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第十一話 雨の夜の「お前は、何者だ」

 その諍いは、屋敷にまで持ち込まれてきた。


 領内の二つの村の水争いだった。


 その年は雨が少なかった。一本の用水路を分け合う上流の村と下流の村が、乏しい水をめぐって睨み合っていた。上流の村が水を引きすぎる、下流の村の作物が枯れかけている。双方の代表が屋敷の広間で、今にも掴みかからんばかりに声を荒げていた。


 上流の村長は、年老いた頑固そうな男だった。下流の代表は、まだ若く血気盛んで今にも食ってかかりそうだ。互いに相手を罵り、自分たちの正当を声高に主張する。聞いていると、どちらの言い分にも理はあった。上流は、先に水路を引いた古い権利を盾に取る。下流は、このままでは村が干上がると訴える。譲れば自分たちの村が立ち行かない。双方とも、そう信じて一歩も引かない。


 その裁定を下すのは、領主であるアイゼンの務めだった。


 俺は、たまたまその場に居合わせた。畑の相談でヘルマンと領内を回った帰りだ。広間の隅に控えて、成り行きを黙って見ていた。


 本当は、関わるつもりなどなかった。領地の揉め事は領主の領分だ。婚約者とはいえ、まだ正式に嫁いだわけでもない俺が、口を出す筋合いではない。目立たず、波風を立てず――その方針は、まだ、いちおう生きているつもりだった。


 だから、最初はただ見ていた、のだが。


 アイゼンの裁きは公正だった。水路を使う時間を両村できっちり半分に区切る。違反すれば罰を科す。理屈は通っている。文句のつけようのない明快な裁定だった。


 だが、明快さと納得は別物だ。理屈で割り切れる裁定ほど、当事者の腹は収まらないことがある。彼らが本当に欲しいのは、「公平な半分」ではなく「枯れない作物」だからだ。半分の水で作物が枯れるなら、公平に枯れるだけのこと。それでは、何も解決していない。


 だが――それでは、収まらない。俺にはそれが見えていた。


 案の定、両村の代表は不服そうだった。半分では足りない、と上流が言う。半分もらっても、引く頃には水が涸れている、と下流が言う。どう分けたところで、そもそもの水が足りないのだ。分配をどう変えても誰かが渇く。アイゼンの裁定は限られたものを、公平に「分ける」もの。だが、この諍いの根は分け方ではなかった。


 俺は、つい口を開いてしまった。


 「――失礼します。一つよろしいでしょうか」


 広間の視線が一斉にこちらを向いた。アイゼンがわずかに眉を上げる。だが、止めはしなかった。続けろというように、小さく顎を引いた。


 俺は二つの村の代表に向き直った。


 「一つ教えてください。お二人の村は、水をいつ引きますか。朝ですか、昼ですか」


 唐突な問いに、代表たちは戸惑いながらも答えた。どちらも朝だ、と言う。日が高くなる前、作物が水を吸う時間に引きたい。当然の答えだった。そして、その答えの中に解きほぐす糸口がはっきりと見えた。


 「水が足りないのは、分け方のせいではありません。引く時間が重なっているからです。お二人とも作物がいちばん水を欲しがる、朝のうちに一斉に引こうとする。だからぶつかる」


 代表たちが顔を見合わせた。


 「上流は朝、下流は夕、と時間をずらしてはどうですか。夕方に引いた水を夜のうちに溜めておく、小さな溜め池を下流に作る。土地の高低を考えれば、水路の途中に堰を一つ足すだけでできるはずです」


 「だが、それには、人手も銭もかかる」と、下流の代表が渋い顔をした。


 「その費えは、侯爵家が出します」と、俺は言い切った。広間がざわついた。


 「ただし、出すのではなく貸すのです。溜め池ができれば下流の収穫は戻る。痩せ年でも作物が枯れない。増えた収穫から数年かけて、少しずつ返してもらえばいい。侯爵家にとっても、領が痩せて年貢が減るよりよほど得な話です。誰も損をしません」


