第十二話 誤魔化さない、という誤魔化し方
あの問いの答えを、俺は数日のあいだ宙ぶらりんにしていた。
アイゼンは急かさなかった。あの日、広間で「お前は何者だ」と問うておきながら、その後は何事もなかったように、いつもの淡々とした日々が続いた。食卓で向かい合い、朝の鍛錬で型を見て、領地の帳簿を二人で覗き込む。問いは忘れられたわけではない。ただ、答えが熟すのを待たれている。そういう、静かな猶予だった。
性急に暴き立てない。この男の、そういうところを、俺はもう知っていた。
だが、猶予は楽ではなかった。
この数日、俺は、頭の隅でずっと答えを探していた。畑を耕しながら、帳簿をめくりながら、何度も言葉を組んでは崩した。本当のことを、どこまで削れば口に出せる形になるのか。嘘にならず、かといって正気を疑われもしない、その狭い隙間を探し続けた。
簡単な仕事ではなかった。前世で、込み入った案件の落としどころを探るのに似ていた。譲れない一線と、明かせる範囲。その境目を慎重に見極める。違うのはこれが商談ではなく、自分という人間のいちばん奥の話だ、ということだった。
だから、俺のほうから切り出した。
ある夜、執務室で領地の書類を片づけ終えたあとだった。蝋燭の灯りが二人のあいだに、小さな島を作っている。
雨が降っていた。痩せ年を終わらせる長い雨だ。窓の外で、絶え間なく雨音が続いている。屋敷は寝静まり、起きているのは、たぶん、この部屋の二人きりだった。打ち明け話をするには、悪くない夜だった。俺はペンを置いて口を開いた。
「この前の問いの答えですが」
アイゼンが顔を上げた。
「ずっと考えていました。どうお答えするのが、いいのか」
正直に言えば、答えなど決まりようがなかった。
本当のことは言えない。前世の記憶があるとも、この世界が物語だと知っているとも、自分が処刑される未来を覆そうとしているとも――どれ一つ口にできない。言えば、頭がおかしくなったと思われるか、もっと悪ければ化け物として扱われる。化け物と言われるだけならまだいい。最悪の場合、こいつは何かに憑かれていると判断されて、教会の地下にでも放り込まれかねない。この世界の常識を、俺はまだ完全には掴みきれていない。迂闊なことは口にできなかった。
かといって、嘘もつきたくなかった。この男に対してだけは。嘘の匂いを嫌うこの男に、出まかせを並べるのは、これまで築いてきた何かを自分の手で汚すような気がした。
だから、俺が選んだのは、その中間だった。
「私は……少し、変わった人間だと思います」
言葉を、選びながら、続ける。
「事情があって、人とは少し違うものの見方をします。それを、うまく説明する言葉を、私は持っていません。話しても、きっと信じてもらえない。だから――今は、これだけしか言えません。隠していることがあるのは、本当です。ですが、お話ししたことに嘘は一つもありません」
言い終えて、俺は息を詰めた。
苦しい答えだった。何も明かしていないのに、誤魔化してもいない。隠していると認めながら、その中身は伏せている。こんな答えで納得するはずがない。追及されれば、もう、返す言葉はなかった。
覚悟して、次の問いを待った。隠していることとは何だ、なぜ言えない、事情とは。――そう畳みかけられたら、俺は黙り込むしかない。沈黙は、時にどんな嘘より雄弁だ。この鋭い男に、それを読まれるのは避けたかった。
だが、その問いは来なかった。
アイゼンは、しばらく黙って俺を見ていた。
探るような目だった。俺の言葉のどこかに綻びがないか。嘘の匂いが混じっていないか。それを確かめるような。
長い沈黙のあと、彼はふっと息を吐いた。
「……妙な答えだ」
「ええ。自分でもそう思います」
「だが」と、アイゼンは続けた。「お前は嘘をつかなかったな」
その声に、咎める色はなかった。むしろ、奇妙な得心が滲んでいた。
考えてみればおかしな話だった。誤魔化されているはずなのに、信用される。隠し事を認めた相手を、なぜかより信じる。普通なら逆だろう。
