第四話 紅茶と共同執務
机の上に置かれた紅茶は、琥珀色をしていた。
公爵の執務室は、南向きの窓が大きく、朝の光が、長い帯になって床に落ちていた。卓の上で、陶器の茶器が、その光の縁を、かすかに、掬っていた。
香りは、先に立っていた。
——ダージリン。
二口目の、摘み方の。
「どうぞ、お掛けを」
公爵が、向かいの椅子に、手を向けた。
「……頂戴いたします」
私は、腰を下ろした。
卓の端に、折り畳まれた白いナプキンと、銀の匙。そして、紅茶。
匙の柄に、指を触れるまで、少しだけ、時間がかかった。
触れて、一口、口に運んだ。
十年、飲まなかった味が、舌の真ん中で、一度、止まった。
「——ダージリンの、セカンドフラッシュ、でございますね」
「ええ」
公爵は、短く、答えた。
「お嫌いでしたか」
「いえ」
それだけ、言った。
言いたいことは、もっとあったはずだった。どうして、と。誰に、聞いたのか、と。けれど、それを問う自分の声が、少し、上ずって聞こえそうで、呑み込んだ。
公爵は、私の紅茶を、見ていなかった。手元の書類を、整えていた。
書類の上に、手を置いて、彼は、口を開いた。
「エレノラ殿。先に、お願いしたいことがあります」
「は」
「業務時間は、一日、六時間。以上は、お引き受けいただけません」
「……お引き受け、いただけない——」
「そう、申し上げました」
書類の端を、指で揃えながら、彼は続けた。
「延長を、こちらから求めません。お申し出があっても、同じ答えを返します。休日は週に二日。そのうちの一日は、庭を歩いていただくか、書斎の本を読んでいただくか、なんでも結構です。——働かせすぎない、ということも、こちらの責務と心得ます」
……。
ここは、伯爵邸では、ないのだ、と、そのときになって、ようやく、腑に落ちた。
伯爵家で、私の業務時間が話題になったことは、十年、一度も、なかった。夜の帳簿、朝の書簡、昼の領内巡視。時計を見ながら働くようなものでは、ないと、誰もが思っていた。私自身も、思っていた。
「承知、いたしました」
私は、言った。
声が、少しだけ、掠れた。紅茶を、もう一口、運んだ。
湯気の向こうで、公爵が、書類の束を、私のほうへ、滑らせた。
「これが、見ていただきたい、ものです」
◇
公爵領の、二年分の帳簿。
表紙を開けた瞬間に、違和感があった。
項目の立て方が、旧い。
いや、旧いこと自体は、古い家の帳簿では、珍しくない。問題は、旧い立て方の中に、新しい立て方が、途中から混じっていることだった。継ぎ目が、ある。継ぎ目が、揃っていない。
「家宰が、二年前に」
公爵が、淡く言った。
「長く、家政の全てを預けていた者でした。後任を、家の内から一人、外から一人、立てましたが——」
「様式が、違う者同士でございますね」
「察しのとおりです」
私は、頁を、めくり続けた。
外商への支払い条件が、二年前の春を境に、四半期払いから月払いに変わっていた。その切替のとき、古い未払金が、どちらの様式にも載らないまま、宙に浮いていた。
領内の水車への補修費が、十年の減価で計上されているが、季節の補正が、入っていない。夏場に稼働が上がるので、減価の掛かり方が、季節で違う。
同じ品目が、違う頁で、違う名前で計上されている箇所が、三つ。意図ではない。習慣の違う二人の手が、行き違ったのだ。
目を通し終えたとき、窓の外の光が、机の上から、少しだけ、後ろへ移っていた。
「——構造的な欠陥が、三つございます」
私は、言った。
「数字そのものは、合ってございます。ただし、合っているのは、偶然で合っているだけでして、来年の決算期には、確実に、綻びが出ます」
公爵は、頷いた。相槌でも、同意でも、なかった。頷くこと自体を、一つの作業として、丁寧に。
「どこから、手を付けるべきでしょうか」
「まず、支払い条件の切替の、宙に浮いている分の、回収から、かと」
「年限は」
「——一年、頂戴できれば」
公爵は、筆記帳に、何かを書き付けた。
顔を上げて、今度は、はっきりと、頷いた。
「お願いします」
◇
私に割り当てられた執務室は、南翼の、古い棟にあった。
木の匂いが、少し、違う。磨き込まれた床板の、艶が、古い。けれど、家具そのものは、真新しくはない。使い込まれたものが、丁寧に、整えられていた。
窓辺に、小さな花瓶が一つ。客室のと、同じ、白い、五弁の花。
アンナが、銀の盆を運んできた。
「昼は、こちらの紅茶を」
「……ありがとうございます」
「閣下は、午後、南の領主館にお出ましです。ご用の際は、ベルを二度」
それだけ言って、アンナは、音を立てずに、出ていった。
私は、窓辺に立って、紅茶を、一口、飲んだ。
昼の陽が、机の上の書類の束に、平たく、落ちていた。
——業務時間、一日六時間。
十年、誰にも言われなかった数字を、朝、会ったばかりの人に、言われた。
警戒の、薄皮が、一枚、剥がれていく。
剥がれていくのが、分かった。剥がれていくのが、分かることに、自分で、少しだけ、驚いた。
◇
日が暮れて、六時間が過ぎた頃、私は、机の上を片付け始めた。
筆記帳を引き出しに仕舞おうとして、引き出しが、途中で、引っかかった。
何か、挟まっている。
奥に手を入れると、指先に、小さな、硬いものが、当たった。
鍵だった。
古い真鍮の、一本。
縁が、ほんの少し、擦れていた。
——見覚えのある、色だった。
伯爵邸の、書斎の抽斗で見つけた、あの、余分な鍵と。
似た、色だった。
いや、違う。
伯爵邸のあれは、夫が隠していた、秘密の鍵だった。
これは、違う。
机の引き出しに、ただ、忘れられたように、置いてあるだけの鍵。
前任の、誰かが、置いて、そのままに、なっているものかもしれない。
——けれど、前任の誰かの遺し物なら、家宰が代わったときに、とうに片付けられているはずだった。
鍵を、掌に、乗せた。重さが、あった。
この部屋の、どこの鍵、か。
扉を、見た。扉には、すでに、主となる錠前の鍵が、差されていた。窓辺の、書物棚にも、鍵はかかっていなかった。
この部屋のものでは、ない。
では、どこの。
鍵を、握りしめて、扉を、静かに、開けた。
◇
廊下の、蝋燭の火が、静かだった。
足音が、こちらへ近づいてきた。アンナだった。たたんだ麻布を、腕に抱えていた。
「エレノラ様。まだ、お仕事でしたか」
「いえ、もう、終えます」
私は、掌の鍵を、見せた。
「アンナ、この鍵、机の引き出しから、出たのですが——どちらの鍵でしょう」
アンナは、一度、鍵を見た。
一度だけ、だった。見慣れた顔をしていた。視線を、鍵から、私に戻した。
数拍、黙っていた。
言うべきか、言うべきでないか——計っているのではなく、どの言葉で、差し出すのが正しいか、選んでいる、という種類の、沈黙だった。
「——この部屋の、鍵でございます」
「この部屋の」
「閣下は、五年前から、お持ちでした」
アンナは、頭を、浅く下げた。
「おやすみなさいませ、エレノラ様」
布を抱え直して、廊下の、反対側へ、歩いていった。
蝋燭の火が、揺れた。
私は、鍵を、もう一度、掌の上で、確かめた。
重さが、あった。
重さが、何かの代わりに、胸の中で、揺れた。




