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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第七話 元夫の訪問

門番が、執務室の扉を叩いた。


作業の手を止めて、顔を上げた。朝からの冷たい雨が、窓硝子を、細い縦線で切っていた。

「失礼いたします、エレノラ様」

若い門番は、息が上がっていた。雨具も着けずに、玄関から一息に駆けてきたのだろう。

「玄関前に、予告のないお客様が——リーデル伯爵ご当主、と」

「……」

一度、筆記帳を閉じた。

閉じる手が、自分のものでないような、素っ気ない動きをした。

「閣下は」

「会議場から、こちらへお越しでいらっしゃいます」

「参ります」

立ち上がった。

ペンを、ペン皿に戻した。戻すときに、ペン先が皿の縁に、一度、触れた。薄い、金属の音がした。

——この音を、ここで立てるのは、十年、初めてだった。



玄関の車寄せの下。

黒い馬車が、一台、止まっていた。御者は、馬の首を雨から庇うように立たせていた。馬車の紋章は、見慣れたリーデル伯爵家のもの。油紙で半ば覆われていた。慌てて出て来たのだろう。


門の内側に、アレクシスが立っていた。

外套の裾が、濡れていた。

私を見つけると、一歩、踏み出した。

「——エレノラ、迎えに来た」

雨音の中で、声が上ずっていた。


私は、門の内側に留まった。

それ以上、前へは出なかった。


廊下の反対側から、足音がした。

公爵だった。

会議場から真っ直ぐ来たのだろう。外套を羽織る暇もなかった様子で、袖口に書類の糊の跡が残っていた。

公爵は、私の前には立たなかった。

半歩、前に進んでから——そのまま、半歩、下がった。

横に、並んだ。

肩のほんの少しだけ後ろに、彼の肩があった。

「リーデル伯爵。——当家は、予告のない来訪はお断り申し上げています」

低い、静かな声だった。

アレクシスは、公爵の方には目を向けなかった。

「失礼は、詫びる。——妻と、話をさせてほしい」

「妻、というのは」

「……エレノラ、のことだ」

「お話しになるかどうかは、エレノラ殿のご判断です」

公爵は、私のほうを向いた。

目は、合わせてこなかった。合わせずに、ただ、私の答えを待っていた。


——あなたの戦いを、私が奪うわけにはいかない。


直接、そう言われたわけではなかった。

けれど、半歩だけ下がって横に並んだ、あの動作そのものが、その意味を既に手渡していた。



雨の下で、私は、アレクシスの顔を見た。


十年、連れ添った顔だった。

十年、この顔が何を考えているか、読めなかった。

いまは、もう、読めた。

アレクシスは、私を取り戻しに来たのではなかった。帳簿を取り戻しに来ていた。


「……お話しは、承ります」

私は、言った。

公爵は、頷かなかった。頷かずに、半歩分、後ろで立っていてくれた。


「エレノラ」

アレクシスは、一歩、前に出た。

「戻ってきてくれ。誤解があった。日誌の話は、昔の、若い頃の、愚かな書き付けだ。僕の本心では、ない」

「……」

「君が出て行ってから、家が回らない。使用人たちが困惑している。僕は、妻に戻ってくれ、と、頼んでいるのだ。夫として」

「……」

「家計のことを、君以外に、誰が——」


アレクシスは、そこで、自分で止まった。


車寄せの脇に立っていた御用商人たちが——春の納入のために来合わせていた者たちだ——この時になって、ようやく、顔を見合わせた。御者が、馬の首を一度、撫でた。雨音の奥で、商人の一人が目を伏せた。

アレクシスは、その伏せた目を見なかった。見る余裕もなかった。

「……家計のことを、どうするのだ」

低く、続けた。

言葉を戻そうとしていた。けれど、言葉は、もう戻らなかった。


——家計のことを、どうするのだ。


春の雨の下で、この言葉が、玄関前の石畳に転がった。

商人たちも、門番も、御者も、公爵も、私も、——みんなが、この言葉が落ちたのを聞いた。


私は、一歩も動かなかった。

冷静に、口を開いた。

「お気遣いなく。もう、他人ですので」


雨音が、一拍、止んだように感じた。

実際は、止まなかった。屋根の端から、滴が石畳を叩いていた。それなのに、止まったように聞こえた。


アレクシスは、口を開きかけた。

開いて、閉じた。

それから、もう一度、私の名を呼ぼうとして、——呼ばなかった。

十年、彼は、私を「家計係」と呼び続けていたのだ。いまさら、別の呼び方を咄嗟に思いつけなかったのだろう。


「……お引き取りを」

公爵が、短く告げた。

アレクシスは、一度、公爵を見た。

公爵は、目を合わせた。合わせ方が、静かで、長かった。

アレクシスは、先に目を逸らした。

馬車に、戻った。

扉が、閉まった。

馬車は、車輪を低く鳴らしながら、雨の向こうへ消えた。



玄関の雨よけの下で、私は、しばらく動けなかった。

動けない、というより、動く順序を忘れていた。

右足を出すべきか、左足を出すべきか。袖の雨を払うべきか、払わずに屋内に入るべきか。

小さなことが、全部、決められなかった。


「——エレノラ殿」

隣で、公爵が言った。

「紅茶を、用意させます」

ただ、それだけだった。

その「ただ、それだけ」が、有り難かった。

「……お願いいたします」

私は、答えた。


車寄せの、反対側。

柱の陰に、イザベラ嬢が立っていた。

雨の玄関に、いつからいたのだろう。兄のほうへ半歩近づいてから、足を止めた。

「兄上」

小さな声で、呟いた。

「——お顔が、普段の兄上のお顔では、ありませんわ」

公爵は、妹に返事をしなかった。

返事の代わりに、私の半歩後ろに立ったまま、屋内の方を顎で示した。



執務室に、戻った。


卓の上に、書状が一通、置かれていた。

さっき、玄関へ出た時には、なかったものだった。——運ばれてきたのだ。

封蝋には、王家の金の印。

王室監査局の、正式便。


開いた。


『——王室監査局より、貴族院公開審理の、正式通知。

リーデル伯爵家の決算不備、および関連する背信行為について、公開審理を行う。来週、ルウェン月、月曜日、辰の刻。貴族院大会議場にて。

証人としての出廷を要請する。

書類の提示については、当日、貴族院の卓上にて行われたし——』


読み終えて、書状を卓に置いた。

手が、震えた。

震えが来るのが、遅すぎた。玄関で震えるべきだった。震えなかったのは、震えが来る場所を、私が間違えていたのだ。

震えながら、ペンを取った。

ペンを持ったまま、しばらく、紙の上に何も書かなかった。

公爵が、卓の反対側から私を見ていた。見たまま、何も言わなかった。


「——書状、お受けいたします」

私は、言った。

「お一人ですべてを背負わなくとも、よろしいのです」

「ええ」

一度、頷いた。

「ただ、この書類だけは、私の名でお受けするべきかと」


公爵は、頷いた。

今度は、相槌としての頷きだった。


窓の外で、雨が、少しだけ強くなっていた。

ペン先を、紙の上に下ろした。

『謹んで、お受けいたします』

十年、書いてきた筆跡が、同じ角度で、同じ速度で、紙の上に並んだ。

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