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夫の書斎で見つけた帳簿を、王室監査局に届けてよろしいでしょうか?  作者: 九葉(くずは)


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第一話 書斎の抽斗

夫の書斎の抽斗に、鍵が一本、余っていた。


他の鍵とは色が違う。真鍮だが、縁がほんの少し擦れている。古いものだ。

十年、この屋敷で暮らした。夫の書斎で、見覚えのない鍵に出会うのは、初めてだった。


結婚十周年の朝。

夫は、屋敷にいない。


「旦那様は、昨夜のうちに、クラウン子爵家へ向かわれました」

執事のハロルドは、目を伏せてそう告げた。十年、同じ声で、同じ返事を聞いてきた。

「そう」

それだけ答えて、書斎の扉を閉めた。


十周年の贈り物が、机の引き出しにある——と、昨日、廊下で耳にした。夫が秘書に準備を命じていた声だった。記念日の朝に、寝室で手渡されるはずの、それを。

書斎に入ったのは、贈り物を自分で取りに行くため、だった。

そのつもり、だった。


抽斗を開ける。

上等な万年筆。使いかけの封蝋。書類の束。——贈り物らしきものは、ない。


奥に手を伸ばすと、小さな箱が指に触れた。鍵束を収めた箱。

蓋を開けると、見慣れた鍵が七つ。そして、見知らぬ鍵が、一本。



鍵穴を探して、書斎の抽斗を片っ端から試した。

——子どもじみている。

十年連れ添った夫の書斎で、探偵のような真似を。自分で可笑しくなる。可笑しい、のに。手が止まらない。


合った。


机の、いちばん下の抽斗。二重底になっていた。

鍵を回すと、かちりと、小さな音がした。


中には、古い日誌が一冊。

そして、簿冊が三冊。


日誌を開いた。十年前の日付。夫の、几帳面な字で、こう書かれていた。


『父上の仰せの通り、アシュフォード家の娘を娶る。帳簿を読める妻がいれば、屋敷の計算に煩わされずに済む。計算のできる妻を娶れば、愛人のもとへ自由に通える。合理的だ』


……。



しばらく、何も考えられなかった。

正確には、考えることが多すぎて、どれから手をつければよいのか分からなかった、が、正しい。


紅茶を、一口飲みたかった。

ダージリン。父が好きだった茶葉。結婚してから、この屋敷では、一度も出されたことがない。

「奥様はレモンセージがお好きですから」と、いつだったか、ハロルドに言われた。

違う。一度も、そう言ったことはない。

けれど、十年、レモンセージが出された。十年、飲んだ。毎朝。


——ああ。


簿冊を、一冊手に取った。

表紙には、夫の字で、ただ一言。


『レティシア・クラウン子爵令嬢』


ページをめくる。指が、冷たい。

日付と、品目と、金額。

香水、ドレス、宝飾、菓子。

そして、茶葉。


『レモンセージ 特上 六月二日納品』


……。


私の誕生日は、六月二日。

毎年、夫が、私の誕生日にレモンセージを贈ってくれた。

「わたくしの好みを、覚えていてくださったのですね」と、微笑んだ。

毎年。十年。


簿冊の、次の頁。


『レティシア嬢、レモンセージお好み。伯爵家への納品より計上——計上名義:伯爵より伯爵夫人への誕生日贈答品』



三冊目は、家計簿だった。

私が十年、毎月、几帳面につけた家計簿。

その最終頁にだけ、夫の字で、赤いインクの加筆があった。


細かな数字の横に、○が打たれている。

「実費」と「計上」のずれ。

つまり、誤差。

つまり、十年分の、偽装計上。


数字を、目で追った。


三、二、〇、〇。

三千二百万リブラ。


十年で、夫が愛人に贈ったもののうち、私の名前で計上されていた分。

私は、受け取っていない贈り物の領収書に、十年、署名をしていた。

飲まない紅茶を、自分の好物だと言って、受け取っていた。

自分の誕生日を、愛人の誕生日と、分け合っていた。


愛していた。

愛していた、のだ。

——愛していた、と、信じたかった、が、正しい。



家計簿を、机の上に開いたまま置いた。

万年筆を取り、最終頁の、最後の一行のあとに、書き加えた。


『本日をもって、妻の業務、引き継ぎ拒否』


一文字、一文字、丁寧に。

震えぬように。


書斎の鍵を、夫の机の真ん中に、置いた。

書斎を出るときには、もう、振り返らなかった。


玄関に、ハロルドが立っていた。

表情を動かさずに、けれど、目だけは、何かを訴えていた。

「奥様、どちらへ——」

「実家へ。少し、休みに」

短く答えた。

「旦那様には——」

「いずれ、お伝えください。いまは、お伝えにならなくて結構です」


ハロルドは、目を伏せて、頭を下げた。

その下げ方が、いつもと、少しだけ違った。

「奥様」と、呼ぶ声が、最後のような響きをしていた。


伯爵邸を、出た。



馬車の外では、春の雨が降り出していた。

窓を少しだけ開けると、土の匂いがした。

アシュフォード家の庭の、土の匂い。父が好きだった、あの匂い。

十年、忘れていた匂いだ。


実家の玄関で、兄ウィリアムが、傘を差して待っていた。

「遅かったな」

それだけ、言った。

兄は、何も聞かなかった。事情も、理由も、日付のことも。

「部屋を、ひとつ空けてある」とだけ、言った。


——いつから、お兄様は、この部屋を空けてくださっていたのだろう。

考えたくはなかったが、考えた。十年連れ添った屋敷に、一度も帰る場所などなかった十年のあいだに、アシュフォード家には、ずっと、空いた部屋があった。


居間に通されて、兄が、封書を一通、差し出した。

「数日前に届いた。お前宛だ」

宛名は、確かに、私の名前。差出人の欄は、空白。

けれど、封蝋に、紋章があった。

見覚えのある紋章。

五年前、領地境界の水利契約の仕事で、一度だけ、直接に接した家の紋章。


「ローゼンベルク公爵家——」

声に出した瞬間、兄の肩が、ほんの少しだけ、動いた。

「……兄様、この封書」

「読むのは、あとでいい」

兄は、封書を私の手元に置いて、それ以上は、何も言わなかった。


封蝋に、指を当てた。

雨の匂いがする部屋の中で、封蝋だけが、ほんのりと、温かかった。


夫が、愛人のためにレモンセージを贈り続けた十年のあいだ——

誰かが、私の名前を、別のところで、呼んでいた。

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