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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第二話 十年分の帳簿

母屋の書斎に、十年分の帳簿を並べると、机が二台必要だった。


兄のウィリアムが、父の使っていた古いほうの机を、もう一度運ばせた。木の脚が床を擦る音が、朝の静けさに、短く響いた。

「控えは、全部、父上の書斎にある」

兄は、それだけ言った。

「お父様の癖ですね」と、私は答えた。

「——お前のな」

兄は、帳簿の山の一番上を、指で軽く叩いた。


アシュフォードの家では、帳簿は必ず写しを取る。父がそう言ったから、私はそうしてきた。伯爵家に嫁いだあとも、毎月、自分で写しを取り、父の——いまは兄の——書斎に届けてきた。

十年、一度も欠かさずに。

十年、誰にも読ませないまま。


家計簿、十二冊。

年一冊。二年分だけ、厚みがある。娘時代の贈答や相続の整理が重なった年だった。

並べると、机の端から端まで、ちょうど届いた。


窓を、少しだけ開けた。

春の雨の匂いと、紙の匂いが混ざった。



書斎の扉を閉めて、一人になった。

手元に、二冊。

右に、私がつけた家計簿の最終年。

左に、伯爵邸の書斎から持ち出した、夫の簿冊。表紙には、夫の字で、ただ一言——『レティシア・クラウン子爵令嬢』。


照らし合わせる、という作業は、本来、退屈なものだ。

数字を指でたどり、日付を追い、品目を確認する。

家計簿の「六月」に、夫の署名で計上された「伯爵夫人への誕生祝い」が、三十二万リブラ。

夫の簿冊の「六月二日」に、クラウン子爵令嬢への納品が、三十二万リブラ。


同じ数字が、並ぶ。

翌月。同じ数字が、並ぶ。

翌年。また、同じ数字が、並ぶ。


右の指と、左の指が、同じ高さをなぞっていく。

——揃いすぎている。


揃いすぎているものを見るとき、人は怒るより先に、感心してしまうらしい。

夫は、几帳面だ。

愛人への贈り物を、妻の名前で計上するにあたり、誤差が出ないように整えてあった。誤差が出たら、妻に質される、と思ったのだろう。

——私に、見破られたくは、なかったのだ。

つまり。

私が見抜ける人間だと、夫は、十年、知っていた。


知ったうえで、十年、使った。


ペンを置いて、紙を一枚、取り出した。

カテゴリごとに、整理を始める。


宝飾——七十三点。

ドレス、外套、襟巻の類——五十八着。

香水、化粧品——百四十九品。

菓子、茶葉、酒——月平均十二件、十年。

楽器——三点。うち一点、竪琴。レティシア嬢の趣味、と、兄から以前、社交界の話のついでに聞いたことがある。


屋敷の、東の離れの改修費用——二回。

アシュフォード家の家計簿には、どちらも「伯爵夫人の湯治の費え」と計上されていた。

私は、湯治に行ったことがない。

夫が、そう申告したから、書類上、私は二度、湯治に行ったことになっている。


——じわ、と。

手のひらが湿った。怒りではなかった。それとは別の、もっと静かな、何かだった。


合計を、紙の一番下に書いた。

三千二百万リブラ。


三千二百万。


家計簿の、最終頁を開いた。

昨日、私が万年筆で書き加えた一行——『本日をもって、妻の業務、引き継ぎ拒否』——の、そのすぐ上の段に、赤いインクで、小さく丸を打った。

昨日は、怒りで書いた。

今日は、印を打った。


……王室監査に持ち込めば、通る。

父の旧友に、マーカス・モンリー次官がいる。

——が、まだ、早い。


三千二百万の束を、いま王室に投げ込めば、夫は慌てて、証拠を散らすだろう。領地の帳簿を書き替えるかもしれない。愛人の父のクラウン子爵が、古い人脈で揉み消しに動くかもしれない。

