19話
陶華の背中を追って草木が生い茂る暗い森を分け入り、部屋へと戻る道すがらの事だった。
耳に大地を踏み鳴らすような小さな音が響く。その低い響きは、草を震わせる音と共に、断続的に僕の鼓膜を震わせていた。
……こちらに近付いて来る。
僕は思わず目を見張ったが、陶華は気付いてもいないようだった。
「陶華……この音が聴こえないのですか?」
「言い忘れていましたが……私は少し耳が悪いのです……」
陶華は少し張った大きな声でそう言った。
――また嘘だ。
僕は嘘をつく時少し声が大きくなる陶華の癖を見抜いていた。
恐らく陶華の耳が悪いのではなく、僕の耳が抜きん出ているのだろう。
額の宝玉の事と言い、どうやら僕は相当に特殊な体質なのかも知れない。
そして、どういう訳か陶華はその事を……僕の特殊体質を隠したがっている。
――何としても記憶を取り戻し、陶華の真意を確かめなければ。
僕がそう意気込んでいる間にも、大地の揺れはどんどん大きくなっていった。
「陶華……右手から来ています! この大きさは敵う相手ではありません! 逃げましょう」
「……右ですね。大丈夫です。私が何とかします」
陶華は平然と言ってのけ、背中から長剣を抜いてみせた。僕は冷や汗が額を伝うのを感じた。恐らく陶華が言っていた巨象が向かってきている。
「陶華! 逃げましょう!」
しかし陶華は不敵に微笑むだけで何も答えてくれなかった。
僕が身動きできないままで音がする方向を見つめていると、正面の木々が弾け飛ぶように倒れる。
木々の二倍の高さはある巨大な怪物が姿を現した。
扇のような大きな耳と長い鼻を揺らしながら、けたたましい泣き声を上げて、白い牙を僕達に向けて一直線に突っ込んで来る。
思わず腰を抜かして座り込んでしまった僕の前に、陶華が立ち塞がった。
「陶華!」
駄目だと思った次の瞬間、一際大きな音と共に目を開けると、全身を切り刻まれた巨象が血を流して倒れていた。
陶華は何事もなかったかのように、剣に付いた血を道端の大きな葉で拭って背中の鞘にしまう。
左手で巨象の鼻を軽々と引っ張って、時折剣で木を切り倒して道を作りながら、僕が休んでいた小屋へと巨象を引っ張って行った。
「丁度肉が食べたいと思っていた所です。燻製にしましょう」
ポカンと口を大きく開け広げた僕に、陶華はそう言って嬉しそうに笑って見せた。
――どうやら特殊体質なのは僕だけではないようだ。
小屋の傍まで戻った僕は、拾った小枝を陶華が起こしてくれた火にくべていた。
陶華はというと、象肉の葉包みを作っているようだった。
切り刻んだ巨象の肉を、黒い芋や小さな木の実、それに緑の実芭蕉と共に大きな深緑の葉に包み、細長い茎で器用に結び付けている。
そして火の傍に枝を斜めに組んで物干しのようにして、葉包みを茎の糸で結んでぶら下げていく。
「ちょっとそこで待っていてください。また象が来たらすぐ叫んでくださいね」
そう言い残すと、陶華は川のある方に歩いて行った。
暫くして戻って来た陶華が差し出したのは、赤い汁が入った小さな木の杯だった。
「部族に伝わる秘伝の薬茶です。万病に効くとのことです。少しでも早く猿里が記憶を取り戻せるようにと作りました。飲んでみてください」
僕は内心、臓物を握られるような恐怖で思わず寒気がした。
――嘘だ。僕の記憶を取り戻したいなら、何故僕の好物が実芭蕉だなどと嘘をついた。きっと陶華には、僕に記憶を取り戻されては困る理由があるのだ。この薬茶も、きっと僕の記憶を消す為の毒が入っているに違いない。
「……わざわざ僕の為に……ありがとうございます陶華。あなたには助けられてばかりで」
僕は白々しくもそう演技するしかなかった。
――例え逃げ出した所で、巨象を瞬殺する程の無双である陶華にはすぐ追い付かれてしまうだろう。
逃げ切った所で、狂暴な怪物が蔓延る緑の大海……この南蛮にたった一人で生きて行くのは難しい。
飲むのを断る事も考えたが、断る理由がない……あまりにも不自然過ぎる。
僕は仕方なしに杯を口元に運んで、少しだけ傾けた。
