第六話 通信記録保管庫
通信記録の保管庫は、紙の匂いと、埃の匂いと、閉じ込められた声の匂いがした。
王都の宮廷、北翼の地下。
冷えた石の廊下を、記録係の男に案内されて、奥へ進んだ。壁の両側に、棚が、奥行のある闇の中まで続いていた。棚の一段ごとに、年号と季節の札が貼られていた。古いほうから、新しいほうへ。新しいほうへ歩くたびに、十年前に近づいた。
「——こちらが、該当年の春の棚でございます」
記録係が、手燭を掲げて足を止めた。
「日付と、時刻をお伺いしても」
「……その年の、六月二日」
声が、少しだけ掠れた。自分の誕生日を、自分で他人のように言ったから、かもしれない。
記録係は、表情を動かさなかった。この部屋で、他人のような声を出す者に、慣れているのだろう。
「時刻は」
「日付が、変わる頃かと」
「かしこまりました」
冊子が、一冊、引き出された。
厚い、革装の冊子。
机の上で、静かに開かれた。
◇
魔法通信の記録は、発信者の声と、受信者の声の両方が、筆記者の手で紙に落とされている。
筆記者は、通信局の宣誓職員で、内容にいかなる加工も加えない。
——加わらない言葉、というものが、この世で一番、怖いのだ、と、いま、知った。
指で、頁をなぞった。
発信者は、アレクシス・リーデル伯爵。
受信者は、レティシア・クラウン子爵令嬢。
日付は、私の結婚式の翌日の、未明。
発信場所は、——新婚初夜の、寝室。
「……」
息を、一度、吐いた。
吐いて、読み始めた。
『無事に、終わったよ。皆、祝福してくれた』
『奥様は、お疲れに』
『そうだね。——疲れているみたいだ』
『……もう、お休みに』
『いや。少しだけ、君の声が聞きたくて』
『わたくしは、あちらの家の方を、奥様と、呼ぶのでしょうね』
『そう呼ばせるのは、式典と、家令の前だけでいい』
『……では、二人の時は』
『家計係だ』
——……。
『あの娘は、僕の家計係だ。愛人には絶対にしない。——君だけが僕の愛人だよ』
『嬉しい』
『来週、また、いつもの離れで』
◇
冊子を、閉じなかった。
閉じたら、この夜が、本当にあったことに、なってしまう気がした。閉じなくても、あったことなのだけれど。
閉じずに、一度、目を、窓の方へやった。
地下の保管庫に、窓はなかった。
だから、目の行き場がなかった。
——十年前の、あの夜。
私は、婚礼衣裳を脱いで、寝台の端で、膝を抱えて座っていた。隣室に、夫が一人で下がっていた。疲れさせてはいけない、と、夫は言った。優しい人、と、私は思っていた。
隣室で、この通信をしていたのだ。
知っていたのだな、と、思った。
十年前、夫の心の中に、私の席はなかった。
それは、もう、知った。
知ったはずだった。
けれど、知ったうえで、もう一度、知ることがある、ということを、知らなかった。
新婚初夜から、なかったのだ。
「十年のうち、最初のうちは、愛されていた」と信じたかった、その時間までもが、——最初から、なかった。
冊子を、最後に、もう一度だけ、開き直した。
「……」の行は、ない。通信記録には、沈黙が記録されない。
私が、この十年のうちで、本当に沈黙でいた時間が、どれくらいあったのか、数え切れる人は、もう、いない。
写しを、一部、取らせた。
保管庫を、出た。
廊下の石が、冷たかった。
◇
馬車で、公爵領へ戻った。
夕方を、過ぎていた。
涙は、出なかった。
正確には、出し方が分からなかった、と、言うべきかもしれない。
十年、泣かなくていい場所で、泣かないように訓練してきた。泣くのは、家人の前で粗相をすることだと、伯爵夫人としての躾の中で教え込まれていた。
いまさら、一人の馬車の中で、泣く術を思い出せる気がしなかった。
公爵領に着いて、挨拶をしたのが誰だったか、あとで思い出せなかった。
部屋の扉を閉めて、ようやく、机の前に腰を下ろした。
机の上の書類の束に、指を一度、置いた。指が、冷えていた。紙の縁が、指先に少しだけ刺さる気がした。
何もできなかった。
何もしないのが、いちばん、こわかった。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
卓の端に、湯気が揺れていた。
茶器が、置かれていた。
昼のアンナのものではない。アンナは、こんな時間に、静かすぎる手では置かない。置くときに、必ず、声をかける。
声は、なかった。
足音も、聞こえなかった。
けれど、卓には、紅茶があった。
扉の方を、見た。
閉まっている。
——扉の、向こう。
気配が、ある。
立ったまま、しばらく、動かないでいる人の気配。
「閣下——」
私は、思わず呼びかけた。
返事は、すぐには、なかった。
返事の前に、短い、一呼吸分のためらいがあった。
「——少し、休まれよ」
扉越しの、低い声だった。
「書類は、明日の朝で構いません」
「……」
「お休みなさい、エレノラ殿」
足音は、それから、やっと、遠ざかっていった。
歩き出すのが、遅すぎる速度だった。立っていた時間のほうが長かった人の、遠ざかり方だった。
紅茶は、ちょうど飲める温度になっていた。
温度から逆算して、この人は、扉の向こうにどれくらいのあいだ立っていたのだろう——と、考えて、途中で、考えるのをやめた。
考えたら、きっと、涙の出し方を、思い出してしまう。
◇
卓の上に、もう一通、書状があった。
夫の筆跡だった。封蝋が、歪んでいた。前のときと、同じ歪み方だった。
開いた。
『エレノラ、
先日のあれは、誤解を招く書き方をした。すまない。
戻ってきてほしい。家が、回っていない。使用人たちが困惑している。君に仕えることに慣れた者たちだ。僕のためではなく、彼らのために戻ってほしい。
君が必要だ。
これは、愛だ。
アレクシス』
……。
一度、読み終えてから、もう一度、最後の行だけを読んだ。
『これは、愛だ』
——笑う、という行為が、こんなに乾いた音で出るものだと、初めて知った。
笑いながら、立ち上がって、暖炉の前まで行った。
火は、もう、弱くなっていた。乾いた薪の上で、赤い芯だけが、まだ生きていた。
手紙を、火の上に落とした。
紙の端から、じわりと茶色くなり、端が黒く縮れ、炎が、短く立った。
——これが、あなたの言う"愛"ですか。
声には、出さなかった。
出す相手が、この部屋にはいなかったからでもあり、この部屋の外の廊下に、たったいま、別の人が立っていたからでもあった。
火が、小さくなった。
戻るつもりは、ないです。
それだけ、声に出さずに、心の中で丁寧に並べた。
紅茶の二口目を、口に運んだ。
よくできた紅茶だった。
飲みながら、机の前に戻った。
筆記帳を、開いた。
十年前の、新婚初夜の通信記録の写しを、筆記帳に挟んだ。
これから、誰の手に、誰の目の前で、開かれるべきか——順番の設計を、始めなければならなかった。