いま、ではない。

相手が、自分で、逃げ場をなくすまで。


私は、帳簿を、机の上に置いたままにした。

蓋もしない。鍵もかけない。

——夫は、もう、この書斎には、入れない。


◆◆◆


同じ刻、伯爵邸。


書斎の扉が、開かない。

アレクシスは、取っ手を二度、三度と引いた。扉は動かない。

「ハロルド」

執事が、足音を立てずに来た。

「書斎の、予備の鍵は」

「——奥様がお持ちです」

「なに?」

「お持ちでした、と、申し上げるべきでしょうか」

ハロルドは、目を伏せたまま、そう言った。


机の上の、鍵。真鍮の、一本。

アレクシスは、それを取り上げて、扉を開けた。

机の中央に、家計簿が、一冊、開かれていた。


最終頁。

妻の、いつもの、几帳面な字で——『本日をもって、妻の業務、引き継ぎ拒否』。


十年、見慣れた筆跡だった。

十年、自分が愛人に宛てた恋文に、真似て書いてきた筆跡だった。


アレクシスは、指先が冷えるのを、感じた。

「ハロルド」

「はい」

「——妻は、どこだ」


◆◆◆


夜、アシュフォード家の客間。


ランプを灯して、封書を、膝の上に置いた。

昨日、兄が「読むのは、あとで」と言った、あの封書。

ローゼンベルク公爵家の、紋章。


封蝋を、切った。


便箋は、少し厚手の、滑らかな紙だった。

文面は、短かった。


『エレノラ様


急な書状の失礼、ご寛恕ください。

五年前、水利契約の一件で、貴方のお力添えをいただきました。あれ以来、幾度かお礼を申し上げる機会を逸しました。

領内の帳簿について、再度、お目通しを願いたき件、生じました。一ヶ月、公爵領にご滞在のうえ、共同業務の形でお引き受けいただけぬか、勝手ながら、お伺い申し上げます。

ご都合の悪き場合、遠慮なく、断っていただきたく。


ローゼンベルク家 ヴィンセント』


……。


短かった。

要件だけだった。

「お力添えをいただきました」の一行が、ほんの少し、丁寧すぎた。


五年前、あの河の水利契約。

三日かけて、両領地の境界を歩いた。夏の終わりだった。

ヴィンセント・ローゼンベルク公爵は、当時、三十にならない齢だったはずで、口数が、少ない方だった。私の書いた草案を、一度、表情を変えずに読み、最後に、一言だけ返した。

「よくできています」

それだけ、だった。

五年、忘れていた。


——あの方は、覚えていたのだ。


便箋を、膝の上に、置き直した。

五年前の夏の、乾いた草の匂いを、一瞬だけ、思い出した。


扉の外で、兄の声がした。

「エレノラ、おい——伯爵家から、書状が来ている」



夫の書状は、封蝋の押しが、少し、歪んでいた。

慌てて押したのだろう。ほんの、少し。


『君、いったいどこに行っている。書斎を勝手に荒らすな。誤解されるような真似を、してくれるな。すぐに戻れ。明朝、迎えをやる』


三行。

夫が、自分の手で書いた、三行。


読み終えて、立ち上がった。

暖炉の前まで、行った。

火は、もう弱くなっていた。乾いた薪の上で、赤い芯だけが、まだ生きていた。


書状を、火に、落とした。


紙の端から、じわりと茶色くなり、端が黒く縮れ、炎が上がって、文字が読めなくなった。

——書斎を、荒らしたのは、あなたです。

声には出さずに、そう、思った。


机に戻って、便箋を、一枚、取った。

公爵への返信を、書き始めた。


『ヴィンセント様


お手紙、拝読いたしました。

五年前のこと、わたくしのほうこそ、お礼を申し上げぬまま、今日まで参りました——』


ペン先が、紙を、微かに、擦った。

薄い、細い音だった。

十年、書いてきた音だ。

けれど、今夜は、その音が、少しだけ、違って聞こえた。

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