貼り付けたような不自然な甘さと、蠱惑的な淀んだ香り、それに強烈な旨みが、不気味な冷たさと共に口に広がった。
恐る恐る、少しだけ飲み込む。
「――うっ!!」
胸元に焼けるような痛みが広がる。
僕は思わず薬茶を全て吐き出し、杯を取り落としてしまった。
何度もむせ返す僕を、陶華は心配そうに見つめていた。
しかしその優しげな目の奥底には、刺すような冷たい光があるように感じられた。
やがて落ち着いた僕は、陶華に背中をさすられながら必死で弁明した。
「ごめんなさい陶華。折角作ってくれたのに……少し口に合わなかったようです」
「いえ、私の方こそ……配合を変えた物を明日また作ってみますので、また飲んでみてください」
有無を言わさない強い語気。……陶華は何が何でも僕の記憶を消すつもりのようだ。
食欲がないと嘘をついて一人小屋に戻った僕は、薬茶を飲んだ時に痛みを感じた胸元を触ってみた。すると、固い感触が手に残った。
それは青く透き通った水晶の首飾りだった。しかしよく見ると水晶の中心部は淀むように紅く変色して、何やらひび割れている。
僕が何の気なしに水晶に触れてみると、ひび割れが広がって水晶は音もなく崩れてしまった。散らばった水晶の破片も輝きを放ち、やがて消え失せた。
唯一残った紐を葉の寝床の下に隠した僕は、そのまま寝そべって思案に暮れる。
僕の胸には、水晶が熱を放った時の物だろうか……赤い火傷の跡が残っていた。
恐らく、あの水晶は熱を放つ事で薬茶に毒が入っている事を僕に知らせてくれたのだろう。
頭もはっきりしているし、記憶に変化はない。
――しかし、何度もあの毒茶を吐き出していれば、無理やり押さえつけられて飲まされてしまうかも知れない。
陶華が寝静まった後にでも、何か手を考えなければ。
そう決心した僕は、夜に行動を起こす為に少しでも横になって体を休ませる事にした。
やがて夜になり、部屋に戻って来た陶華は僕の隣の寝床に寝そべって大きな葉の布団にくるまっていた。
「おやすみなさい……猿里。明日はちゃんと作りますから……きっと薬茶を飲んでくださいね」
「はい……おやすみなさい……」
――陶華は……一体何を考えているのだろう。何故……何の理由があって僕の記憶を、あんな毒茶を使ってまで消そうとするのだろう。
疑念は尽きなかったが、耳を澄ませて陶華の鼓動に意識を集中させる。
やがて、陶華の鼓動は緩やかになって行った。……眠ったようだ。
念の為暫く待っていた僕の耳に、陶華の小さな寝言が響いた。
「……猿里……行かないで……ずっと傍に……」
それは、縋り付くようなか細い声だった。
僕はその声に、恐ろしいような、少し嬉しいような複雑な想いに囚われた。
陶華は僕を騙して記憶を消そうとしている一方で、それでも間違いなく僕を大切に想ってくれている。
――本当は何も知らず、このまま記憶が戻らないまま陶華と暮らした方が、僕は幸せなのではないだろうか。
そんな想いも頭をよぎった。だが……それでも僕は自分が誰なのかも分からず生きて行くのも、陶華に理由も分からず騙され続けるのも嫌だった。
やがて陶華の鼓動がいよいよ遅くなり、安らかな寝息を立て出した頃を見計らって、月明りの森へと向かう。
僕はなるべく音を立てないように、草が少ない獣道を選んで進んで行った。
――生薬を探し出して、陶華の毒を解毒してやろう。どんな残酷な結末が待っていようとも、僕は真実を知りたい。
頭を回転させ、図鑑で見た記憶がある生薬の特徴を思い浮かべる。
……細長い茎に黄色い蕾の付いた麻黄。……小さな笹のようで、ごつごつと膨らんだ根を持つ生姜。……木の幹から直接垂れ下がった、半円状の赤茶けた大きな実の加加阿。
どれも効能や詳しい生態は憶えていない。
陶華の毒茶を解毒できるかは不確かだったが、何もしないよりは可能性がある。
僕は森の中を躍起になって見渡して、目当ての生薬を探し続けた。
しかし草の穂を分けて鬱蒼とした森の中を探し続けても、生薬は影も形も無かった。
諦めかけた僕の目に、茶褐色に朽ち果てた楕円の実が映った。
――これなら……行けるかも知れない。




