第五話 伯爵領の鍵穴
朝の新聞の三面に、夫の名前があった。
記事を見つけたのは、公爵邸の朝食の席だった。
長机の、向かいに、公爵が。その隣に、妹のイザベラ嬢が座っていて、私は、末席に近い位置に、用意された椅子を引いてもらっていた。
新聞は、公爵の手元に置かれていた。
見出しだけが、私の位置から、逆さに、読めた。
『リーデル伯爵領、商人会、王室へ訴状——取引事実上の停止、一月』
パンにのせていた刃が、止まった。
止めたつもりは、なかった。止まっていた、というのが、近い。
「——どうぞ、お食事を」
公爵が、淡く、言った。
新聞を、見せる素振りは、なかった。読み終えた素振りも、なかった。
ただ、普段の朝より、新聞の頁を、一枚、めくるのが、遅かった。
「兄上」
イザベラ嬢が、蜂蜜のスプーンを、舐めるように置いた。
「ずいぶん、ゆっくりと、お読みですわね」
「政治面です。丁寧に読む価値があります」
「昨日の兄上は、同じ面を、五分で読み切ってらっしゃいましたけれど」
「記事の重みが、昨日と今日で、違う」
公爵は、紙面を、伏せた。
イザベラ嬢は、それ以上、何も言わなかった。
私は、紅茶を、一口、含んだ。
「——読ませて、いただいても、構いませんか」
「あとでご自由に。朝食の席は、朝食のために」
短く、そう答えられた。
不思議なほど、胸の中で、騒がなかった。
伯爵領が、回らなくなる——それは、一週間前、実家の書斎で、三千二百万の数字を紙に書きつけたときに、既に、視えていたことだった。
視えていて、私は、いま、ではない、と、判断した。
私が動かなかったぶん、商人会が、動いた。
私が動かないあいだに、相手が、自分で、逃げ場を、なくしていった。
◇
その日の午前、会議室の長机に、再構築案を広げた。
未払金の宙に浮いた束を、どの経路で回収するか。
外商との支払条件を、どう一本の様式に戻すか。
水車の減価計上を、どの年度から、季節補正に差し替えるか。
若い部下の一人が、途中で、手を挙げた。
「恐れながら、エレノラ様——」
カイルという、気の若い、痩身の会計官だった。
「外商への月払いは、我が家の慣行としては、年寄りたちに不評です。家宰の旧様式を、むしろ復元すべきでは、と」
言葉は、丁寧だった。語尾が、少しだけ、尖っていた。
「ご意見、承ります」
私は、紙を、少し、彼のほうへ寄せた。
「旧様式の復元が、机上では、一番、すっきりいたしますね。——ただし、切替期のあいだに、宙に浮いた未払金がございます。これをどう、旧様式の中に、納め直すか、の設計が、つきませんと、旧様式の復元自体が、二重帳簿に化けます」
「…………」
「月払いか四半期払いかは、どちらでも結構でございます。決めていただければ、それに合わせます。大事なのは、切替期のあいだの、宙の分を、先に落とすこと、かと」
カイルは、黙って、頷いた。頷き方が、まだ、少し、固かった。
公爵が、筆記帳を、閉じた。
「エレノラ殿の案を採る」
五人の部下の顔が、一斉に、同じ方向を、向いた。
「私の試案を、二案目として、補助に回す。切替期の処理が済んでから、旧様式復元の議論を、もう一度、行う」
「——お採りくださるのですね」
カイルが、私の方を見た。
「お引き受け、いたします」
私は、頭を、下げた。
公爵は、時計を、見た。
「本日は、これまで。——エレノラ殿、六時間を、超えております」
「……はい」
「続きは、明日、朝一で」
◆◆◆
同じ日の、午後。リーデル伯爵邸、書斎。
扉は、昨夕のうちに、外からの錠前を付け替えた。妻の魔力封印は、それでも、いくらかの気配を残していた。もう、昨日までのような、完全な閉鎖ではない。入れる。入れるようになった、というだけで、物が、元通りに動くわけではない。
