第一話 書斎の抽斗
夫の書斎の抽斗に、鍵が一本、余っていた。
他の鍵とは色が違う。真鍮だが、縁がほんの少し擦れている。古いものだ。
十年、この屋敷で暮らした。夫の書斎で、見覚えのない鍵に出会うのは、初めてだった。
結婚十周年の朝。
夫は、屋敷にいない。
「旦那様は、昨夜のうちに、クラウン子爵家へ向かわれました」
執事のハロルドは、目を伏せてそう告げた。十年、同じ声で、同じ返事を聞いてきた。
「そう」
それだけ答えて、書斎の扉を閉めた。
十周年の贈り物が、机の引き出しにある——と、昨日、廊下で耳にした。夫が秘書に準備を命じていた声だった。記念日の朝に、寝室で手渡されるはずの、それを。
書斎に入ったのは、贈り物を自分で取りに行くため、だった。
そのつもり、だった。
抽斗を開ける。
上等な万年筆。使いかけの封蝋。書類の束。——贈り物らしきものは、ない。
奥に手を伸ばすと、小さな箱が指に触れた。鍵束を収めた箱。
蓋を開けると、見慣れた鍵が七つ。そして、見知らぬ鍵が、一本。
◇
鍵穴を探して、書斎の抽斗を片っ端から試した。
——子どもじみている。
十年連れ添った夫の書斎で、探偵のような真似を。自分で可笑しくなる。可笑しい、のに。手が止まらない。
合った。
机の、いちばん下の抽斗。二重底になっていた。
鍵を回すと、かちりと、小さな音がした。
中には、古い日誌が一冊。
そして、簿冊が三冊。
日誌を開いた。十年前の日付。夫の、几帳面な字で、こう書かれていた。
『父上の仰せの通り、アシュフォード家の娘を娶る。帳簿を読める妻がいれば、屋敷の計算に煩わされずに済む。計算のできる妻を娶れば、愛人のもとへ自由に通える。合理的だ』
……。
◇
しばらく、何も考えられなかった。
正確には、考えることが多すぎて、どれから手をつければよいのか分からなかった、が、正しい。
紅茶を、一口飲みたかった。
ダージリン。父が好きだった茶葉。結婚してから、この屋敷では、一度も出されたことがない。
「奥様はレモンセージがお好きですから」と、いつだったか、ハロルドに言われた。
違う。一度も、そう言ったことはない。
けれど、十年、レモンセージが出された。十年、飲んだ。毎朝。
——ああ。
簿冊を、一冊手に取った。
表紙には、夫の字で、ただ一言。
『レティシア・クラウン子爵令嬢』
ページをめくる。指が、冷たい。
日付と、品目と、金額。
香水、ドレス、宝飾、菓子。
そして、茶葉。
『レモンセージ 特上 六月二日納品』
……。
私の誕生日は、六月二日。
毎年、夫が、私の誕生日にレモンセージを贈ってくれた。
「わたくしの好みを、覚えていてくださったのですね」と、微笑んだ。
毎年。十年。
簿冊の、次の頁。
『レティシア嬢、レモンセージお好み。伯爵家への納品より計上——計上名義:伯爵より伯爵夫人への誕生日贈答品』
◇
三冊目は、家計簿だった。
私が十年、毎月、几帳面につけた家計簿。
その最終頁にだけ、夫の字で、赤いインクの加筆があった。
細かな数字の横に、○が打たれている。
「実費」と「計上」のずれ。
つまり、誤差。
つまり、十年分の、偽装計上。
数字を、目で追った。
三、二、〇、〇。
三千二百万リブラ。
十年で、夫が愛人に贈ったもののうち、私の名前で計上されていた分。
私は、受け取っていない贈り物の領収書に、十年、署名をしていた。
飲まない紅茶を、自分の好物だと言って、受け取っていた。
自分の誕生日を、愛人の誕生日と、分け合っていた。
愛していた。
愛していた、のだ。
——愛していた、と、信じたかった、が、正しい。
◇
家計簿を、机の上に開いたまま置いた。
万年筆を取り、最終頁の、最後の一行のあとに、書き加えた。
『本日をもって、妻の業務、引き継ぎ拒否』
一文字、一文字、丁寧に。
震えぬように。
書斎の鍵を、夫の机の真ん中に、置いた。
書斎を出るときには、もう、振り返らなかった。
玄関に、ハロルドが立っていた。
表情を動かさずに、けれど、目だけは、何かを訴えていた。
「奥様、どちらへ——」
「実家へ。少し、休みに」
短く答えた。
「旦那様には——」
「いずれ、お伝えください。いまは、お伝えにならなくて結構です」
ハロルドは、目を伏せて、頭を下げた。
その下げ方が、いつもと、少しだけ違った。
「奥様」と、呼ぶ声が、最後のような響きをしていた。
伯爵邸を、出た。
◇
馬車の外では、春の雨が降り出していた。
窓を少しだけ開けると、土の匂いがした。
アシュフォード家の庭の、土の匂い。父が好きだった、あの匂い。
十年、忘れていた匂いだ。
実家の玄関で、兄ウィリアムが、傘を差して待っていた。
「遅かったな」
それだけ、言った。
兄は、何も聞かなかった。事情も、理由も、日付のことも。
「部屋を、ひとつ空けてある」とだけ、言った。
——いつから、お兄様は、この部屋を空けてくださっていたのだろう。
考えたくはなかったが、考えた。十年連れ添った屋敷に、一度も帰る場所などなかった十年のあいだに、アシュフォード家には、ずっと、空いた部屋があった。
居間に通されて、兄が、封書を一通、差し出した。
「数日前に届いた。お前宛だ」
宛名は、確かに、私の名前。差出人の欄は、空白。
けれど、封蝋に、紋章があった。
見覚えのある紋章。
五年前、領地境界の水利契約の仕事で、一度だけ、直接に接した家の紋章。
「ローゼンベルク公爵家——」
声に出した瞬間、兄の肩が、ほんの少しだけ、動いた。
「……兄様、この封書」
「読むのは、あとでいい」
兄は、封書を私の手元に置いて、それ以上は、何も言わなかった。
封蝋に、指を当てた。
雨の匂いがする部屋の中で、封蝋だけが、ほんのりと、温かかった。
夫が、愛人のためにレモンセージを贈り続けた十年のあいだ——
誰かが、私の名前を、別のところで、呼んでいた。




