第七話 元夫の訪問
門番が、執務室の扉を叩いた。
作業の手を止めて、顔を上げた。朝からの冷たい雨が、窓硝子を、細い縦線で切っていた。
「失礼いたします、エレノラ様」
若い門番は、息が上がっていた。雨具も着けずに、玄関から一息に駆けてきたのだろう。
「玄関前に、予告のないお客様が——リーデル伯爵ご当主、と」
「……」
一度、筆記帳を閉じた。
閉じる手が、自分のものでないような、素っ気ない動きをした。
「閣下は」
「会議場から、こちらへお越しでいらっしゃいます」
「参ります」
立ち上がった。
ペンを、ペン皿に戻した。戻すときに、ペン先が皿の縁に、一度、触れた。薄い、金属の音がした。
——この音を、ここで立てるのは、十年、初めてだった。
◇
玄関の車寄せの下。
黒い馬車が、一台、止まっていた。御者は、馬の首を雨から庇うように立たせていた。馬車の紋章は、見慣れたリーデル伯爵家のもの。油紙で半ば覆われていた。慌てて出て来たのだろう。
門の内側に、アレクシスが立っていた。
外套の裾が、濡れていた。
私を見つけると、一歩、踏み出した。
「——エレノラ、迎えに来た」
雨音の中で、声が上ずっていた。
私は、門の内側に留まった。
それ以上、前へは出なかった。
廊下の反対側から、足音がした。
公爵だった。
会議場から真っ直ぐ来たのだろう。外套を羽織る暇もなかった様子で、袖口に書類の糊の跡が残っていた。
公爵は、私の前には立たなかった。
半歩、前に進んでから——そのまま、半歩、下がった。
横に、並んだ。
肩のほんの少しだけ後ろに、彼の肩があった。
「リーデル伯爵。——当家は、予告のない来訪はお断り申し上げています」
低い、静かな声だった。
アレクシスは、公爵の方には目を向けなかった。
「失礼は、詫びる。——妻と、話をさせてほしい」
「妻、というのは」
「……エレノラ、のことだ」
「お話しになるかどうかは、エレノラ殿のご判断です」
公爵は、私のほうを向いた。
目は、合わせてこなかった。合わせずに、ただ、私の答えを待っていた。
——あなたの戦いを、私が奪うわけにはいかない。
直接、そう言われたわけではなかった。
けれど、半歩だけ下がって横に並んだ、あの動作そのものが、その意味を既に手渡していた。
◇
雨の下で、私は、アレクシスの顔を見た。
十年、連れ添った顔だった。
十年、この顔が何を考えているか、読めなかった。
いまは、もう、読めた。
アレクシスは、私を取り戻しに来たのではなかった。帳簿を取り戻しに来ていた。
「……お話しは、承ります」
私は、言った。
公爵は、頷かなかった。頷かずに、半歩分、後ろで立っていてくれた。
「エレノラ」
アレクシスは、一歩、前に出た。
「戻ってきてくれ。誤解があった。日誌の話は、昔の、若い頃の、愚かな書き付けだ。僕の本心では、ない」
「……」
「君が出て行ってから、家が回らない。使用人たちが困惑している。僕は、妻に戻ってくれ、と、頼んでいるのだ。夫として」
「……」
「家計のことを、君以外に、誰が——」
アレクシスは、そこで、自分で止まった。
車寄せの脇に立っていた御用商人たちが——春の納入のために来合わせていた者たちだ——この時になって、ようやく、顔を見合わせた。御者が、馬の首を一度、撫でた。雨音の奥で、商人の一人が目を伏せた。
アレクシスは、その伏せた目を見なかった。見る余裕もなかった。
「……家計のことを、どうするのだ」
低く、続けた。
言葉を戻そうとしていた。けれど、言葉は、もう戻らなかった。
——家計のことを、どうするのだ。
春の雨の下で、この言葉が、玄関前の石畳に転がった。
商人たちも、門番も、御者も、公爵も、私も、——みんなが、この言葉が落ちたのを聞いた。
私は、一歩も動かなかった。
冷静に、口を開いた。
「お気遣いなく。もう、他人ですので」
雨音が、一拍、止んだように感じた。
実際は、止まなかった。屋根の端から、滴が石畳を叩いていた。それなのに、止まったように聞こえた。
アレクシスは、口を開きかけた。
開いて、閉じた。
それから、もう一度、私の名を呼ぼうとして、——呼ばなかった。
十年、彼は、私を「家計係」と呼び続けていたのだ。いまさら、別の呼び方を咄嗟に思いつけなかったのだろう。
「……お引き取りを」
公爵が、短く告げた。
アレクシスは、一度、公爵を見た。
公爵は、目を合わせた。合わせ方が、静かで、長かった。
アレクシスは、先に目を逸らした。
馬車に、戻った。
扉が、閉まった。
馬車は、車輪を低く鳴らしながら、雨の向こうへ消えた。
◇
玄関の雨よけの下で、私は、しばらく動けなかった。
動けない、というより、動く順序を忘れていた。
右足を出すべきか、左足を出すべきか。袖の雨を払うべきか、払わずに屋内に入るべきか。
小さなことが、全部、決められなかった。
「——エレノラ殿」
隣で、公爵が言った。
「紅茶を、用意させます」
ただ、それだけだった。
その「ただ、それだけ」が、有り難かった。
「……お願いいたします」
私は、答えた。
車寄せの、反対側。
柱の陰に、イザベラ嬢が立っていた。
雨の玄関に、いつからいたのだろう。兄のほうへ半歩近づいてから、足を止めた。
「兄上」
小さな声で、呟いた。
「——お顔が、普段の兄上のお顔では、ありませんわ」
公爵は、妹に返事をしなかった。
返事の代わりに、私の半歩後ろに立ったまま、屋内の方を顎で示した。
◇
執務室に、戻った。
卓の上に、書状が一通、置かれていた。
さっき、玄関へ出た時には、なかったものだった。——運ばれてきたのだ。
封蝋には、王家の金の印。
王室監査局の、正式便。
開いた。
『——王室監査局より、貴族院公開審理の、正式通知。
リーデル伯爵家の決算不備、および関連する背信行為について、公開審理を行う。来週、ルウェン月、月曜日、辰の刻。貴族院大会議場にて。
証人としての出廷を要請する。
書類の提示については、当日、貴族院の卓上にて行われたし——』
読み終えて、書状を卓に置いた。
手が、震えた。
震えが来るのが、遅すぎた。玄関で震えるべきだった。震えなかったのは、震えが来る場所を、私が間違えていたのだ。
震えながら、ペンを取った。
ペンを持ったまま、しばらく、紙の上に何も書かなかった。
公爵が、卓の反対側から私を見ていた。見たまま、何も言わなかった。
「——書状、お受けいたします」
私は、言った。
「お一人ですべてを背負わなくとも、よろしいのです」
「ええ」
一度、頷いた。
「ただ、この書類だけは、私の名でお受けするべきかと」
公爵は、頷いた。
今度は、相槌としての頷きだった。
窓の外で、雨が、少しだけ強くなっていた。
ペン先を、紙の上に下ろした。
『謹んで、お受けいたします』
十年、書いてきた筆跡が、同じ角度で、同じ速度で、紙の上に並んだ。