机の上に、帳簿が、一冊。
十年、妻がつけていた家計簿の、最新のもの。
アレクシスは、その頁を、一刻、睨んでいた。
「……読み方が、わからない」
声に出して、ようやく、認めた。
数字は、合っているのだ。合っているに違いない。妻の帳簿が、合っていなかったことなど、十年、一度も、なかった。
問題は、項目の立て方だった。支出の下位区分が、アレクシスの知る様式と、違っていた。妻の父——経済学者ヘンリー・アシュフォードの、古い流儀。妻は、父の流儀を、そのまま、リーデル家に持ち込んでいた。
持ち込ませておいて、中を読めていなかったのは、アレクシス自身だった。
呼び鈴を、鳴らした。
入って来たのは、ハロルドではなく、クラウン子爵その人だった。娘のレティシアに呼ばれて、昼から屋敷に詰めている。
「旦那様。どうなさいました」
「子爵、——お恥ずかしい話ですが、この帳簿の、読み方を、見ていただきたい」
子爵の、細い眉が、一度、上がった。
「帳簿を、ですか」
「今朝の新聞を、ご覧に」
「ええ」
「商人会が、動きました。書状の不備と、支払遅延が、理由、と」
アレクシスは、頁を、子爵の前に、滑らせた。
「この頁の、どこから、読めば、支払いの現在位置が、分かるのか——」
クラウン子爵は、帳簿を、手元に引き寄せた。
しばらく、じっと、見ていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「——同じ家の者が、これを、十年、お一人で」
「……ええ」
「それは、たいへんに、——有能で、いらっしゃった」
言葉を、選ぶ間が、あった。
アレクシスは、その間から、目を、逸らした。
◆◆◆
夕方、公爵領の、私の執務室に、書状が一通、届いた。
差出人の名を、見て、一度、息を吐いた。
『王室監査局次官 マーカス・モンリー』
父の、旧い友だった。
私が七つの頃、父の書斎に、しょっちゅう出入りしていて、私の頭を、大きな手で、撫でていく人だった。父の葬儀で、棺の前で、声を出さずに泣いていた、痩せた男だった。
封を、切った。
『親愛なるエレノラ嬢
新聞はご覧か。
リーデル伯爵領の決算不備について、本局が、正式の調査に入ることに相成り候。
貴方の名を、証人の欄に、記したく存ずる。
父上の娘御を巻き込むは、本意にあらず。されど、父上の教えに照らせば、数字の正しさを、正しいと申すべき場に、正しく座せる者が要る。
ご意向、お伺い申し上げたく。
伯爵領内の書類については、貴方の存じ寄りの範囲でかまわぬ。
期日は来週半ば。御身の安全は、当局にて保障す。
敬具』
……。
紙を、膝の上に、置いた。
父の、声が、聞こえた気がした。
「お前は、数字が、合っているかどうかを、見ている人間だ。合っていないものを、合っていると、言うな」
◇
便箋を、一枚、取り出した。
ペンを、走らせる前に、一度だけ、廊下のほうへ、目をやった。
扉の、向こう。
足音は、していない。
けれど、気配は、あった。
扉を、叩くでもなく、声を、かけるでもなく。ただ、通りすがりに、足を止めただけの人の、気配。
何か、言いかけて、言わずに、過ぎていく。そういう、重さの、足音が、ゆっくり、遠ざかっていった。
私は、書き始めた。
『マーカス・モンリー次官閣下
謹んで、お引き受けいたします——』
ペン先の、薄い音が、机の上で、小さく、走った。
十年、この音だけは、伯爵邸でも、実家の書斎でも、公爵領でも、同じ音を、立てた。
同じ音を、立てて、違う名前の、違う書類に、使われていた。
いまは、私の名前で、私の言葉を、書いている。
それだけの、違いだった。
それだけの、違いで、——十年、足りなかった、のだ。




