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15話

 この笠の裏側に来てからというもの、不思議と体が軽かった。軽すぎて普通に歩くだけで跳び上がってしまいそうな程だ。

 僕と田が足を引きずるように歩きながら庵の前に辿り着くと、中から痩せこけた老師が出て来た。右手で禿げ上がった頭を撫で、右手で長い白髭をいじり、白い絹の深衣の裾をなびかせて、細い目で僕を見つめた。

 そして大きな口を広げて、笑みを作ってみせた。その笑みには何とも言えない悍ましさがあった。


「遥々よく来てくださった。……猿里さんに田さんでしたね。歓迎しましょう。……たが無礼を承知で言わせてもらいますが、服が仙液で汚れております」


 ――仙液とは……あの樹液の事だろうか。

 確かに僕も田も、服どころか全身樹液まみれだった。

 老師は一度庵へと戻り、不気味な笑みを顔にこびり付けたまま、二着の麻の深衣を抱えて戻って来た。そして深衣を竹籠に入れ、


「池で体を清められたらこの服にお着替えください。申し遅れましたが、私は幻子と申します。……どうぞよしなに」


 僕が感謝の意を伝えると、幻子は庵へと戻って行った。僕は幻子の事が何となく信用できなかったが、言われるままに背負った麻袋を空の竹籠に入れ、深衣の帯を解いていった。


「どうした田。お前も早く脱ぐといい」


 何故だか田は俯いて、顔を紅くして黙り込んでしまった。

 どうした、と再び尋ねてみると田はやっと口を開いた。


「兄貴……俺実は……女でして……」


 僕は時が止まったかの様に動けなくなった。

 短髪だし、性格も男らしいので全く気付かなかったが、言われてみれば確かに顔形は丸みを帯びている。


「無論知っている……さっきのは冗談だ。……すまなかった。僕は見えない所で待っているから先に体を清めるといい」


 無茶苦茶な言い草なのは自分でもわかっていたが、それしか言えなかった。

 そしてそのまま庵へと向かう。


「どうぞどうぞ。お入りください」


 庵の入り口には幻子が待ち構えて手招きしていた。


「身を清めていませんが……入っていいのですか」


「いいですとも。いいですとも。それにしても田さんは美しい娘さんだ……」


 幻子の顔は嬉しそうに紅潮している。……僕は無性に腹が立って来た。


「……一切合切お見通しという訳ですね」


「そんな事より! さあさあこちらへ!」


 庵の中は小奇麗に片付いた畳張りで、部屋の隅に小さな土間があるだけだった。

 幻子は目を大きく見開いて、小さな窓から園林の様子を覗いているようだった。


「おお! 何と素晴らしい! おお! ヒヒヒヒヒ! さあ! あなたの覗き窓も用意しておりますぞ! さあさあ!」


 僕は呆れ果てて幻子の白髭を引っ張って覗きを止めさせた。


「……僕の妹分を覗き見るような真似はやめてください。髭を千切りますよ」


「……いやはや何とも……手厳しいお方だ……では……茶でも淹れてきますかな」


 僕の向けた冷たい目線に、幻子は不貞腐れたような顔をして土間の方へ向かっていった。

 待っている間、一瞬だけ田の一糸まとわぬ姿を思い浮かべて心が乱されかけたが、頭を振ってその雑念を振り払った。

 その時、幻子が若草色の冷茶が入った硝子瓶と白い茶器を盆に載せて戻って来た。

 そして小声で囁くように言ってのけた。


「やはり見たいのでしょう猿里さんも……ご安心を……決してバレはしませぬ……」


「……あなたのような煩悩塗れの意馬心猿の輩とは、断じて僕は違います」


 幻子は頬を膨らませた。見た目は老爺なのに、性格はまるで我儘な子供だ。


「……それで……何の御用でしたかな」


 突然、幻子は気を取り直した様に真面目な口調になった。

 ……老爺は、今までとは打って変わって、何もかも見通すような冷たい目で僕を見ていた。

 ――幻子は、本当は何もかも知っているのではないだろうか。

 そしてその事を悟られまいと、おどけた態度で誤魔化そうとしているのかも知れない。

 僕は鎌をかけてみる事にした。


