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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第三話 五年ぶりの馬車

五年ぶりに見る公爵家の馬車は、記憶よりも質素だった。


正確には、装飾が、控えめだった。紋章の金細工は、五年前と同じ位置にあったが、車体を覆っていた青い漆は、風雨で少しだけ、褪せていた。使い込まれている、という言い方が、近い。


春の昼下がり、アシュフォード家の前庭。

石畳の上で、馭者が一礼した。

「ローゼンベルク公爵閣下のお迎えに上がりました。エレノラ様」

若い、生真面目そうな馭者だった。

私ではなく、兄のウィリアムが頷いた。

「道中、頼みます」

「は」


馭者が、馬車の後部から、荷を一つ、降ろした。

大きな、古い木箱。

両手で抱え込まなければ持てない大きさの、それを、彼は慎重に、地面に置いた。

蓋に、彫り込まれた名前が、見えた。


『ヘンリー・アシュフォード』


父の名だった。

——なぜ、それが、ここに。


五年前の夏、水利契約の参考に、と、父の遺した分厚い論考集と、古い境界図を、私は公爵家に貸し出した。父の箱にまとめて渡した。仕事が済んだあと、返却の話は、流れた。——私自身が、言い出さなかった。言い出せば、もう一度、あの領地に足を運ぶことになる、と、そう思ったからかもしれない。


忘れていた、のではなかった。

忘れた、ことに、していた。


「母屋に一度、入れますか」

馭者が尋ねた。

「——いえ。そのまま、馬車に」

私が答えた。

箱は、私の足元に、積まれた。


兄は、門の前で、私が乗り込むのを、黙って見ていた。

「……では、行って参ります」

「ああ」

それだけ、だった。

扉が閉まり、車輪が、石畳を鳴らし始めた。

窓の外で、兄の肩が、一度、上がって、下がった。



馬車の揺れは、記憶よりも、柔らかかった。


父の箱を、膝の上に置いた。蓋の木目を、指でなぞった。五年前に貸し出したときと、同じ位置に、同じ木目があった。

——保管されていた、のだ。

それ以外の説明が、つかない。


五年前の夏。

河の境界を、三日かけて歩いた。

私は、伯爵夫人として、夫の名代で行った。——正しくは、夫が「君の方が向いている」と押し付けた、というのが、事の次第で。ずいぶんな扱いだ、と、あのときは、思った。


でも、現地で、そう扱われはしなかった。


ヴィンセント・ローゼンベルク公爵は、三十になる前の齢で、背が高く、口数が少なかった。河原を歩いているあいだ、ほとんど、喋らなかった。私の書いた草案を、天幕の下で、一度、無言で読んだ。

