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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第六話 通信記録保管庫

通信記録の保管庫は、紙の匂いと、埃の匂いと、閉じ込められた声の匂いがした。


王都の宮廷、北翼の地下。

冷えた石の廊下を、記録係の男に案内されて、奥へ進んだ。壁の両側に、棚が、奥行のある闇の中まで続いていた。棚の一段ごとに、年号と季節の札が貼られていた。古いほうから、新しいほうへ。新しいほうへ歩くたびに、十年前に近づいた。


「——こちらが、該当年の春の棚でございます」

記録係が、手燭を掲げて足を止めた。

「日付と、時刻をお伺いしても」

「……その年の、六月二日」

声が、少しだけ掠れた。自分の誕生日を、自分で他人のように言ったから、かもしれない。

記録係は、表情を動かさなかった。この部屋で、他人のような声を出す者に、慣れているのだろう。

「時刻は」

「日付が、変わる頃かと」

「かしこまりました」


冊子が、一冊、引き出された。

厚い、革装の冊子。

机の上で、静かに開かれた。



魔法通信の記録は、発信者の声と、受信者の声の両方が、筆記者の手で紙に落とされている。

筆記者は、通信局の宣誓職員で、内容にいかなる加工も加えない。

——加わらない言葉、というものが、この世で一番、怖いのだ、と、いま、知った。


指で、頁をなぞった。


発信者は、アレクシス・リーデル伯爵。

受信者は、レティシア・クラウン子爵令嬢。

日付は、私の結婚式の翌日の、未明。

発信場所は、——新婚初夜の、寝室。


「……」

息を、一度、吐いた。

吐いて、読み始めた。


『無事に、終わったよ。皆、祝福してくれた』

『奥様は、お疲れに』

『そうだね。——疲れているみたいだ』

『……もう、お休みに』

『いや。少しだけ、君の声が聞きたくて』

『わたくしは、あちらの家の方を、奥様と、呼ぶのでしょうね』

『そう呼ばせるのは、式典と、家令の前だけでいい』

『……では、二人の時は』

『家計係だ』


——……。


『あの娘は、僕の家計係だ。愛人には絶対にしない。——君だけが僕の愛人だよ』

『嬉しい』

『来週、また、いつもの離れで』



冊子を、閉じなかった。

閉じたら、この夜が、本当にあったことに、なってしまう気がした。閉じなくても、あったことなのだけれど。

閉じずに、一度、目を、窓の方へやった。

地下の保管庫に、窓はなかった。

だから、目の行き場がなかった。


——十年前の、あの夜。

私は、婚礼衣裳を脱いで、寝台の端で、膝を抱えて座っていた。隣室に、夫が一人で下がっていた。疲れさせてはいけない、と、夫は言った。優しい人、と、私は思っていた。

隣室で、この通信をしていたのだ。


知っていたのだな、と、思った。


十年前、夫の心の中に、私の席はなかった。

それは、もう、知った。

知ったはずだった。

けれど、知ったうえで、もう一度、知ることがある、ということを、知らなかった。


新婚初夜から、なかったのだ。

「十年のうち、最初のうちは、愛されていた」と信じたかった、その時間までもが、——最初から、なかった。


冊子を、最後に、もう一度だけ、開き直した。

「……」の行は、ない。通信記録には、沈黙が記録されない。

私が、この十年のうちで、本当に沈黙でいた時間が、どれくらいあったのか、数え切れる人は、もう、いない。


写しを、一部、取らせた。

保管庫を、出た。

廊下の石が、冷たかった。



馬車で、公爵領へ戻った。

夕方を、過ぎていた。


涙は、出なかった。

正確には、出し方が分からなかった、と、言うべきかもしれない。

十年、泣かなくていい場所で、泣かないように訓練してきた。泣くのは、家人の前で粗相をすることだと、伯爵夫人としての躾の中で教え込まれていた。

いまさら、一人の馬車の中で、泣く術を思い出せる気がしなかった。


公爵領に着いて、挨拶をしたのが誰だったか、あとで思い出せなかった。

部屋の扉を閉めて、ようやく、机の前に腰を下ろした。

机の上の書類の束に、指を一度、置いた。指が、冷えていた。紙の縁が、指先に少しだけ刺さる気がした。

何もできなかった。

何もしないのが、いちばん、こわかった。



どれくらい、そうしていただろう。


卓の端に、湯気が揺れていた。

茶器が、置かれていた。

昼のアンナのものではない。アンナは、こんな時間に、静かすぎる手では置かない。置くときに、必ず、声をかける。

声は、なかった。

足音も、聞こえなかった。

けれど、卓には、紅茶があった。


扉の方を、見た。

閉まっている。

——扉の、向こう。


気配が、ある。

立ったまま、しばらく、動かないでいる人の気配。

「閣下——」

私は、思わず呼びかけた。

返事は、すぐには、なかった。

返事の前に、短い、一呼吸分のためらいがあった。


「——少し、休まれよ」

扉越しの、低い声だった。

「書類は、明日の朝で構いません」

「……」

「お休みなさい、エレノラ殿」


足音は、それから、やっと、遠ざかっていった。

歩き出すのが、遅すぎる速度だった。立っていた時間のほうが長かった人の、遠ざかり方だった。


紅茶は、ちょうど飲める温度になっていた。

温度から逆算して、この人は、扉の向こうにどれくらいのあいだ立っていたのだろう——と、考えて、途中で、考えるのをやめた。

考えたら、きっと、涙の出し方を、思い出してしまう。



卓の上に、もう一通、書状があった。

夫の筆跡だった。封蝋が、歪んでいた。前のときと、同じ歪み方だった。


開いた。


『エレノラ、


先日のあれは、誤解を招く書き方をした。すまない。

戻ってきてほしい。家が、回っていない。使用人たちが困惑している。君に仕えることに慣れた者たちだ。僕のためではなく、彼らのために戻ってほしい。

君が必要だ。

これは、愛だ。


アレクシス』


……。


一度、読み終えてから、もう一度、最後の行だけを読んだ。


『これは、愛だ』


——笑う、という行為が、こんなに乾いた音で出るものだと、初めて知った。

笑いながら、立ち上がって、暖炉の前まで行った。

火は、もう、弱くなっていた。乾いた薪の上で、赤い芯だけが、まだ生きていた。


手紙を、火の上に落とした。

紙の端から、じわりと茶色くなり、端が黒く縮れ、炎が、短く立った。

——これが、あなたの言う"愛"ですか。

声には、出さなかった。

出す相手が、この部屋にはいなかったからでもあり、この部屋の外の廊下に、たったいま、別の人が立っていたからでもあった。


火が、小さくなった。

戻るつもりは、ないです。

それだけ、声に出さずに、心の中で丁寧に並べた。


紅茶の二口目を、口に運んだ。

よくできた紅茶だった。

飲みながら、机の前に戻った。

筆記帳を、開いた。

十年前の、新婚初夜の通信記録の写しを、筆記帳に挟んだ。

これから、誰の手に、誰の目の前で、開かれるべきか——順番の設計を、始めなければならなかった。

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