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18話

 大きな窓から、うだるような湿気と熱気を含んだ風が吹いている。

 目を覚ました僕は、大きな葉の御座の上に寝そべったまま丸まる事しか出来なかった。

 鋭く刺すような頭痛と右手の焼けるような痺れが、脈打つように襲ってくる。


 僕は歯を食いしばりながら、竹の壁を睨んで苦痛を耐え忍んだ。

 やっと頭痛も右手の痛みも和らいで来た時、部屋の隅に座り込む女の姿に気付く。

 黒布で左目を隠した、凛とした麗しい顔姿。柔らかく流れるような肢体。

 腰まで伸びた長い黒髪の、獣皮と葉の服を身に纏う、途方もなく美しい女性だった。


 思わず見惚れていると、女性は柔らかく笑って見せた。

 僕は急に恥ずかしくなって目を逸らす。


「良かった……やっと目を覚ましてくれましたね……私の事が分かりますか」


 冷たいような、優しいような、美しくも不思議な声だった。

 流れる沈黙の中、僕は彼女を盗み見た。しかし、やはり彼女に見覚えはなかった。


「……わかりません」


 俯く僕に、彼女は更に問いかけた。


「自分の事は憶えていますか」


 ――自分? 僕は……一体誰だ……?

 頭を抱えて考え込む。

 しかし自分の名前も、過去も、ここが一体何処なのかも、何一つ思い出せなかった。


「私は陶華といいます。あなたは猿里」


 陶華によると、僕達はここ南蛮の森深くのとある部族の一員だったが、古くからの仕来りによって集落を追放され、二人で共同生活を送っていたそうだ。

 しかし三日程前に僕が崖から落ちて頭を打ち、そのまま昏睡してしまっていたのが、今になって目を覚ましたという事らしい。

 話し終わると、陶華は小さな薄暗い部屋を出て、すぐに何か抱えて戻って来た。


「喉は乾きませんか」


 陶華の抱えた木の椀には、水が溢れんばかりに揺れていた。

 渇きに気付いた僕は椀を一気に傾けて喉を潤していく。

 僕が椀を床に置くと、陶華が僕をじっと見つめているのに気付いた。

 そして僕のすぐ傍で腰を落として膝立ちになると、にじり寄って来た。

 陶華の柔らかな腕が僕の背中を包み込むように絡みついた。


「猿里……無事でよかった」


 何も言えず、身動きもできず、陶華の放つ得も言われぬ甘い香りに眩みながら、ただ早鐘のように打つ自分の心臓の音を僕はただ聴いていた。

 やがて僕から離れた陶華は、はにかむように笑って見せた。


「私は実芭蕉を取って来ます。猿里はまだ大事を取った方がいいでしょう。決して無理に動かないでくださいね」


 ――実芭蕉とは一体何だろうか。

 僕が尋ねようとした時には、陶華は背中に掛けた鞘を僕に向け、部屋を出て行ってしまっていた。

 出入り口の向こうに目をやると、赤茶けた土が剥き出しになっており、その先には森があった。

 森には側面が湾曲した大きな葉を垂らした木が生い茂っている。


 僕の右手の痺れは既に収まっていたが、まだ軽く頭が痛かったのと、全身の気だるさがあったので、大きな深緑の葉の上に寝そべった。

 そして、あの美しい女性……陶華の事を思い浮かべていた。


 ――陶華は……陶華と僕は一体どういう関係なのだろう。

 僕はもっと聞きたいことがあったが、陶華は直ぐに話を区切ってしまうので、多くを語ってくれていない。

 ……姉弟なのだろうか。だとしたらそう言ってくれるはずだが、そんな話はなかった。


 ――まさか恋人……いや、年が離れすぎている。自分の顔はまだ見ていないが、手足は明らかに短い。僕がまだ子供だという事は分かっていた。

 それでも、陶華は僕を大切に思ってくれているというのは何となく分かった。

 ただ、一つだけどうしても気になっていた事があった。

 ……陶華の態度にはどこか違和感があったのだ。

 まるで何かを悟られたくないような……本心をどこかに隠しているような、そんな違和感だ。

 陶華を本当に信用していいのか、僕は決めかねていた。


 ――とにかく、早く記憶を取り戻さなければ。

 僕は寝そべったまま、目に映る物の名前を片っ端から頭に思い浮かべていった。

 窓……空……蝿……雲……蟻……床……。

 続けて、見た物から連想して他の物も思い浮かべてみた。

 月……雨……蝶……蛾……天井……。

 どうも物や動物の名前は問題なく思い浮かぶようだった。

 先ほどの陶華との会話にも特に問題はなかった。ただ、目覚める以前の体験と人物の記憶だけがすっぽりと抜け落ちたように思い出せないのだった。


「猿里、実芭蕉を持ってきました」


 陶華の声に僕は腰を起こす。陶華は果物のような物を抱えていた。

