第九話 「屋敷の空気が、悪くない」
異変に気づいたのはある朝のことだった。
俺が食堂に下りていくと、給仕の侍女がきびきびとした動作で歩み寄り、よく通る声でこう言った。
「奥様。本日の献立三品。所要半刻。ご質問は」
……何だ、その喋り方は。
まるで、報告書を読み上げるような簡潔きわまりない物言い。貴族の屋敷の侍女が使う、あの過剰に丁寧でへりくだった言葉遣いとは、似ても似つかない。
戸惑っていると、別の侍女も同じ調子で通り過ぎていった。無駄のない足取り。要点だけの言葉。心なしか背筋もぴんと伸びている。
まるで、屋敷じゅうの侍女が、一夜にして、できる秘書か何かに変わってしまったかのようだった。悪いことではない。仕事は、明らかに速くなっている。だが、この統制の取れすぎた光景には、どこか薄ら寒いものがあった。何かの宗教めいた気配すら、漂っている。
嫌な予感がして俺はマリアンヌを呼んだ。
「マリアンヌ。最近、侍女たちの様子が変わっていないか」
すると、マリアンヌは待っていましたとばかりに、目を輝かせた。
「お気づきになりましたか! はい、皆で、お嬢様の所作をお手本にしているんです」
「……手本?」
「ええ! お嬢様の、あの無駄のない身のこなし。回りくどくないまっすぐな物言い。最初は、皆、驚いていたのですけれど――よくよく見ているうちに気づいたんです。あれこそ、洗練というものではないか、と」
俺は、言葉を失った。
「飾り立てるばかりが、上品ではない。無駄を削ぎ落とした、機能のための美しさ。お嬢様は新しい様式を、体現していらっしゃるんです。私たち勝手にそう呼んでいるんですよ。――『クロワ式』と」
クロワ式。
頭がくらりとした。
待ってくれ、と俺は思った。
俺のあの振る舞いは、洗練でも、新しい様式でも、断じてない。前世のサラリーマンの、染みついた癖だ。回りくどい言葉が面倒くさい。無駄な動作が効率を削ぐ。ただ、それだけのこと。生き延びるために目立たず、波風を立てず、地味に暮らそうとしていたはずの俺の挙動が、なぜか「洗練された新様式」として、侍女たちの間でもてはやされている。
しかも悪いことに。マリアンヌという娘は、思い込んだら止まらない性質らしかった。彼女は、俺の所作を一つ一つ「研究」して解釈を加え、それを侍女仲間に嬉々として広めていた。曰く「お辞儀は、深さより速さと正確さ」。曰く「お返事は一言で要点を」。曰く「歩くときは最短の動線を」。
しまいには、「クロワ式・所作十か条」なる覚書まで、侍女たちの間に出回っているという。マリアンヌが得意げにその一枚を見せてくれた。俺がまったく身に覚えのない「教え」が、十ももっともらしく並んでいる。第一条『無駄を恥じよ』。第三条『言葉は短く、芯を射よ』。第七条『飾りより、機能を尊べ』。
誰だこれを考えたのは。
……発案者の顔を見れば一目瞭然だった。隣でマリアンヌが、誇らしげに胸を張っている。
どれも、俺が一度も口にしていない「教え」だった。
「あの、マリアンヌ。これは、別に教えでも何でもなくて……」
「ご謙遜を!」マリアンヌはきらきらした目で、俺の言葉を遮った。「お嬢様は、いつもこうおっしゃっていますもの。『どうせなら、良いほうがいい』と。あれこそ、クロワ式の神髄です」
神髄でも何でもない。
俺はこめかみを押さえた。否定すればするほど、この娘は「謙虚なお嬢様」として、ますます感心するに違いなかった。何を言っても好意的に誤解される。これは、どうしようもない。
試しに、一度、はっきり言ってみたことがある。集まった侍女たちを前に「これは流行でも何でもなく、ただの私の癖です」と。すると、一人の若い侍女が、感極まった顔でこう言った。
「癖、とおっしゃるところが、もうお洒落ですわ……!」
駄目だ。何を言っても養分になる。俺は、その日、説得をきっぱり諦めた。
そして、事態は、屋敷の中だけでは収まらなかった。
侯爵邸に出入りする商人や近隣の使用人たちを通じて、「クロワ式」の噂はじわじわと外へ広がっていった。型破りな立ち居振る舞いをする、ライラック侯爵の婚約者。それが、いつのまにか、尾ひれを付けて王都の社交界にまで逆流して届いていたのだ。
