3
屋上に出ると、視界いっぱいに抜けるような快晴が広がった。ほんの数日前に嵐があったなんて嘘だったみたい。私は思いっきり伸びをして、爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込む。
あれから、三日が経っていた。
後で知らされたことだけど、あの日の豪雨はこの地域では観測史上最大だったらしい。
あの雨の中私達が生きていたことは奇跡だと、お見舞いにきた竹本さん達は笑いながら言っていた。
ついでに、猫ちゃんは家で飼って良い事になった。
あのサラリーマンには悪いことをしてしまったけれど、さすがに、命まで懸けた希の熱意に負けたのだろう。お母さんも渋々許可してくれた。今頃は家でお母さんと一緒にいるはずだ。
私もすぐにでも家に帰りたかったのだけれど、大事をとって入院をさせられていた。
とはいえ私は暇を持て余していた。身体中に擦り傷や打撲は残っていたけれど、それ以外はいたって元気だったし。
多分一番酷いのは、河原まで走ったときの足の裏の擦り傷じゃないかってくらいだ。これだって歩くたびにちょっと痛いけど、我慢できないってほどではない。
あまりにもやることが無かったので、私は病室を抜け出して屋上に来ていた。
それに、一人になって考えたいこともあった。
あの日以来、私にはもうフラグが見えなくなっていた。私の上にも希の上にも、もう旗は立っていない。
そういえば昨日お見舞いにきた時竹本さんは、近いうちに上田君に告白するつもりだと言っていた。
あの台風の日、怖くて不安がっていた竹本さんに、上田君がずっと側にいて元気づけてくれたのだそうだ。竹本さんをからかいながら、佐々木さんはそんなことを話してくれた。
竹本さんは、それでやっぱり自分の気持ちを確認したので、告白することにしたと言っていた。
あの日、佐々木さんが一人で居たのはそういう訳だったのかと納得。
私はもう竹本さんの上にフラグが見えていなかっていたので、この前みたいに自信を持って背中を押すことが出来なかったのだけれど、それでもきっと上手くいくんじゃないかと思う。
もちろんこれは、ただの乙女の勘だ。
でも、そんな状況だったら、フラグは最大限大きくなっているはずなので、やっぱりもう私にはフラグが見えなくなったということなんだろう。
私は、何故生きているんだろう。
あの日からずっと考え続けていること。
フラグとは一体なんだったのか。
私の頭の上にはずっと死亡フラグが立っていた。それは確かだったはずだ。それなのに私はこうして、何事も無かったかのように今日も生きている。
もし私に見えていたフラグがなんの意味も持っていなかったとしたら、無責任なアドバイスをしたことを、竹本さんに謝らないといけない。それを思うと、ちょっと気が重い。
けれど、私にとっては、フラグが見えていたことは悪いことばかりでは無かったのかもしれない。
希とは仲直りできたし、友達もできた。
それに一番はやっぱり、これまでの私の考え方を変えてくれたことだろう。今まで教科書と参考書にしか向けてこなかった目線を、ほんの少しだけでも外に向けるようになったこと。
そして、勉強ばかりしていては分からなかったようなことを、私はこの数日間で沢山知ることができた。
今までみたいな、周りの人に対する距離感はもう感じなくなっていた。
もしかしたら、あのフラグは神様からのプレゼントだったのかも。なんて、柄にも無いことを考えてみる。
でもすぐに恥ずかしくなって、一人で赤面した。
その時一際強い風が吹いて、私は髪を押さえる。
目を開けられないでいると、後ろから声をかけられた。
「よう。やっぱりここにいたのか」
風の行方を追って、私は振り返る。声の主が誰なのかは、もう分かっていた。
こいつはいつもいつも、こんな風に狙ったようなタイミングで現れるんだ。
「……宮下」
「病室行ったら妹さんが、多分ここじゃないかって言ってたんだ。さすが妹だけあってよく分かってるよな」
「まあ、他に行くとこなんて無いしね」
「確かにな」
宮下はちょっとだけはにかむ。
「でも居て良かったよ。ここまで上ってくるの、大変だったんだぜ」
そう言って片足を軽く挙げる。宮下は松葉杖をついていて、その足には痛々しい包帯が巻かれていた。
この間はテーピングで大丈夫と言っていたのに、やっぱりこいつは馬鹿だ。
私の視線に気付いて、宮下は照れたように鼻の頭を掻く。
「ああ、これ? こないだ言ってた試合、あれ今日でさ。ちょっと無理しすぎちゃったかなーって」
宮下はそう言って笑う。
