11話
「お兄さま!」
また、幻覚だ。
ルドラが言っていた。魔帝になった者は、幻覚に悩まされる事があると言う。
「無視しないでくださいよ。お兄さま」
「うるさい。幻覚め」
「もう! ……冷たいのですから」
その幻覚……里里と名乗った少女の幻覚が……不貞腐れたように僕の腕を軽く小突く。
「頼むから黙っていてくれ。僕は考え事があるし、気が立っているんだ」
地理に自信がない僕は、一度西に進んで頂上を目指したのだった。
そして辿り着いた長城の上を、南西へと歩んでいた。
このまま令国と范夏国の国境長城を南西の魔帝領まで進み、そこから南東へと延びる長城に乗り換えれば、いずれは南蛮に辿り着く筈だ。
そして、陶華も……南蛮に行けばまた会えるかもしれない。
長城の上を囲むように立つ胸壁は、身を隠しながら防衛する為の構造だろうか、凸凹が交互に並んでいる。
正面を見渡すと、森の中を蛇のようにうねりながら、長城が地平線まで続いている。その奥からは何やら白い塔がぼんやりと覗いている。
草木がない長城は旅人や行商人にとって便利なのか、すれ違う人影もあった。
時折、令国の兵士に割符を求められたが、陶華が大河の町で買い与えてくれていたので問題はなかった。
陶華……今は一体どうしているのだろう。
「……呆れた。またあの女の事を考えているのですか?」
里里は、僕に瓜二つの姿だった。
額の宝玉や、それを隠す鉢巻こそないが、こげ茶色の髪も、瞳も、目鼻立ちもそっくりで、藍染めの礼服や、黒い外套まで全く同一だ。
里里を見ていると、まるで鏡を見ているかと錯覚する程だった。
ただでさえ不気味なその姿は、よく見ると顔の輪郭や体つきが柔らかく、僕と似ていながら確かに少女のようだった。
その事がより一層不気味さに拍車を掛けている。
「そんな女の事忘れて、今は旅を楽しみましょうよ」
黙れ、と言っても、里里は黙りません、と返すだけだった。
周りを見渡してみても、里里以外には人の姿はなかった。
その景色に、僕は急に寂しくなって俯いてしまった。
「……どうすれば良かったのだろう……僕は……」
つい、幻覚に弱音まで零してしまう。
「お兄さまは何も悪くないですよ。悪いのはあの女の方です」
「陶華の事を悪く言うのはよせ」
「昨晩はあんなに憎々し気にあの女を思っていたのに、私が貶すのはどうして駄目なのですか?」
「……何故その事を知っている」
「私はお兄さまで、お兄さまは私です。お兄さまの事なら何でも知っていますよ」
「なら、僕が生まれて来た理由を言ってみろ」
「意地悪を言わないでください。お兄さまが知らない事は私も知りません」
こんな幻覚と話して、僕は気が触れてしまったのだろうか。もしすれ違う人があったら、一人で低い声で呟く僕を見て間違いなく気が触れたと思うだろう。
僕はまた辺りを見渡してみたが、やはり里里以外に人の姿はない。
「陶華は……本当は優しい人なんだ」
「どうしてそう思うのですか?」
「優しくなければ、足手まといの僕を連れて逃げたりなんかしないだろう」
「ですが、今はお兄さまを捨てて一人で逃げているのですね」
「僕が無茶したのも確かだ」
陶華が言っていた通り、劾銅は陶華一人で何とかなったのかも知れない。
僕が陶華の言う通り逃げていれば、失望される事はなかったのかもしれない。
――いや、今思うと、僕がいくら逃げても劾銅は僕に容易に追いついてしまった事だろう。
陶華が僕に失望したのは、自分の身を挺して陶華を守ろうとした事そのものに対してなのかも知れない。
彼女は僕に、ただ何もせず震えていて欲しかったのだろう。
「そうです。あの女は、身を挺して人を守るような善行が理解できず、お兄さまが得体の知れない化け物のように感じてしまったのでしょう」
「違う! 陶華は僕を大切に思ってくれているからこそ、僕が身を挺する事が嫌で仕方なかったんだ!」
自惚れかも知れない。初めて会った時は手を斬り落とされた。それでも陶華が僕を大切に思っていてくれているというのは、きっと確かだ。
時折見せてくれた、あの優しい微笑みは今でもはっきり思い出せる。
「何故あの女はお兄さまを大切に思っているのでしょうか」
「……わからない」
それきり、里里の姿は忽然と消えてしまっていた。
それから半日ほど歩いただろうか。急階段を登った先に、四角い部屋があった。
部屋は長城と同じように干し煉瓦の壁と天井に囲まれており、旅人に敵台と呼ばれていた。
敵台は商人が露店を出している事もあれば、旅人がたむろしている事もある。