だが、アイゼンにはそれが通じた。
「人は」と、彼はぽつりと言った。「隠し事を隠すために、嘘を重ねる。心にもない言葉で、もっともらしい筋書きを作り上げる。……俺は、そういうものを、嫌というほど見てきた。だからわかる。お前のそれは、それとは違う」
その言葉の奥に、深い翳りがあった。心にもない言葉。もっともらしい筋書き。まるで、過去にそういうものに、痛い目を見せられた者のような――そんな響きだった。
俺はその翳りには触れなかった。触れれば、また貝のように口を閉じるだろう。代わりに、自分のほうからもう一歩だけ、誠実さを示すことにした。
「お話しできる日が、来るかもしれません」と、俺は言った。「今すぐは無理です。でも――いつか、閣下になら話せる気がします。そのときは聞いていただけますか」
アイゼンは少し驚いたように俺を見た。それから、ゆっくりと頷いた。
「……気が向いたら、でいい」
不器用な、しかし、確かな受容だった。
不思議な男だと改めて思う。普通、隠し事を認められたら、人は不信を募らせる。何を隠している、信用できないと。だが、この男は逆だった。隠していると正直に言う相手のほうを、巧みに取り繕う相手より信じる。よほど上手な嘘に裏切られてきたのだろう。そう考えると、その信じ方は、どこか痛々しくもあった。
俺は少し踏み込んでみた。
「閣下も変わっている、とよく言われるのですか」
ありふれた相槌のつもりだった。だが、アイゼンは視線を手元へ落とした。
「……ああ」と低く答える。「俺も、変わり者と言われ続けてきた。人を信じない。情を解さない。氷のようだと」
「閣下は冷たい方には見えませんが」と、俺は言った。
半分は世辞ではなく本心だった。冷たい人間が令嬢の家具移動を最後まで見届けたり、料理人の出汁を黙って味わったり、領民の諍いに夜更けまで頭を悩ませたりは、しない。
アイゼンは虚を突かれたように俺を見た。
「……お前は、本当に、妙なことを言う」
だが、その声は、まんざらでもなさそうだった。
氷公。
その二つ名の由来を、初めて、本人の口から聞いた気がした。世間は、彼を生まれつき冷たい男だと思っているのだろう。だが、今、目の前にいるのは、生まれつきの氷ではなかった。何かに凍らされた男だった。
その違いは大きかった。生まれつき冷たい人間など、本当はそういない。たいていの「冷たさ」は、後から着せられた鎧だ。傷つかないために、自分の周りに、厚い氷を張る。前世でも、そういう人間を何人か見てきた。たいてい、いちばん大切な、柔らかい部分を、誰かに踏みにじられた者だった。
この男も、きっとそうなのだろう。
「人を信じないのには」と、アイゼンは静かに続けた。「理由がある。……だが、それは、今夜の話ではない」
そこで、彼は言葉を切った。
過去の気配だけをその場に残して。
俺はそれ以上踏み込まなかった。語りたくないことを、無理に開かせる趣味はない。それに――この男が、いつか自分から話す気になったとき、ちゃんと聞ける場所に自分がいられたら。なぜかそう思った。
柄にもない感慨だった。生き延びるための契約相手。それ以上でも、以下でもないはずだった。なのに、いつのまにかこの男の凍った部分が気にかかっている。溶かしてやりたい、などと――そこまで、おこがましいことは思わない。ただ、放っておけない。例によって、いつもの悪い癖だ。
蝋燭の灯りが、揺れた。
答えにならない答えを交わしただけの夜だったが、奇妙なことに、二人のあいだの何かが、ほんの少し軽くなっていた。
俺は書類を片づけ、おやすみなさいと告げて、執務室を出た。
扉を閉める間際に振り返ると、アイゼンはまだ蝋燭の灯りの島の中で、一人、何かを考え込んでいた。その横顔を、なぜか、しばらく見ていたくなった。
胸の奥が、ほんの少し落ち着かない。何だろうこの感じは。畑を耕したあとの、心地よい疲れとも違う。誰かに何かを打ち明けられそうで、打ち明けられなかった夜の、宙ぶらりんな余韻のような。
……まあ、気のせいだろう。俺は、扉を閉めた。