いや、笑い事じゃ無いだろうに……。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「ははっ、せっかく試合に出れるまでになったのに、また松葉杖に逆戻りだよ。でも別に治らないわけじゃないし」
「そう。ならいいけどさ……」
「それにさ──」
そう言って一呼吸おくと、宮下は満面の笑みを浮かべる。
「お陰で試合、勝ったんだぜ。しかも言ってたとおりの逆転勝ち!」
「そうだと思ってた」
それがフラグのおかげなのか、宮下の実力によるものかは、今となっては確認のしようがないけれど。
「川澄が応援してくれたからかもな。ありがとな」
「……どういたしまして」
別に応援したつもりはなかったのだけれど、特に訂正する必要も無かったので、そのままにしておいた。
「川澄も元気そうで良かったよ。溺れたって聞いて、なんであの時追いかけなかったのかーって後悔したんだぜ」
「へタレのあんたに、そんな期待してないわよ」
「ひっでーな!」
そう言って二人で笑いあう。風が吹いてきて私たちの間を通り抜けていった。むせ返るような緑の匂いがして、もうすっかり夏が来ているんだと感じた。
「ていうか追いかけようと思っても、川澄が俺のレインコート持ってってたんじゃん」
「……あの時は私も必死だったのよ。ボロボロにしちゃったみたいで、ごめんね」
「もういいよ。結局助かったんだし」
「でもさ、私自身にもなんで助かったかわかんないんだよね。絶対死んだと思ったし。奇跡だって言われるくらいだしね」
そう。あの時、私の頭の上には死亡フラグが確かに立っていたはずなのに。
難しい顔をしている私に向かって、宮下は茶化すように言う。
「もしかしたら、あのお守りが効いたのかもなー」
「お守り?」
「なんだ、気づいてなかったのか。川澄が着てった俺のレインコートさ、ポケットの中にお守り入れてたんだよ。流されたのか、無くなってたけどさ」
「そうなの? 全然気付かなかった……。ごめんね、無くしちゃって」
思わず謝ってしまったけれど、宮下は事も無げに首を振った。
「良いって良いって、どうせ川澄に渡そうと思って入れてた物だし」
「えっ?」
「ほら、このところずっと、川澄なんか様子がおかしかったからさ。気休めにでもなればいいなーと思って」
「ちょっと、おかしかったって何よ!」
今の私は驚いているのと怒っているので、多分よく分からない顔になっていると思う。
宮下は構わずに続ける。
「結局渡せなかったけどさ、でもそれで良かったんじゃないかって思うんだ。お守りが川澄のこと守ってくれたんじゃないかって、なんかそんな気がしない?」
「そんなこと……」
私は勢いのまま否定しようとして、けれどやっぱり出来なかった。
フラグが些細なきっかけで折れることは、私が一番よく知っている。
「それにしても、二回も溺れるなんてホントにドジだよな。しかも同じところで」
宮下は笑いながら私をからかう。
「う、うるせぇ……」
自分でも分かってたことだけど、それを宮下に指摘されるっていうのはなんというか、もの凄く悔しい。
悔しかったので、包帯が巻かれていない方の足に軽く蹴りを入れておく。
人のトラウマをネタにするなんて、なんて嫌なやつだっ!!
…………ん?
あれっ?
「……宮下、なんで私が昔溺れたこと知ってるの?」
三年前のあのことは誰にも言ってない。わざわざ言うことでも無いし、自分から話題に出すとも思えない。
あのことを知っているのは、お母さんと希くらいなものだと思っていたのに。
私が質問すると、宮下はあからさまにしまったという顔をした。何かを言おうとして、結局言いよどむ。
「……なに? 言ってよ」
「あー……、えっと、川澄、三年前の時に溺れてた子供を助けたじゃん?」
「うん」
「あれって、俺の妹なんだよね」
「………………うん?」
「川澄は隠したがってるみたいだったから言わなかったんだけど、だから川澄の事は前から知ってたんだ。高校で一緒のクラスになった時は驚いたよ」
「ええっ? ……はぁっ!?」
ってちょっと待ったああっ!
妹?! ってなに、どういうこと?!
そんなのってアリ?
一瞬にして私の頭の中はパニック状態だ。
「もう今更だから言うけどさ、その時から川澄のこと、どんな子なんだろーってちょっと気になってたんだよ。だから俺から話しかけたりしてさ」
なにそれ、なにそれ! こんなのは予想外過ぎるでしょ。
宮下はいつの間にかさっきまでのおちゃらけた顔から、今まで見たこともないくらい真剣な表情になっていた。
……なに、この展開?