耳を澄ませても鎧の擦れるような音はしないが、きっと親衛隊は今も僕の居所を探っている事だろう。一応は警戒しながら中の様子を伺う。
この敵台の中には、商人が露店を出しているだけだった。
安心した僕は麻袋と麻の着物と燻製肉と岩塩を買い、敵台を出て麻の深衣に着替えると再び旅立った。
刀銭はあと五つしかなかったが、南蛮まで切り詰めれば何とかなりそうだ。
「新しい服もよくお似合いですよ。お兄さま」
里里はさも当然のように僕と同じ麻の深衣に着替えた姿で、隣立って歩いていた。
「お前もしつこいな。僕は考え事があるんだ。黙っていてくれ」
「考え事とは一体何ですか?」
「……今は防人の町の事を考えている」
「お兄さまは悪くありませんよ」
「そんな慰めなど聞きたくはない。僕は、間接的にとは言え、考えなしに行動して町を一つ滅ぼしてしまった」
「確かにそれはその通りかも知れません。でも放っておいても、いずれはどちらかの町が滅んでいたでしょう。それも長い戦争の後に……です。どちらかが士気が下がった状態で、一方的に、一夜で滅んだ方が、結果的には被害が少なくて良かったのではないでしょうか? 私はそう思います」
「陶華のような考え方をするのだな、お前は」
「あんな女と一緒にしないでください!」
里里は心外といった感じで顔を顰めた。
――こいつはどうやら僕に好意を持っていて、陶華に嫉妬しているように思える。
ただの幻覚だというのに、一体どういう事なのだろうか。考えられるのはただ一つ。
……僕の無意識は自己愛に塗れているという事だ。
そう思うと、自分の情けなさに僕の憂鬱は増すばかりだった。
「どうかそんなに落ち込まないでください。お兄さま」
「お前に何を言われても虚しいだけだ。慰めるのは止めてくれ」
「確かに私はお兄さまの幻覚かも知れません。それでも、お兄さまの眼前には、確かに居るのです。あの女の肩を持つ訳ではありませんが……眼前の事を、今の事をもっと重視なさってもよろしいのではないでしょうか?」
里里が、僕の手にそっと触れた。
僕が握り返す気がないのに気付いて、すぐに手は引っ込んだが、里里の手の柔らかな感触は確かに感じられた。
「僕はやはり、そんな風に割り切れない。でも……割り切った方がいい事もあるというのは……分かる」
「どうせ、劾銅の事も思い悩んでおられるのでしょう?」
「劾銅も……思い込みは激しいが、根っからの悪人ではないのだと思う。世がまともで、魔族への恨みがなければ、もしかして僕の話を聞いてくれたかも知れない。何とか殺さなくていい方法もあった筈だ」
「無理でしょうね。時には諦めることも肝要です」
自分でも、里里がそう返すのは分かっていた気がする。
僕はそれを分かっていて、劾銅を殺したくない等と、白々しい事を言ってのけたのだ。
やはり僕は、自己愛に塗れた情けない偽善者に過ぎないのだろうか。
「自分を責めてばかりでも何も始まりませんよ。理由を考えましょう」
そうだ……理由だ。
僕が魔帝の儀を投げ出したのも、理由が知りたかったからだ。
「何故、魔帝の儀なんて物が行われるのだろうか……。僕は一体何の為に死ななければならなかったのだろうか……」
「その理由を知って何になるのですか?」
「当然、魔帝の儀が世の為に必要ならば、陶華を何とか説得してやり直すだけだ」
「何故、そうまでして世の為に尽くさないといけないのですか?」
「僕が魔帝として生まれついたからだ」
「何故、魔帝として生まれついたら、世の為に尽くさなければならないのですか?」
「……お前は僕をからかっているのか」
「違いますよ。疑問をどこまでも突き詰めていけば、やがてあらゆる物事は不安定でぼやけた存在になってしまう恐れがある、という事を言っているのです」
――なるほど。確かにそれはそうかも知れない。
僕は思わず里里の方を向いた。
「疑問をどこかで止め、地に足を付けなければ、何も為せないまま終わる。お前はそう言いたいのか」
「そうです」
「それでも、僕は魔帝として、世をより良くする為にも物事の理由を考え、疑問を持ち続けなければならないのも確かだ」
暫くの沈黙の後、里里は僕に優しく微笑みかけた。
「辛いお立場ですね。でもそれはきっと、お兄さまにしか出来ない大切な役割なのでしょう」
「お前には……里里には少し強く当たってしまったな。……すまなかった」
「いえ、お気になさらず。私はいつでも、お兄さまを見守っています」
里里はそう言うと、忽然と消えてしまった。それは文字通り、瞬く間の事であった。