 上流の村長が探るように言った。「……上流のわしらには何の得がある。時間をずらすだけで、面倒が増えるだけだ」


 「上流の村も、いずれ水路の上の畑を広げたいはずです」、俺は返した。「水路を直して堰を作れば、上流の取り入れ口も安定します。今は雨任せで、年によって引ける水がばらつくでしょう。整えればそれがなくなる。それに――下流と争い続ければ、いずれ刃傷沙汰になる。村同士の遺恨は何代も尾を引きます。それより、貸し借りのない隣人でいるほうがよほど安い」


 村長は唸って黙り込んだ。反論の言葉を探しいるが見つからない顔だった。


 広間が静まり返った。


 奪い合うしかないと思っていた両村が、奪い合わずに済む道を、初めて目の前に示された。そういう顔だった。代表たちは、しばらく顔を見合わせ、それから、ぽつぽつと現実的な相談を始めた。堰をどこに作るか、人手をどう出し合うか。さっきまでの剣呑な空気が、嘘のように解けていく。


 前世で、何度も繰り返した手順だった。対立する二者がいて、限られたものを奪い合っている。そういうとき、勝ち負けを裁くのは下策だ。裁けば、負けたほうに必ず遺恨が残る。やるべきは、奪い合いの前提そのものを組み替えること。配り方ではなく全体の量を増やす。そうすれば、誰も負けずに済む。商談でも、社内の揉め事でも、理屈は同じだった。


 もっとも、口で言うほど簡単な話ではない。全体の量を増やす道が、いつもあるとは限らない。今回は、たまたま溜め池という打ち手があった。運も味方した。だが、少なくとも、最初から「どちらが正しいか」だけを考えていたら、この答えにはたどり着けなかっただろう。


 話がまとまり、代表たちが晴れやかな顔で引き上げていく。


 広間に、俺とアイゼンだけが残された。


 アイゼンは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、じっと、俺を見ていた。これまでの観察するような目とは違う。何か、確信に至ったような静かな目だった。


 「……お前は」と、彼はゆっくりと口を開いた。「あの裁き、俺は思いつかなかった。俺は公平に分けることばかり考えていた」


 「公正な裁きでした。間違ってはいません」


 「だが、お前は争いそのものを消した」アイゼンは首を振った。「分けるのではなく増やす。……どこで、そんな考え方を覚えた」


 答えに詰まる。前世で、と言えるはずもない。


 俺が黙っていると、アイゼンは広間を横切ってすぐ近くまで来た。そして、まっすぐに、俺の目を覗き込んだ。


 逃げ場のない、距離だった。


 「ラヴィニア」と、彼は静かに、しかし、これまでにない真剣さで言った。「お前は、いったい何者だ」


 あの剣の朝に投げられた、半ば呆れたような問いとは違う。本気の問いだった。畑を耕し、厨房を変え、剣の型を見抜き、領地の諍いを、一手で解いてみせる。貴族令嬢の皮を被った得体の知れない何か――この男は今、その正体を本気で知ろうとしていた。


 俺は彼の目を見返した。


 はぐらかすこともできた。いつものように、耳学問ですと笑って流すことも。


 だが、このまっすぐな問いに、いつものはぐらかしを返すのは――なぜか、ひどく不誠実なことに思えた。この男は、嘘の匂いを嫌う。そして俺も、この男にはできるだけ嘘をつきたくなかった。


 いつからだろう。この男に対してだけは、取り繕うことが妙に億劫になっている。畑も、厨房も、剣も――この屋敷で過ごした日々が、知らぬ間に俺とこの男のあいだから、余計な駆け引きを削ぎ落としていた。仕事仲間とでも言うのか。立場も、目的も違うのに、同じ問題を前にすると、不思議と呼吸が合う。さっきの広間でもそうだった。アイゼンが裁定を下し、俺がその穴を埋める。まるで長年連れ添った相棒のように。


 俺は少しだけ迷った。


 どこまで話すべきか。何を明かせるのか。


 その答えを口にするには――もう少しだけ時間が必要だった。


 俺の沈黙をアイゼンは急かさなかった。ただ、待っていた。答えを辛抱強く。その静かな眼差しに、俺は半ば観念した。


 次に会うときには話そう。この男になら、少しくらいは明かしてもいい。そう思える相手が、まさか、生き延びるために選んだ契約相手になるとは――転生してきた当初の俺には、想像もつかなかった。


 窓の外では、長く続いた痩せ年の空に、ようやく、雨の匂いが混じりはじめていた。


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