「さっきはドジなんて言ったけどさ、ホントは凄いなって思ってたんだぜ。だって溺れたって言っても、どっちも誰かを助けるためだろ? 他人のために命をかけるなんて、普通できねーよ」
どことなく言葉がぶっきらぼうなのは、照れているからだろうか。それを意識した途端、私の頬も急激に熱を帯びた。
気がつくと心臓が痛いくらい鼓動を打っている。
石を詰められたみたいに体が固まって、全然力が入らない。
何か言わなきゃって思うんだけど、何も言葉が出てこない。脳が働くのを拒否しているみたい。
「仲良くなったら面倒見も良くて、やっぱり良い奴だなって思ってさ。……でもずっと見てたら、なんか危なっかしくてほっとけなくてさ」
宮下はそこで言葉をいったん区切る。
真顔で見つめてくる宮下と、正面から目が合ってしまって、私は思わず目を逸らした。
全身が強張る。
宮下は、一瞬だけためらうようにして、でもすぐになにかを決心したような顔になる。
私だって馬鹿じゃない。次に来る言葉はもう予想がつく。
でも、待って待って待って。心の準備をさせて!
必死の思いで私は固く目を瞑った。
けれどもちろん、そんな私の心の声になんて気付くわけもなく、宮下が大きく息を吸いこむ音が聞こえた。
「……だから、俺、川澄の──」
と、宮下が口を開いたその時、屋上の扉が大きな音をたてて、勢いよく開いた。
私達はびっくりして、殆ど同時に入り口の方をぱっと振り返る。
「あっ、いたいた。川澄さーん!」
そこに居たのは、竹本さんだった。
竹本さんがこちらに向かって手を振ると、宮下は決まりが悪そうに、顔を逸らしてうつむいてしまった。
「あれ、宮下もいたんだ? なになに? もしかしてお邪魔だったかしらぁ?」
本当に察しているのかどうなのか。竹本さんは口元に手をあてつつ、からかうようにそんなことを言った。
今日の竹本さんはなんだかいつにも増してテンションが高い。
「う、うっせ! 俺も病院来たから、そのついでだよ!」
宮下は竹本さんに向かって自分の足を指差してそう言い訳した後、私の方を向いて、
「じゃ、じゃあ俺はもう行くから! また学校でな」
とだけ言い捨てると、そそくさと扉に向かう。
宮下には可哀想だけど、ちょっとだけ助かったって思ってしまった。
竹本さんはそんな宮下にも構わずに話し続ける。
「なによあいつ、ノリ悪い。まっ良いわ。それより川澄さん、聞いて聞いて! あのね、さっき上田君に会ってきたんだけど──」
竹本さんが何かを言っていたけれど、内容なんて全然頭に入ってこない。
とはいえ、そのはしゃぎ様から、告白が上手く言ったんだってことだけは分かった。大げさに身振り手振りを交えながら、身体中で喜びを表現している。
私は去っていく宮下の後姿をずっと見ていた。ほどなく屋上の扉の向こうに宮下の姿が見えなくなる。
扉の閉まる音が合図だったみたいに、私は急に腰が抜けてその場にへたりこんでしまった。
「でねでね、その時に私の気持ちを伝えたんだ! そしたら、上田君何て言ったと思う? あのね、……あれ? 川澄さん?」
竹本さんはようやく私の様子がおかしいのに気づいたみたい。
それでも、今日の竹本さんはそんなこと気にする様子もない。
「ちょっとー、川澄さん大丈夫ー? もう、ちゃんと聞いてよね。えーっとー、それでね──」
高熱が出たときみたいに顔がボーっとしていて、考えがまとまらない。
頬に手を当てる。……自分でもビックリするくらい熱かった。
竹本さんはさっきから、私の反応になんて構わずにずっと話し続けている。恋は盲目と言うけれど、もうちょっとだけ回りの事を見てくれると嬉しいんだけどな。
相変わらず話の内容は頭に入らなかったので、ぼんやりとした頭のままで竹本さんの話を聞き流していた。
竹本さんの上機嫌な話し声。
その声に混じるように、私の頭の上、すぐ近くで、もう聴きなれたあのファンファーレが空高く響き渡った。
一際強い風が吹いてきて私たちの髪を揺らす。それが火照った身体を冷やしてくれるような気がして、気持ちが良い。
……ああ、今日は本当に良い天気だ。
台風一過の青空を見上げて、私は自然と微笑む。
こういうパニックなら、たまにはいいかもね。ってそんなことを思った。
パンパカパパンパーン!
(了)




