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20話

 次の日、目を覚ました僕に陶華は優しく笑いかけた。


「あら猿里……おはようございます」


 僕が挨拶を返すと、陶華は毒茶を淹れる為だろうか、早速部屋を出て行った。

 僕は陶華の背中が見えなくなるのを確認すると、すぐに準備を始めた。

 暫くして戻って来た陶華の手には、やはり赤い毒茶が入った杯が握られていた。


「どうぞ……こぼさないで飲んでくださいね」


 無言で頷いて、なるべく自然に見えるよう杯を受け取り、一気に杯を傾ける。

 そして、舌の裏に隠していた糸瓜へちまを潰して作った中敷きに毒茶を染み込ませ、軽くむせ返す振りをして右手にこっそりと包み込む。


「……ありがとうございます。これなら飲めそうです」


 陶華は少し引き攣ったように微笑んでいる。僕が毒茶を飲んでいないとは夢にも思っていないようだった。

 ――よし。……なんとか陶華を出し抜いてみせた。

 僕は勝ち誇った表情を堪えて、穏やかな笑みを返して見せた。

 

 そのまま陶華から咎められることも無く川に顔を洗いに行った僕は、口をゆすいで、糸瓜の中敷きを洗った。

 そして口をゆすいでいる時、僕はハッと思い出した。


 この強烈な旨み……微かだが記憶がある……。

 頭に手を当て、目を閉じて記憶を手繰り寄せると、光明のように記憶の欠片が蘇った。


 ――そうだ、熊鍋だ……熊鍋の旨みに似た強烈な旨みだ。

 あの熊鍋のような臭みはないので、熊が入っている訳ではないだろう。

 熊鍋……僕は誰かと……熊鍋を食べた記憶がある。


「陶華……そうだ……僕は陶華と熊鍋を食べた……そうだ! ……僕は陶華と旅をしていた!」


 僕は思わず、そう呟いていた。


 そのまま平穏無事に一日を終えた僕は、大きな葉で作った寝床に寝そべっていた。

 陶華の毒が体から抜けて来たのか、断片的ではあるが僕の記憶は戻って来ていた。


 陶華に何か恐ろしい事をされた事。陶華に何か言い負かされた事。陶華と協力して悍ましい何かを倒した事。食客の少女と、塔に登った事。それに、旅の途中で親代わりだったルドラとアノンと……生き別れた事。

 具体的な事は一切思い出せないままだったが、抽象的な感情を纏った記憶を、僕はぼんやりと思い浮かべる事が出来た。


 ふと、腕に柔らかな感触が当たった。……陶華だろうか。

 僕は茅葺の天井を見つめたまま動けなくなっていた。

 微動だにできないまま、肩にも、腰にも、背中にも、柔らかな感触が広がって行く。

 僕は固まりながらも、だんだんと息が荒くなって行くのが分かった。

 彼女の熱い吐息が、首筋に吹きかかる。

 堪らなくなった僕は反射的に飛び上がるように腰を上げていた。


 僕の傍に横たわって眠っている少女は、陶華ではなかった。

 やがて少女はこげ茶色の瞳をゆっくりと開いた。

 その姿は、川の水面に映った僕と瓜二つだった。

 少女は慌てて起き上がり、僕を睨みながら怯えたように後退った。


「あなたは一体……まさか私を手籠めにするつもりですか!」


「違う! ……誤解だ! 気付いたら君が隣に寝ていたんだ。……誤解だ里里!」


 ――里里?

 自分の言葉に驚きながらも、少女の事を思い出しつつあった。

 僕はこの少女……里里に会った事がある。

 やがて、里里の方も僕に憶えがあったのか、顰めた顔は嬉しそうな笑顔に広がって行った。


「お兄さま……? お兄さまですね!」


 詳しい事は思い出せないが、里里が僕の妹である事は間違いないように感じられた。

 僕は声を落として呟くように言った。


「……声を落としてくれ里里……陶華が目を覚ましたらまずい」


 陶華は喧騒を無視したまま、僕に背を向けたまま安らかに眠っている。


「あ……ごめんなさいお兄さま」


 陶華は鼓動も寝息も緩やかなままで、起きる気配はなかった。

 僕は声をひそめながらも続けた。


「里里……僕はどうやら記憶が殆ど無くなっている。ただお前が妹である事と、陶華と旅をしていた事を思い出しただけだ。……お前は何か他に思い出せる事はないか?」


 しかし、里里は静かに首を振るばかりだった。


「私もお兄さまと同じです……自分の事も、お兄さまの片割れであり妹であるという事しか思い出せません」


 片割れと聞いて、僕は無意識のままに額に手を当てていた。

 そこには柔らかい皮膚ばかりで、黒宝玉のあの固い感触は何処にもなかった。


「里里……お前は僕の額の黒宝玉と何か関係があるのではないか?」


 僕がそう尋ねた時、里里の姿は煙のように消えてしまっていた。

 もう一度額に手を当てて見ると、そこには黒宝玉の固い感触が確かにあった。

 聞きそびれてしまったが、里里とこの黒宝玉が関係しているのは間違いなさそうだ。


 それから三日間、陶華の毒茶を上手くやり過ごしながら、僕は記憶を徐々に回復させていった。陶華が剣姫という存在である事、旅で出会った春という名の女性、それに大河沿いの町で、争いが起こっていたのも思い出せた。……僕が魔族の生まれで、黒雷法術という黒い雷を手の平から放てる事も。


 しかし、僕と陶華が何の為に旅をしていたのか、何があってこの南蛮に来たのかについて、具体的な事は何一つ思い出せないでいた。

 あと少しで思い出せそうなのだが、まだ……何かが足りない。何か決定的な、僕の体験に結び付くような具体的な何かが。

 ふと赤茶けた土間の方に目を落とす。


 ――陶華は時折土間の方をさりげなく気にしているようだった。もしかしたら、陶華は地下に何かを埋め隠しているのかも知れない。

 そう思い立った僕は、陶華が魚を獲りに川へ向かった頃を見計らって、ひたすら小屋の土間を拳で叩いて音を探って行った。


 ふと、小屋の隅の地面が、他の場所より軽い音を立てるのに気付いた。


 ――ここに……何かが埋まっている。

 手で土間を掘り返そうとしたが、強く固められているのか土が削れる気配はなかった。

 僕は手の平を土間へと向けた。そして中に埋まっている何かを傷付けないように加減しつつ気を集中させ、狙いを定めた。

 黒雷法術が大きな音を立てるのは憶えている。陶華には確実に見つかるだろう。

 だが、それでも僕は隠されているであろう何かを一刻も早く見定めたかった。

 それを見れば、何もかも思い出せる気がしてならなかった。

 そして、轟音と共に黒い閃光が迸る。


 地下に空いた底知れぬ大穴の縁には、横穴が広がっていた。

 そしてその横穴には、白銀に輝く懐かしい陶華の鎧が転がっていた。


 ……僕の頭には、魔帝城で過ごした十二年の記憶が、陶華と世界を旅した記憶が、里里と長城を歩いた記憶が、田と塔に登った記憶が、ルドラとアノンの亡骸が、劾銅と対決した記憶が、流れるように映し出されていった。


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