17話
鐘音が初めて止まった。そして、劾銅が振り返る。
その顔の右半分には、隙間がない程の白宝玉が埋め込まれている。
「……魔帝……魔帝か……!」
低く、落ち着いた声だった。しかし、その声には劾銅の心内の全てが……憤怒と憎悪の全てが込められているのが、僕には分かった。
しかし、臆せずに僕は口を開く。
「……天長城を砕くのを止めろ」
動きは見えなかったが、音で時機の予測は出来た。
劾銅の閃撃を受けて長城に背中をぶつけ、倒れ込んだ。それでも何とか立ち上がった。
直前で短刀を自ら胸に突き立てておいたのが上手く行ったようだ。
しかし、短刀を持っていた右手は見る影もなくひしゃげていた。
滲むように広がる激痛。歯を食いしばって耐える。
――やはり、劾銅の攻撃は速過ぎて僕の鉄板では防げないようだ。
すぐに額の黒宝玉を覆っている包帯を外して、歯と左手を使って右腕を止血する。
そして大きく口を開いた。
「劾銅! ……何故お前は天長城を砕く!」
劾銅の残った大きな右目が、僕を睨んだ。
「……魔族を……憎き……! 憎き……! 憎き魔族を滅ぼす為!」
「魔族を滅ぼして何になる! その後どうする!」
「仇討ちだ! 小景の……兄上の……母上の……父上の仇だ! 後がどうした! 舐めおって……舐め腐りおってえええええ!! ……例え刺し違えようが……この命燃え果てようが……貴様だけは……魔族だけは……絶対に殺す! ……殺し尽くす!」
「劾銅……僕は、親代わりの二人を……この戦場で失った」
ほんの一瞬だけ劾銅の眉根が動いた。
「聞いてくれ! 天長城を壊して、魔獣を全て滅ぼしたとして、それは人間の為にもならないんだ! 僕はやっと分かったんだ! 聞いてくれ劾銅!」
しかし、劾銅は全身のドス黒い血管から血が噴き出るままに、怒気に顔を歪めた。
「黙れえええ! 黙れ黙れええええ! 私とて知っておる! 天長城を砕いてはならぬ……魔族をみだりに殺してはならぬ……そんな言い伝えはとうに知っておる! ……だが……私は貴様を……魔族を殺さねばならぬ! 我が仇敵を……! 必ず根絶やしにして見せる! 例え高祖の眠る霊廟を暴いて白宝玉を盗み出し、全身に埋め込もうとも……心の臓に埋め込もうとも……必ずだああああああ!!」
劾銅が憎悪を込めるように血の海を踏みつけ、飛沫を上げ、歩み寄って来た。
「劾銅! お前は力を持っている! 世界を変えられる程の力を! 力を持つ者は、力を振るったその先を……振るう前に考えねばならない! 考えるんだ! 劾銅!」
「無論……陶華と子を為し、貴様と魔族を一滴の血も残さず殺し尽くしてなお生き恥を晒すような事があれば、霊廟の門前にて自刀し、高祖に詫びる覚悟だ!」
劾銅は僕に動きを読ませない為だろうか、少しずつ距離を縮めて来た。
やはり劾銅は踏み込む気がないようだった。
――時機が……読めない。
短刀を持った左手が震える。
劾銅は、全身に埋め込んだ白宝玉を輝かせ、顔を紅く染め、引き攣ったように口角を上げて見せた。
そして弄るようにゆっくりと、僕の頭上に戦棍を振り上げた。
焦った僕は、短刀を思わず自分の顔に向けて突き立てた。
長方形の鉄板が僕の顔を覆い、短刀は弾かれた。
しかし眼前を鉄板の黒が埋め尽くしても、劾銅が戦棍を振り下ろす気配はなかった。
やがて崩れ落ちた鉄板の先に滲み出た劾銅の顔は、歓喜と、恍惚と、興奮と、どこまでも深く重い憎悪に染まり切っていた。