読み終えて、顔を上げて、短く言った。

「——よくできています」


それだけ、だった。


伯爵夫人、とは、呼ばれなかった。

奥方、とも、呼ばれなかった。

——「エレノラ殿」と、呼ばれた。

父の名前と同じ姓のついた、呼び方だった。


五年、忘れていた。

忘れた、ことに、していた。


◆◆◆


同じ刻、首都のリーデル伯爵邸。


正面玄関の、大きな扉の前で、レティシア・クラウン子爵令嬢は、二度、呼び鈴を押した。

扉は、開かない。

執事のハロルドが、扉越しに応じた。

「——お引き取りを願います」

「何を言っているの。アレクシス様から、今朝のうちに、入るよう言いつかっています」

「旦那様も、扉をお開けになれませんので」

「え?」

廊下の奥から、アレクシスの足音が、近づいた。

扉を、内側から押してみる。軽い音とともに、扉は、途中で、止まった。

「……封印が、残っているんだ」

「封印?」

「家計に関わる扉には、封印が掛かる。私と妻、二人ぶんの魔力で組んだ封印だ。妻がいないと、私の側からは、完全には解けない」

「——妻のほうが、あなたより、強く組んだから」

「そうは、言っていない」

「でも、そうなのでしょう」

レティシアは、踵を返した。

玄関の石段を降りる靴音が、普段より、ずっと、硬かった。


◆◆◆


公爵領の玄関に着いたのは、夕方だった。


丘の上の、古い屋敷。空は、西の端から、紅く染まり始めていた。

馬車が停まり、扉が、外から開いた。


——そこに、公爵自身が、立っていた。


年配のメイド長と思しき女性と、使用人が数名。その前に、公爵ヴィンセント・ローゼンベルクが、一歩、進み出て、頭を下げた。

「遅くなりました、エレノラ殿」

五年ぶりの声は、記憶と、同じだった。低く、静かで、急がない声。

私は、馬車を降りた。

「——公爵閣下、お迎えに出ていただくほどのことでは」

「そう、言うと思っていました」

公爵は、ほんの少しだけ、口元を、動かした。笑った、というほど、くっきりしたものではなかった。けれど、五年前の河原では、一度も見なかった動きだった。


使用人が、荷を運び始めた。

公爵が、膝を折って、私の足元の木箱に、手をかけた。

「閣下、それは——」

「一つだけ、運ばせてください。ヘンリー先生の箱です」


——先生。


指先が、一瞬、止まった。

何か言い返そうとして、言葉が、出なかった。

公爵は、古い木箱を、両手で抱え上げた。重いはずだったが、抱え方が、丁寧だった。


「……ありがとう、ございます」

私は、それだけ、言った。


公爵が、屋敷の正面を、顎で示した。

「道中、お疲れでしょう。今夜は、ゆっくり、お休みを」

歩き出した公爵の、半歩後ろを、私は、ついていった。

玄関の段を上りきった、そこで、公爵が、振り返った。

「——明日の朝、私の執務室で、お見せしたいものがあります」

「何で、ございましょう」

「明日、ご自身でご覧いただいたほうが、早い」

それだけ、言って、公爵は、私より先に、中へ入った。



通された客室は、広すぎず、狭すぎず、絨毯の色が、少しだけ、古風だった。

メイド長が、私の荷をほどく手伝いを申し出た。

「アンナと申します。何なりと」

白髪交じりの、穏やかな女性だった。

「お茶の、ご用意は」

「……お任せ、いたします」


ダージリンを、と、言いそうになって、呑み込んだ。

十年、口にしなかった名前だ。——戻ってくるのが、早すぎる気がした。


アンナが、一度、部屋を出ていった。


窓辺に、花瓶が置かれていた。

見慣れない花だった。

白い、小さな、五弁の花。葉が、少しだけ、銀色を帯びていた。

——どこかで。

父の書斎で、こんな花を、父が、乾かしていた。古い机の、隅の、木の盆の上に。子供の私が、何の花、と聞いた。父は、何と答えたか。——思い出せない。


扉が、小さく、音を立てた。

アンナが、茶器を運んできていた。

私の視線の先を、追って、彼女が、口を開いた。

「チャノキ、と、申します」

「——茶の」

「お父様が、お好きだったと、閣下からうかがっておりましたの。春先の数日だけ、北の庭に咲きますものですから」

アンナは、茶器を、卓に置いた。

「明朝、冷めぬうちに、もう一度、淹れ直しに参ります」

頭を下げて、出ていった。


一人に、なった。


父の箱が、部屋の隅に、置かれていた。

歩み寄って、蓋の、父の名を、指で、一度、なぞった。

春先の数日だけ咲く花を、わざわざ、この客室に、活けた人がいる。

父の箱を、五年、保管していた人がいる。

——五年前に、私の名前を、正しく呼んだ、ただ一人の人が。


誰かが、私の名前を、別のところで、呼んでいたのだ。

いまは、もう、それが、誰だったのか、分かる。


明日の朝、と、公爵は言った。

何を、見せられるのだろう。

父の箱の蓋の上に、掌を、そっと、置いた。木の、冷たさが、じわりと、温もりに、変わっていった。

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