第3話 ビッグオーシャン
前列大盾隊の数キロ先には、まだ八千ほどの亜人が待機していた。
彼らは、自分たちの勝利を疑っていない。
先行した仲間たちが戻ってくるのを当然のように待っていた。
しかし――。
空から降り立ったのは、帰ってくるはずの仲間ではなかった。
純白の鎧をまとった、一人の人間。
亜人たちは一瞬動きを止める。
だが、すぐに理解した。
仲間が負けたのだと。
そして次の瞬間、全員が一斉に動き出した。
彼らは、この男を知っている。
『水氷の勇者』。
その名は反乱軍の中にも広く知れ渡っていた。
号令はない。
だが、亜人たちは自然と陣形を組んでいく。
中央が正面から突撃し、左右が側面へ回り込む。
見事な連携だった。
一方で、アレックスは微動だにしない。
逃げる様子も、構える様子もなかった。
先ほど送った二千の先発隊は、おそらく、この男一人に壊滅させられたのだろうと、亜人たちは理解していた。
噂通りなら、それも十分ありえる。
危険な相手だ。
亜人たちは警戒を強めながら距離を詰める。
あと数百メートル。
その時、アレックスが静かに両手を広げた。
まるで突撃を受け入れるような姿だった。
だが、亜人たちは油断しない。
視線を外さず、その動きを警戒し続ける。
距離が二百メートルほどまで近づいた時だった。
体毛に違和感が走る。
最初は気のせいかと思った。
だが、次第に体毛へ細かな水滴が浮かび始める。
雨か?
いや、空は快晴だ。
雲一つない。
では、この水はなんだ――?
そう思った時には、もう遅かった。
亜人たちは水の中にいた。
突然、大量の水が周囲を埋め尽くしていたのだ。
川へ落ちたわけではない。
地面も空も消え、視界のすべてが水に変わっていた。
亜人たちは慌てて泳ぎ始める。
だが、周囲には無数の仲間たちがいた。
互いの体がぶつかり、思うように動けない。
必死に手足を動かす。
しかし、体は浮かぶどころか沈んでいく。
まるで下へ引きずり込まれているようだった。
苦しい。
息ができない。
口を開けば水が流れ込み、叫ぶことすらできない。
必死にもがく。
水面へ出ようと手を伸ばす。
だが、その動きも少しずつ弱くなっていく。
やがて、一体。
また一体と動きを止めていった。
アレックスの前方一帯を覆うように、巨大な水の壁が現れていた。
それは『ビッグオーシャン』。
何もない空間へ大量の水を出現させる技である。
巨大な水の中には、八千もの亜人の死体が沈んでいた。
アレックスが作り出した水には浮力が存在しない。
本来、水であれば体は浮かぶ。
だが、この水では沈むことしかできなかった。
やがて大量の水は空気へ溶けるように消えていく。
あとに残ったのは、無数の溺死体だけだった。
アレックスは、それらを冷たい目で見下ろしていた。
何も感じない。
哀れみも。
後悔も。
憎しみすら浮かんでこなかった。
ただ静かに眺めていた、その時だった。
背後から強烈な気配が迫る。
巨大な拳がアレックスへ叩き込まれた。
だが、その拳は途中で止まる。
当然のように、『バブル』が攻撃を受け止めていた。
アレックスがゆっくり振り返る。
そこには巨大な黒い人影が立っていた。
全身を覆う黒々とした体毛。
丸太のように太い両腕。
全身には岩のような筋肉が盛り上がっている。
顔には黒く硬い皮膚が張り付き、その奥の瞳には獣とは思えない知性が宿っていた。
ゴリラによく似た亜人だった。
ただ立っているだけで、他の亜人とは違う圧力を感じる。
アレックスはその姿を見て、わずかに笑みを浮かべた。
「なるほど。君が大将か」
ゴリラ亜人は防がれた拳を引き戻す。
そして次の瞬間、先ほどよりもさらに強烈な一撃を叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
アレックスを包む泡がわずかに歪む。
「へえ……驚いたな。さすがゴリラの力は違う」
アレックスは感心したように呟く。
「でも、まだ青軍の救援に向かわなければならない」
「遊んでいる暇はないんだ。――『アイスニードル』」
アレックスの周囲に複数の氷柱が現れ、一斉にゴリラ亜人へ飛ぶ。
だが、氷柱は太い腕へ突き刺さるだけだった。
致命傷には届かない。
ゴリラ亜人の口元に、小馬鹿にするような笑みが浮かぶ。
その瞬間、アレックスの目がわずかに細くなった。
胸の奥に黒い怒りが灯る。
「急いでいるんだ。邪魔をするな」
冷え切った声だった。
「――ウォーターカッター」
空中に三つの水の刃が形成される。
次の瞬間、それらは一直線に飛翔した。
鋭い斬撃音。
ゴリラ亜人の両腕と首が同時に切断される。
巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
地面を転がった首は、最後まで笑みを浮かべたままだった。
「……不快だな」
アレックスの整った顔に、黒い感情が滲む。
あの笑みだけでも潰してやろうか。
そんなことを考えた時だった。
遠く、青軍の方向から悲鳴が響く。
アレックスは視線を上げた。
次の瞬間には、その場から跳躍していた。