そうして、永遠にも思える時の中で、劾銅はただたた戦棍を振り上げているのだった。
僕は自分が今生きているか、死んでいるのかさえ分からなくなっていた。
そして思わず左手を劾銅へ向けて黒雷法術を放った。……放つしか無かった。
しかし轟音と閃光に包まれても、劾銅の憎悪の籠った笑みも、振り上げた戦棍も少しも揺らぐ事はなかった。
ただ、劾銅の血管から吹き出た血が雷で焦げたのか、黒い煙が微かに上がっていた。
その鉄臭い悍ましい匂いだけが、僕の鼻に届いた。
やがて、劾銅が戦棍を更に振り上げたかと思うと、僕の頭上へと真っ直ぐ振り落としていった。
「死ねえええええええええ! 魔帝いいいいい!」
ゆっくりと僕の頭上へと振り下ろされる戦棍。不思議と他人事に思える。
僕は後ろに下がって戦棍を避けようとしたが、体が僅かにしか動かない。
どうも頭の感覚に、体の動きが付いて来ていないようだった。
なおも振り下ろされる戦棍に、僕は目を見開き考えを巡らせていった。
――法術は……木を何本も消し飛ばす程の威力がある筈だが、劾銅には効かなかった。鉄板を出すにも……今からではもう遅過ぎる。
僕は、恐怖で目を瞑りそうになるのを堪え、劾銅の残った右目をはっきりとねめつけた。
僕に出来る事は、それしかなかった。
――戦棍がいよいよ僕の頭を撫でるかと思ったその時、眼前が歪んだ。
腰と背中を掴まれる感覚の後、浮くような感覚。ザバザバと血の海を踏みつける足音が耳に残る。
見上げると、そこには僕を両腕で抱きかかえた陶華の懐かしい白銀の鎧と、凛とした美しい顔があった。
「陶華!」
陶華は劾銅の側面に回り込んだ所で、僕を降ろして腕を乱暴に掴んで立たせた。
そして、苛立たし気に僕を見下ろしていた。
「莫迦だとは思っていましたが……あなたは本当に救いようがないクソ莫迦阿呆無能ですね。劾銅に説得が通じる訳がないでしょう」
僕は顔を少し顰めつつも陶華を見つめ返した。
「……話は後です。今は劾銅を倒しましょう」
――僕は天長城の本当の役割に気付いていた。
天長城を守る為にも、劾銅は何としても倒さなければならない。
「分かっています。心の蔵に宝玉を埋め込んだ劾銅の守りは鉄壁ですが……速さは私が上です。そこに勝機はあります」
陶華はそれだけ呟くと、すぐに劾銅へと向かって行った。
首を揺らすように僕の姿を探していた劾銅が、やっと気付いた。
「……陶華! ……貴様あああああ……! 植え付けかああああああああああ!!!」
怒り狂う劾銅を、陶華が何度も切り刻むのが、僅かな陶華の残像と吹き出る劾銅の血飛沫で分かった。
それでも劾銅は少しも身じろぎせず、こちらに向かって来た。
――全身に埋め込んだ白宝玉の力で、身の守りと胆力が格段に上がっているのだろう。
劾銅は、紅潮した全身を鮮血で深紅に染めながら、奥歯まで剥き出しにして、憎悪を投げ付けるように血染めの瞳で僕を睨み、大股の早歩きで、血の海に波を立てながら向かってくる。
僕は劾銅から目を逸らさず、亡骸に躓きそうになりながらも、後退るように逃げ続けた。
やがて、陶華の剣閃は劾銅の戦棍に受けられるようになってしまっていた。
陶華は体力の限界なのか、心なしか動作が遅くなっているように見える。……好機は一度しかない。
僕は残った左手に短刀を強く握り締め、その時を待った。
劾銅が踏み込む音。――今だ!