 丸く膨らんだ短刀のような形をした黄色い実が、扇状に集まっている奇妙な果実だった。

 陶華はその内の一つを千切って、皮を軽く剥いて僕に渡してくれた。


「……ありがとうございます」


 受け取った実芭蕉とやらを見つめた僕は、思わず怪訝な顔をしてしまった。

 今まで目に映った物の名前はすぐ思い出せた筈だったが、この不思議な実には全く憶えがなかった。

 白い果肉に顔を寄せて香りを嗅いでみると、芳醇な甘い香りがした。

 恐る恐る口に入れてみると、淡白で濃厚な甘さで、食感は粘り気があってかなりの美味だった。

 口に幾つもの固い種が残ったので、陶華が差し出してくれた木椀に吐き捨てた。

 何度吐いても、すぐにうんざりする程の量の種が口から出て来た。

 やっと種を出し終わった僕は軽く息を吐いた。


「種が多くて食べにくいですが……中々に美味でした」


 陶華は軽く微笑んでみせた。


「猿里はこの実芭蕉がずっと好物だったのですよ」


 ――やはり陶華は僕に嘘をついている。

 いつどこで誰と食べたかの記憶こそないが、僕には食べ物の記憶はあった。

 饅頭。水餃子。揚げ麺麭。黄桃。干し飯もぼんやりとだが思い出せた。

 しかしこの実芭蕉とやらはいくら頭を捻っても、見た憶えも食べた憶えも全くない。


「これが僕の好物……そうだったのですか……全く憶えていませんでした」


 陶華と目を合わせないようにしながら、僕はそう答えた。

 僕の中の、疑惑程度に過ぎなかった陶華への不信感が、段々と強くなって行くのが分かった。


 ――陶華はこんな嘘をついて、何を考えているのだろう。本当に僕はこの南蛮と呼ばれる森に生まれ育ったのだろうか?

 そもそも部族の仕来りで集落を追放された、というのも嘘八百なのかも知れない。

陶華は考え込む僕に落ち着いた口調で語り掛けた。


「あんなに強く頭を打ったのです。無理もないでしょう。きっとその内思い出します。……もし何か小さなことでも思い出した時はすぐに私に言ってくださいね」


 優しく微笑む陶華に、不信感を悟られないように目を向ける。

 そして僕は鎌をかけるつもりで陶華に問いかけた。


「陶華……僕達は、一体どういった仕来りによって生まれ育った集落を追放されてしまったのでしょうか」


 その刹那、陶華の目に怒りとも悲しみとも知れない影が宿ったのを、僕は見逃さなかった。

 陶華は、すぐに取り繕うように困り顔で微笑んだ。


「……ごめんなさい猿里。色々あってその事はあまり思い出したくないし、話したくないのです。あなたもその事に関しては、きっと思い出さない方が幸せでしょう」


 そう言って、陶華は僕の肩に腕を回して優しく抱き寄せた。

 ――やはり、間違いなく陶華は僕に何かを隠している。

 背中を優しく撫でる暖かな陶華の腕が、僕には氷のように冷たく感じられた。


 やがて僕をそっと離した陶華は、柔らかく微笑んでみせた。

 僕はなるべく自然に見えるように微笑み返した。


「陶華、僕は大分良くなったようなので、顔を洗いたいです」


「それは何よりです。私が案内しましょう」


 陶華に連れられて、森を通って流れの緩やかな川へと向かう。川の中には、根が剥き出しになったような小さな木がいくつか生えている。

 川の前に座り込み、軽く顔を洗う。陶華は僕の傍に立っていた。


「この水は飲んでも大丈夫です。ただ、言い忘れていましたがこの近くには巨象が出るので気を付けてください。決して一人で遠くに出歩いてはいけませんよ。もし巨象に出会ったら、すぐ大声で叫んでください」


 手に掬った水を軽く飲み込み、僕は陶華に頷いて見せた。

 そして波紋が揺れる美しい水面に目を落とす。

 そこには白い麻の深衣を身に着けた少年の姿が映っていた。少し伸びた髪と瞳はこげ茶色だ。


 ――これが僕の姿か。

 最初は驚いたが、まじまじと見ているとどこか懐かしいような、頭の隅に憶えがあるように思えて来た。

 ふと、柔らかな風で髪が揺れ、露わになった僕の額が水面に映り込んだ。


「……これは?」


 額に埋め込まれた鈍く光る黒い宝玉に気付いた僕は、思わず声を上げていた。

 触ってみると石のように硬かった。


「……それは……私にも分かりません。生まれつき額にあったと聞きます」


 陶華の声は少し上ずっているように感じられた。

 ――この宝玉にも何か陶華が隠している秘密があるのかも知れない。

 怪しまれないようにそれ以上聞かなかったが、僕はこの宝玉の事を胸に留めておく事にした。


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