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第十話 本来のヒロインに、椅子の話をする

 約束の日、ステラ・メイズは、約束の刻限きっかりに侯爵邸を訪れた。


 客間に通された彼女を一目見て、俺は内心で深く納得した。


 ああ、こいつだ。


 間違いない。こいつが、本来の物語の主役だ。


 淡い色の髪。大きな潤んだ瞳。庇護欲を誘う、儚げな佇まい。そのくせ、芯にはまっすぐな強さがある。仕立ての良くないドレスを、品良く着こなしている。男爵令嬢という身分の低さも、かえって「健気さ」として映る――どこからどう見ても、乙女ゲームのヒロインそのものだった。前世で横目に見た記憶の、おぼろげな主人公像が、目の前でくっきりと像を結んだ。


 不思議な感覚だった。名前も顔も思い出せなかったはずの「主人公」が、こうして本物として現れると、ゲームの記憶の断片が妙に生々しく蘇ってくる。ああ、そういえば、こんな娘だった気がする。健気で、まっすぐで、誰からも愛される――俺が、決して主人公にはなれなかった、その対極にいるような娘だった。


 俺は内心で身構えた。


 ここが正念場だ。この娘との関わり方をひとつ間違えれば、「主人公への嫌がらせ」という、断罪の引き金に直結する。原作のラヴィニアは、まさにこの娘をいじめ抜いて破滅した。


 だから、俺は決めていた。その正反対をやると。


 「ようこそ、いらっしゃいました。ラヴィニアです。遠いところをわざわざ」


 俺は、できる限り穏やかに彼女を迎えた。


 傍らでは、マリアンヌが憧れの対面に立ち会えたとあって、いつも以上にてきぱきと茶の支度を整えていた。淹れた茶を出す手つきまで、例の「クロワ式」とやらで、見事に無駄がない。ステラがその所作を目を丸くして見ている。


 「あの、こちらの侍女の方……とても、洗練されていらっしゃいますね」


 「……ええ、まあ」


 まさか、これが俺の悪癖の伝染だとは口が裂けても言えなかった。


 ステラは、最初、少し緊張しているようだった。


 無理もない。相手は社交界で「型破り」と噂される、公爵家出身の侯爵夫人(予定)だ。どんな気難しい令嬢かと、身構えていたのだろう。


 だが、向かい合っていくつか言葉を交わすうちに、彼女の強張りはみるみるほどけていった。俺が、噂のような高慢さも、貴族特有の遠回しな嫌味も、まったく見せなかったからだろう。要点をまっすぐに話す、飾らない。ステラは、その応対にすっかり毒気を抜かれたようだった。


 「あの……ラヴィニア様って」と、ステラはおずおずと切り出した。「噂と、全然違うんですね」


 「よく言われます」


 俺が真顔で返すと、ステラはぱっと顔をほころばせた。


 「もっと、こう……怖い方かと思っていました。でも、すごくお話ししやすいです。なんだか安心しました」


 屈託のない笑顔だった。敵意も、計算も、そこにはかけらもない。


 この娘は根っから善良なのだ、と俺は思った。物語の主人公に選ばれるだけのことは、ある。


 同時に、俺はほっとしてもいた。これだけ素直な相手なら、敵対する理由がそもそも生まれない。穏やかに接するという方針は無理なく続けられそうだった。身構えていたぶん、拍子抜けするほどだ。


 話すうちに、俺は、ステラが何か心に抱えていることに気づいた。


 水を向けると、彼女はぽつりぽつりと打ち明けはじめた。


 最近、社交界に出るようになったが、どうもうまくいかない。声をかけてくれる人も少なく、輪に入れない。特に――と、彼女は言いにくそうに続けた。本当は淡い期待を抱いていた相手が、何人かいたのだという。だが、その誰もが、自分になどまるで関心を示してくれない。王宮で見かけたあの高名な方々は、自分が挨拶をしても、上の空ですぐに離れていってしまう、と。


 「私が何か、いけないことをしてしまったのかと、ずっと考えていて」と、ステラは、伏し目がちに言った。「でも、何が悪いのかわからなくて。皆さま、私のことなんて初めから見えていないみたいに……」


 その横顔に、自分を責めるような暗い影が差していた。健気な娘ほど、うまくいかない理由を自分のせいだと抱え込む。見ていていたたまれないほど、まっすぐな娘だった。


 俺は内心で息を呑んだ。


 攻略対象たちだ。


 本来の物語なら、ステラは社交界デビューを機に、彼らと次々に出会い、心を通わせていくはずだった。王太子、騎士団長、宮廷魔術師。誰もがこの健気な主人公に惹かれ、恋に落ちていく――それが敷かれたレールだった。