「里里!」
短刀を劾銅へと投げつけ、現れた里里と隣り合う。そして音で予測した劾銅の着地点へと手の平を向ける。
迸る黒い閃光と轟音が、劾銅の足元に大穴を作り出した。
短刀と里里に一瞬の気を取られた劾銅は、大穴にすっぽりと入り込む。
すぐに気付いた陶華は、劾銅を追うように大穴に飛び込んだ。
血の海が大穴に流れ込む音と、穴に落ちた劾銅を陶華が切り刻む音が、戦場に響いている。
そして、やっと僕は息を吐いた。
「里里……ありがとう。助かった」
里里の姿は、既に消え去っていた。
やがて、大穴から劾銅の声が響いた。
「陶華……! 目を……目を覚ましてくれ陶華……頼む……お願いだ……」
その声は劾銅に似つかわしくない、懇願するような哀れな叫びだった。
しかし、陶華は劾銅を切り刻む音を止めないまま、冷たく言い放つ。
「あなたは……結局私の言葉を何一つ聞いてくれないのですね。私は植え付けなどされていません。自分の意志で魔帝を助けて逃げ出しただけです。あなたをこうやって今殺しているのも、間違いなく私の意志です」
「陶華……陶華……! まさか……本当な……本当なのか! ……それは」
「本当です。私はあなたの事を最低最悪の阿呆馬鹿クソ下郎と思っていますし、あなたと結婚するくらいなら全身の皮と爪を剥がれて糞と小水を塗り込まれるか、百頭の豚に犯されながら狼に喰われた方が幾分も増しです」
……劾銅の声はそれきり途絶えたかに思えた。
しかし、大きな高笑いが上がったと思うと、劾銅は叫び出す。
「……陶華! ……おお陶華! そうであったか! そんなにも私が嫌いであったか! すまなかった! 私は……気付けなかった! お前の気持ちを考えず! ただお前を愛する事しか考えていなかった! 私はとんだ大馬鹿者であった! そうか……そうであったか……ハハハハハハハハ! だが……私ももうじき死ぬだろう! 輪廻があるかは分からぬが……もしあったのなら……来世で夫婦になろう! いや、なって見せる! 必ずや! お前を来世では振り向かせて見せる! 陶華……おお陶華……ああ……愛すべき陶華よ……如何せん! ああ如何せん! ……陶華よ! これだけは決して忘れてくれるな……私は永遠にお前を愛し続ける! ハハハハハハハ!」
やがて、劾銅の高笑いは、血の吹き出す音と陶華の剣を振る音に掻き消えて行った。
そして、血の海を静寂が包んだ時、返り血で赤く染まった陶華が穴から飛び出た。
その姿は、どこか寂しそうにも見えた。
「不思議な事ですね。あんなに嫌っていたのに、実際に殺してみたら……ほんの少しだけ……」
陶華はそのまま言葉を切った。
「劾銅は……誰よりも純粋だったのだと思います。出来るなら……話し合いで解決したかった。力及ばず、残念に思います」
僕は大穴の前に跪き、黙祷した。
ゆっくり目を開く頃には、劾銅が眠っている大穴は血の海を集めて赤で埋め尽くされ、それと分からなくなっていた。
潰れた右手の痛みを堪えながら、立ち上がって真っ直ぐに陶華を見つめる。
「何ですか……」
陶華は動揺したように顔を逸らした。
僕は、陶華が再び僕に顔を向けるのを待ってから、語り掛けるように切り出した。
「……陶華。僕は世界を旅して……あの低く縮んだ天長城を見て……やっと分かりました。魔帝の儀が行われて来た理由も。僕が生まれて来た理由も。そして、僕と陶華が為さねばならないことも」
それは、痛いほど沈痛な顔だった。まるで命を絶たれる直前の少女のような……見ているこちらが胸を締め付けられるような、そんな表情を陶華はしていた。
普段の陶華の凛とした大人の面影は跡形もなかった。
僕は、それでも陶華を見つめ続けた。
「……陶華……あなたも本当は知っていたのでしょう。……お願いします。……陶華の協力が必要なのです」
陶華の表情が、消えた。
そして虚ろな焦点の合わない目のまま、顔だけ僕に向けていた。
「……あなたには……本当に……失望しました」
そして、陶華は僕に一歩近付いた。




