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第八話 侯爵の素振りに、つい口を出す

 その朝、畑へ向かう途中で俺は足を止めた。


 中庭で、アイゼンが、一人剣を振っていた。


 夜明け前の薄暗い時刻だ。人払いをしているのか、周りに従者の姿はない。上着を脱ぎ、白いシャツ一枚で黙々と素振りを繰り返している。白い息が薄闇に溶けていく。その動きを見て、俺は思わず見入った。


 強い。


 素人目にもそれははっきりとわかった。無駄のない太刀筋、踏み込みの鋭さ、一振りごとに、空気が裂ける低い音。これが長く国境を守ってきた男の剣か、と納得させられる迫力があった。地味で無害なモブという俺の見立てが、この一点だけは危うく揺らぎそうになる。


 だが。


 しばらく見ているうちに、俺の目は一つの引っかかりを捉えた。


 前世で、俺は学生の頃、剣道をやっていた。強くはなかった。地区大会で一回戦を勝てれば、御の字。そういう平凡な腕前だ。だが、小学校から大学まで、十年以上それだけは続けた。要領が良いわけでも才能があるわけでもない俺が、唯一、最後まで投げ出さなかったもの。誰に褒められるでもなく、ただ黙々と竹刀を振り続けた日々。


 思えば、あれが、俺の人生の縮図のようなものだった。要領よく立ち回ることも、誰かに上手く取り入ることもできず、ただ目の前のことを黙って積み上げる。それしか、やり方を知らなかった。剣も、仕事も、同じだ。報われたかどうかは別として。


 強くはなれなかった。だが、長く続けたぶん、「型」の良し悪しを見る目だけは、いつのまにか、身についていた。


 その目に、アイゼンの剣はこう映った。強い、鋭い、だが――振り下ろしたあとの、戻りがわずかに遅い。一瞬、体勢が伸びきって隙ができている。本人は気づいていないだろう。並の相手なら、その隙を突く前に斬り伏せてしまうからだ。だが、実戦で相手が一枚上手だったら。あるいは、二人いたら。そこを突かれる。


 わかってしまうと、口が、勝手に動いていた。


 「……振り終わりの、後ろが甘いです」


 言ってから、しまったと思った。だが、もう遅い。


 アイゼンの剣が、ぴたりと止まった。


 ゆっくりと、こちらを振り返る。その目に、初めてはっきりとした警戒の色があった。当然だ。剣について――しかも「国境の盾」とまで呼ばれる男の剣について、剣を握ったこともなさそうな貴族令嬢が、口を挟む。無礼にもほどがある。


 いつの間にか、物音に気づいた従者が一人、庭の隅に控えていた。その顔が、はっきりと凍りついている。今すぐ平伏して詫びるべき場面だ、とでも言いたげにこちらへ目配せを送ってくる。


 だが、出てしまった言葉は戻らない。中途半端に引っ込めれば、ただの世迷い言になる。ならば、最後まで筋を通すしかない。


 俺は、覚悟を決めて、続けた。


 「差し出がましいのは承知しています。ですが――振り下ろしたあと、体が一瞬、伸びきっています。軸足に重心が残りすぎている。そのぶん、次の構えに戻るのがほんの少しだけ遅れます。一対一で相手が格下なら、何の問題もありません。ですが、もし、相手が二人いたら。あるいは、最初の一撃を捌かれて踏み込まれたら。その一瞬の隙を突かれます」


 アイゼンは無言だった。


 俺を見据えたまま、しばらく何も言わない。長い長い沈黙だった。従者が、生きた心地もしない顔で、主と婚約者を交互に見比べている。


 やがて、アイゼンは、ふいに、剣を構え直した。


 そして、もう一度素振りをした。今度は、俺の言った通りに――振り下ろしたあと、すぐに重心を戻し、淀みなく次の構えへと繋げる。一度、二度、三度。


 その動きが、目に見えて滑らかになっていった。


 アイゼン自身が、誰よりもそれを感じ取ったはずだ。剣を止め、彼は自分の手と、足元とを確かめるように見下ろした。長年、自分の体に染みついていた癖。それを、たった今、見ず知らずの令嬢に一言で言い当てられた。その事実を、噛みしめるような沈黙だった。


 庭の隅の従者は、もう、平伏を促すどころではなくなっていた。主が令嬢の指摘を、黙って受け入れ、その通りに動いている。叱責でも、追放でもなく。その光景を、ただ、信じられないという顔で見つめていた。