 だが、そのレールが動いていない。


 なぜか。理由は考えるまでもなかった。


 俺だ。


 俺が悪役令嬢ラヴィニアを、舞台から下ろしてしまったからだ。王太子の婚約者候補だったラヴィニアが宮廷から消え、別の男に嫁いだ。物語の中心にあったはずの歯車が、丸ごと一つ外れた。そのせいで、繋がるはずだった他の歯車まで、噛み合わなくなっている。主人公がいつまで経っても物語の入口に立てずにいる。


 皮肉な話だった。原作のラヴィニアは嫉妬に狂って主人公を攻撃し、それが破滅を招いた。だが、俺がやったのはその逆――舞台から静かに降りただけだ。誰も傷つけていない。攻撃も、妨害も、していない。ただ、自分が消えただけ。なのにその結果、主人公の物語そのものが止まってしまっている。


 何もしないことが、誰かの何かをこんなふうに狂わせることもあるのか。


 では、元に戻すべきなのか。俺が宮廷に戻り、ラヴィニアの役を演じ直せば物語のレールは、また動き出すのかもしれない。だが――それはできない。俺が舞台に戻れば、待っているのは処刑エンドだ。この娘の幸福のために、自分の首を差し出す義理はさすがにない。


 それに、と思う。レールに戻すことが本当にこの娘の幸福なのかどうかも、俺にはわからなかった。


 俺は、目の前の少女を見た。


 悪いことをしたな、と思った。


 半分は罪悪感だった。俺が自分の命を守るために動いた結果、この善良な娘の人生から、用意されていた幸福の道筋を奪ってしまったのかもしれない。


 だが、もう半分は――奇妙な親近感だった。


 筋書きの外に放り出された者同士。決められたレールから外れてしまった者同士。俺は転生という事故で、こいつは俺のせいで。立っている場所は違うが、地図のない場所を手探りで歩いている点では、似たようなものだった。


 「ステラさん」と、俺は声をかけた。


 気づけば、当たり障りなく受け流す、という当初の方針を、俺は半ば忘れていた。


 「人に好かれようと、無理に背伸びをすることはないと思いますよ」


 ステラが、きょとんと顔を上げた。


 「あなたは、あなたのままで、十分に魅力的です。誰かに振り向いてもらうために生きるより、自分が立てる場所を自分で見つけたほうがいい。そのほうが、ずっと強い」


 「でも……私には、何もありません。家も裕福ではありませんし、取り柄もこれといって」


 「取り柄なんて、後からついてきます。それより、誰かの隣の席を探すのをやめて、自分の椅子を一つ持つこと。話はそれからです」


 前世の、誰にも頼らず生きてきた俺の、半ば実感のこもった言葉だった。


 誰かの物語の脇役として用意された幸福より、自分の足で立つ人生のほうがよほど確かだ――それは、ラヴィニアという「役」を生きるのをやめた俺自身が、選んだ道でもあった。


 ステラは、しばらくぽかんとしていた。それから、何かに撃たれたように瞳を揺らした。


 「……そんなふうに、言ってくださった方は初めてです」


 声が、少し震えていた。


 その日、ステラ・メイズは、すっかり俺に懐いて帰っていった。また会いに来てもいいか、と何度も念を押して。俺は苦笑しながら頷いた。


 見送りに出ると、ステラは門のところで、もう一度振り返って深々と頭を下げた。来たときより、いくらか背筋が伸びているように見えた。たった一度の茶会で、人が変わるわけもない。だが、何かのきっかけくらいにはなったのかもしれない。


 主人公を味方にしてしまった。


 断罪を避けるための計算ずくの一手――のはずが、いつのまにか、計算などどこかへ行っていた。


 俺はその日の自分の振る舞いを思い返して、少しだけ頭を抱えた。どうも、この体に入ってから、俺は放っておけない性分に磨きがかかっている気がする。


 まあいい。敵が一人減って、味方が一人増えた。悪い取引ではないはずだ。


 そう思うことにした。


 ただ、一つだけ。


 筋書きから外れたあの娘が、これから自分の足でどんな場所にたどり着くのか。それを、少しだけ見届けたい気もした。俺が壊してしまった物語のその先を。


 柄にもないことを考えている、と苦笑して俺は窓を閉めた。

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