。左から、右へ。

最後の一冊を置いたとき、十二冊は、机の端から端まで、ちょうど届いた。


会議場が、静かだった。

こんなに、物が並んでいるのに、静かだった。


「……エレノラ殿」

マーカス次官が、促した。

「この十二冊は、リーデル伯爵家の、私が作成した家計簿でございます。同じものの控えが、アシュフォード家にも保管されております」


会議場の端のほうで、兄ウィリアムが頷いた。

「控えは、相違なく、保管しております」



一冊目を、開いた。

頁に、夫の署名で計上された「伯爵夫人への誕生祝い」の、三十二万リブラ。

同じ日付、同じ額の、クラウン子爵令嬢への納品記録——こちらは、アレクシス自身の書斎から私が持ち出した、愛人宛の簿冊。マーカス次官が、審理の前に、証拠として受理していた。


二冊目。

同じ数字が、並ぶ。

三冊目。

同じ数字が、並ぶ。


読み上げるのは、マーカス次官だった。

日付、品目、金額、計上名義。

淡々とした、事務的な声だった。その事務的な声の連続が、会議場の空気を、じわりと重くしていった。


四冊目で、アレクシスが顔を伏せた。

五冊目で、レティシアが扇子の端を強く握った。

七冊目で、読み上げが止まった。


「——十年分の、偽装計上の合計額」

マーカス次官は、書類に目を落として言った。

「三千二百万リブラ」


……。


会議場が、息を止めた。

止めたのが、音として耳に聞こえた気がした。


マーカス次官は、次の書類を取り上げた。

「——さらに、同被告人による、婚姻契約書、及び領地決算書への、伯爵夫人の筆跡の偽造使用。十二件」

「——加えて、宮廷通信局に保管されていた、十年前の、結婚式翌日未明の、被告人の通信記録」


マーカス次官は、ここで、一度、私の方を見た。

この頁だけは、私が読むかどうか、選ばせる目だった。

私は、首を小さく横に振った。

「マーカス様、お読みください」

マーカス次官は、頷いた。


通信記録が、公の場で読み上げられた。

『あの娘は、僕の家計係だ。愛人には絶対にしない——』

アレクシスは、顔を上げなかった。

レティシアは、扇子を握ったまま動かなかった。


上位貴族たちの席で、誰かが短く息を吐いた。

誰かが、席のわずかに後ろに、身体を引いた。

小さな動きだった。けれど一度起きると、それは伝播した。

傍聴席の最前列。公爵は、動かなかった。

ただ、私のほうを見ていた。

目が、合った。


私の指が、次の書類を取ろうとして、一度、震えた。

——震えた。

震えたことを、公爵が見た。

彼は、頷いた。一度だけ、静かに。

私は、書類を取った。



監査官が、立ち上がった。

初老の、細身の、法服の人だった。

「——これは、横領です」


短く、そう言った。

それだけだった。

それだけが、この一時間の中で、いちばん重い一言だった。


マーカス次官は、次の書類の束を取り上げた。

「——続けて、本件に関連し、本局は、別件の調査結果を、あわせて当議場にご報告申し上げます」

会議場の空気が、一瞬、変わった。

クラウン子爵の顔が、初めて動いた。


「——故アシュフォード男爵、ヘンリー・アシュフォード氏の、遺産処分に関する過去の書類、一連」

兄が、立ち上がった。

「父の遺産処分の一部が、手続き上、不自然でした。永らく理由がわからずに、おりました。——本件の調査の過程で、当時、宮廷儀典官であったクラウン子爵閣下の、署名入りの文書が発見されました」

兄は、書類をマーカス次官に手渡した。

「——娘の婚姻に有利な縁談を動かすため、父の遺産の一部を、私の知らぬところで処分する手配が、なされておりました」


クラウン子爵は、反論しようとした。

口を、開いた。

けれど、口は言葉を見つけなかった。


……十年前の偽装。

五年前の、父の遺産処分。

同じ一つの家の、同じ一つの欲の下で、時間が違う場所を、別々に腐らせていた。

繋いだのは、父の旧友だった、この、マーカスという人だった。


傍聴席の奥で、王家の宰相が、公爵のほうへ、一度、視線を投げた。

視線は、すぐに戻った。

けれど、投げたこと自体を、私は、目の端で見た。

その視線の意味は、いま、ここでは分からなかった。

分からないまま、次の言葉を待った。



判決は、短かった。


王族の席の、中央の人が、静かに立ち上がった。

「——リーデル伯爵家、領内経営に係る重大な背信、及び公文書の偽造使用、並びに妻名義の組織的な偽装計上、総額三千二百万リブラ。

リーデル伯爵家の領地経営権を、暫定的に王家が召し上げる。今後の処理については、次週、あらためて当議場で発表する」


……。


「——クラウン子爵、宮廷儀典官の職を剥奪す」


クラウン子爵の背中が、一瞬だけ、屋根から落ちたように縮んだ。

それから、ゆっくりと、元の姿勢に戻った。戻したのは、誇りではなく、諦めだった。


アレクシスは、俯いたまま、両手を膝の上に重ねていた。

重ね方が、十年、私の誕生日にレモンセージを受け取ったときと、同じ、丁寧な手の重ね方だった。

十年、その手を、何度、見ただろう。

見ていた時間の全部を、いまは、思い出せなかった。



退席して、廊下に出た。


柱の陰で、マーカス次官が、私の前に立った。

「——よく、お運びくださいました」

「こちらこそ、ありがとうございました。父がご存命であれば——」

「お父上は、お前は、数字が合っているかどうかを見ている人間だ、と、仰っていた」

「……」

「合っていないものを、合っていると、仰らなかった。それだけです」

マーカス次官は、短く頭を下げて、別の廊下へ去った。


玄関前で、公爵家の馬車が待っていた。

公爵は、先に乗らなかった。私が乗るのを見届けてから、続いて乗った。

扉が、閉まった。

馬車が、石畳を鳴らして走り出した。

しばらく、二人とも、話さなかった。


窓の外を、霧が払われた朝の光が、流れていった。


「——エレノラ殿」

公爵が、口を開いた。

「今夜、少し、お話ししたいことがございます」

「何でございましょう」

「次週の、王家の発表の前に」

それだけ言って、公爵は、窓の外へ視線を移した。

私は、頷いた。

次週の発表が、どのような形で降りてくるか、その内容は、この馬車の中では、まだ、どちらからも、口にはされなかった。

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