 それから、ゆっくりと、俺に視線を戻す。


 「……お前、何者だ」


 その声に最初の警戒は、もうなかった。代わりにあったのは、半ば呆れ半ば面白がるような奇妙な響きだった。


 来たと俺は思った。


 いちばん答えに困る質問だ。本当のことなど、言えるはずもない。前世で剣道をやっていました――などと口にすれば、今度こそ頭の箍が外れたと思われる。修道院どころか、塔の上にでも幽閉されかねない。


 俺は、肩をすくめてはぐらかした。


 「さあ。昔、どこかで見聞きしたことがあるだけです。剣のことは、本当はよくわかりません」


 「……見聞き、だと」


 「ええ。耳学問です。打ち込みの一つもできない口だけの素人ですよ」


 それは、半分は本当だった。


 この体は、剣の心得などまるでない。型を覚えているのは頭だけで、ラヴィニアの細腕では、木刀一本まともに振り切れないだろう。見えるのにできない。知っているのに体がついてこない。前世の記憶と今世の肉体の、ちぐはぐな同居。試しに、いつか一度素振りでもしてみるか――と考えて、すぐにやめた。みっともない姿を晒すだけだ。我ながら厄介な状態だった。


 アイゼンはしばらく俺の顔を見ていたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、ぽつりとこう漏らした。


 「妙な女だ」


 だが、その四文字には棘がなかった。むしろ、これまでで一番、何かを面白がっているような響きが混じっていた。


 俺は「よく言われます」と返した。実際、この屋敷に来てから、もう何度似たようなことを言われたか数える気にもならない。


 その日以来、アイゼンは朝の鍛錬から俺を追い払わなくなった。


 追い払わないどころか、ひと振りを終えるたびに、時折、こちらをちらりと見るようになった。どうだと問うように。俺は見えたことがあれば、遠慮なく口にした。肘の角度、踏み込みの深さ、視線の置き方。耳学問の素人が国境の盾に剣の講釈をする――字面だけ見れば滑稽きわまりない光景だ。


 だが、アイゼンは決して嫌な顔をしなかった。それどころか、俺の指摘を一つひとつ律儀に試した。そして、良くなれば、ほんのわずかに頷いた。


 不思議な時間だった。言葉はほとんど交わさない。俺が短く指摘し、アイゼンが黙って試し、わずかに頷く。それだけの淡々としたやり取り。だが、その無言の往復のなかに、最初の頃の刃のような緊張はもうなかった。氷が溶けるという言葉があるが――溶けるのではなく、少しずつ薄くなっていく。そんな感じだった。


 一度だけ、アイゼンが自分から訊いてきたことがあった。


 「二人を同時に相手取るときは。どう動く」


 国境で幾度も修羅場をくぐってきた男の問いだ。俺の耳学問など、本来、出る幕ではない。だが、型の理屈なら答えられた。


 「一人を、もう一人の盾にすることです。二人を、一直線上に置くように動く。そうすれば、相手は一度に一人としか斬り結べません。前世の――いえ、昔聞いた受け売りですが」


 危うく口が滑りかけた。アイゼンの眉がぴくりと動く。だが、彼は何も言わず、ただ、その理屈を頭の中で組み立てるようにしばらく宙を見ていた。


 ある朝、ふと、彼が言った。


 「お前は人をよく見ている」


 剣の話のはずが、なぜか、それは剣だけの話に聞こえなかった。


 「……職業柄、でしょうか」と俺は曖昧に答えた。前世で、人の顔色と段取りばかり読んで生きてきた、とは言えない。


 「職業」アイゼンはわずかに眉を寄せた。「令嬢に、何の職業がある」


 しまった、と思ったが、彼はそれ以上突っ込んではこなかった。ただ、その問いを、胸の内にしまったような顔をしていた。この男は何も見逃していない。そのくせ、性急に暴き立てもしない。厄介な相手だ、と改めて思う。


 後日、マリアンヌがこっそり俺に耳打ちした。


 「お嬢様。侯爵様が、執務室で独り言を仰っていたそうですよ。『あの女は、いったい何を見ているんだ』って。お側仕えの方がたいそう驚いていらしたとか」


 俺のことを考えていたらしい。


 それが、警戒なのか、興味なのか、それとも別の何かなのか――そこまではわからなかった。わからなかったが、悪い気はしなかった。


 もっとも、考えても答えの出ないことだ。それに、人の心の機微を読むのは、昔から得意なほうではなかった。前世でも、そのせいでずいぶん損をしてきた気がする。


 まあいい。剣の腕が上がって困る婚約者は、どこにもいないだろう。俺はその朝も、鍬を担いで畑へと向かった。

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