「あなたには、僕の考えなど始めからお見通しなのでしょうね」


「……はて。私にはさっぱり」


 どうやら白を切るつもりらしい。……一度引いてみるか。


「……失礼いたしました。……私がこの塔に登った理由は他でもありません。疫病に効く薬草を分けて頂きたいのです」


「それならここに用意しております」


 幻子は棚から糸で結ばれた深緑の薬草の束を取り出して、僕に渡す。


「感謝いたします。……しかし、随分と用意周到ですね」


 どのような疫病かも聞かず、まだ青々とした薬草を束で用意しているというのは、どうにも違和感があった。

 幻子のか細い目をねめつけてみる。

 すると幻子は、俯くように目を逸らした。

 ……やはり幻子は只者ではない……そうとしか思えない。


「あなたは……魔帝の儀が行われる理由についてもきっとご存じなのでしょうね」


 幻子は少しだけ眉を顰めた。


「……私はもう隠居した身です。ただこうして地の底で……天に満ちる万象の輝きを見守る事だけで精一杯なただの助兵衛な耄碌爺です……」


 疑惑が確信に変わった。やはり幻子は何もかも知っている。


「はぐらかさないでください。あなたはご存じなのでしょう。僕が生まれて来た理由も、僕が死んでいく理由も」


「それはあなたが自分で見つけ、自分で決める事です。私如きには何とも言えません」


 幻子の声には有無を言わさない強さがあった。どうあっても話す気はなさそうだ。

 押し黙ってしまった僕に、幻子が何やら差し出して来た。透き通った青の水晶に紐が通してある。


「私にできるのは、目の前の人への小さな手伝いだけです。これを身に着けなさるといい。きっと役に立つ事があるでしょう」


「……ありがとうございます」


 僕が水晶の首飾りを首に通すと、幻子の姿は消えていた。

 幻子の姿を追って思わず辺りを見渡すと、庵の出入り口にその影があった。


「素晴らしい……! おお! 何と美しい! おお!」


 僕は思わず気が抜けそうになったが、すぐに立ち上がって覗き爺の耳と髭を引っ張って引き戻した。


「あいたたた……何とも手厳しいお客人だ……」


 幻子は困ったような顔で不貞腐れている。


「あなたというお方は……もう少し遠慮を弁えて頂きたい」


「面目ございませぬ。直に娘を視るのは久方ぶりでして……つい……あ、厠でしたらこちらにありますぞ」


「……田が服を着終わって戻るまで、僕は決して厠には行きません」


「……ううむ。……お見通しという訳ですか」


 やがて田が服を着て、皮鎧と木籠を手に抱えて戻って来た。僕は何だか気恥ずかしくて、田がまともに見られなかった。


「兄貴……女だろうが何だろうが、俺は俺です。……どうか変わらず接してください」


 僕は田と軽く目を合わせて微笑んだ。


「そうだな……お前が僕の大事な筆頭食客な事には変わりない」


「兄貴! ありがとうございます……!」


 田も嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

 ふと僕は麻袋から薬草の束を取り出してみせた。


「薬草はあの老師に分けて貰ったよ。ただ、一つ注意しろ。あの老爺は……色欲魔の覗き爺だから何するか知れた物じゃない。気を付けてくれ」


「何か変な視線があると思ったんですよ……まさか兄貴は覗いてませんよね……」


「……僕は覗きなどしない。……止めていただけだ」


 本当は幻子を止める時に一瞬だけ目に入ってしまった事があったが、言わないでおいた。

 そのまま田とすれ違って、池で体を清める。

 池の水は冷たく、身も心も綺麗サッパリになった。

 やがて、庵に戻った僕を出迎えたのは、不気味な笑みを浮かべた幻子と、呆れ顔の田だった。


「兄貴……この欲情爺が……何度止めても兄貴を覗いちまって……」


 僕はあまりの事に怒る気にもなれず、呆れ果てて大きな溜息をつくことしか出来なかった。


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