マリアンヌがまた声を弾ませて報告してきた。
「お嬢様、すごいですわ。王都の若いご令嬢の間でも、お嬢様のお噂で持ちきりだそうですよ。『あのクロワ令嬢の型にはまらない生き方が素敵だ』『一度お会いしてみたい』と」
……目立たないように宮廷から離れたはずなのに。
俺は頭を抱えたくなった。当初の計画では、ひっそりと田舎に引っ込んで誰の記憶からも薄れていく――それが理想だった。それがどうだ。引っ込んだ先で勝手に新しい流行を生み出して、宮廷の注目を前より集めてしまっている。
あべこべだ。何かをするたびに裏目に出る。いや、裏目というより――俺の常識と、この世界の常識がずれているのだ。
ある晩、食卓で、アイゼンがぽつりと言った。
「……屋敷の空気が変わった」
手を止めて、彼を見る。
「使用人が、前よりよく動く。声が通るようになった。お前が来てから」
咎められるのかと一瞬身構えたが、そうではなかった。アイゼンはただ事実を確かめるように口にしただけだった。
「悪い変化、でしょうか」
「いや」彼は、短く首を振った。「……悪くない」
それきり、また黙って食事に戻る。だが、その横顔は、どこか、毒気を抜かれたようだった。凍りついていた屋敷の主その人が、この変化にいちばん戸惑っているのかもしれない。
その極めつけが一通の手紙だった。
ある日、王都から俺宛ての書状が届いた。差出人の名を見て、俺は手を止めた。
ステラ・メイズ。
いつぞや噂に聞いた、あの男爵令嬢。最近になって社交界に現れた可憐な娘。俺がひそかに「物語の主人公ではないか」と疑っている、その当人だった。
封を切る。中の文面は飾り気がありながらも、まっすぐな好意に満ちていた。お噂はかねがね伺っています。型にとらわれないあなた様の生き方に、心から憧れています。ぜひ、一度お目にかかりたい――。
俺は、手紙を持ったまましばし考え込んだ。
主人公に近づかない。それが、生存の鉄則だった。彼女に関われば断罪条件の一つ、「主人公への嫌がらせ」の引き金に、いつ触れるかわからない。本来なら、当たり障りのない理由をつけて丁重に断るべきだ。
断る口実ならいくらでも作れる。体調が優れない、屋敷の用事が立て込んでいる、嫁いだばかりでまだ落ち着かない。どれも、角の立たない無難な言い訳だ。
だが――手紙の文面には、敵意も、企みも、感じられなかった。ただ純粋な好奇心と憧れ。それだけだった。
それに、と俺は考え直した。下手に避け続ければ、かえって角が立つ。会って、当たり障りなく穏便に接して、それきり縁が深まらないようにする。そのほうが、よほど安全かもしれない。嫌がらせをしなければいいだけの話だ。むしろ、こちらが下手に出て友好的にしておけば、断罪の芽を最初から摘める。
考えてみれば、原作のラヴィニアが破滅したのは、主人公を敵視していじめ抜いたからだ。ならば、その正反対をやればいい。敵視せず、いじめず、いっそ味方になってしまえば「嫌がらせ」など起こりようがない。会って穏やかに接する。それは、避けるべきリスクではなく、むしろ、打っておくべき一手かもしれなかった。
もっとも、これも賭けだった。会ってみて、相手が本当に「主人公」だったとして、関わることで、かえって物語の歯車に近づいてしまう恐れもある。近づかないのが安全か、味方にするのが安全か。どちらが正解かは、会ってみなければわからない。
わからないなら――打てる手から打つ。いつもの流儀だった。
俺は、羽根ペンを取って返事をしたためた。
もちろん、いつもの調子で――要点だけの短い文面で。
会う約束を取りつけた。
返事を出したと告げると、マリアンヌはなぜか自分のことのように張り切って、当日の段取りを整えはじめた。茶葉はどれにするか、菓子は何を出すか、どの客間に通すか。俺にとっては、危険を見極めるための面談だったが、彼女にとっては、憧れの令嬢同士の晴れがましい対面だったらしい。
温度差が激しい。だが、まあいい。支度を任せられるのはありがたかった。
主人公との初めての対面。それが、吉と出るか凶と出るか。このときの俺には、まだわからなかった。




