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第十三話 氷公が、氷になった理由

 その話をアイゼンが自分から切り出したのは、それから幾晩か過ぎた夜のことだった。


 また、執務室だった。雨は上がり、窓の外には久しぶりの月が出ていた。領地の書類は、もう片づいている。それなのに、アイゼンは席を立とうとしなかった。何か、言いあぐねるように、蝋燭の炎をじっと見つめている。


 俺は急かさずに待った。彼がいつか自分から話すなら、聞ける場所にいたい――そう思っていた。その「いつか」が来たのかもしれなかった。


 奇妙な確信があった。この男は、軽々しく過去を語る人間ではない。それを、俺に話そうとしている。それはたぶん、この数週間で積み上げてきた、言葉にならない何かの証のようなものだった。畑の土や、出汁の湯気や、朝の剣のひと振り。そういう、取るに足らない時間の積み重ねが、この寡黙な男の口を、ゆっくりと開かせようとしている。


 やがて、アイゼンは低い声で口を開いた。


 「……この前言ったな。人を信じないのには理由がある、と」


 「ええ」


 「聞くか」


 俺は、頷いた。


 「伺います」


 アイゼンが語ったのは、七年前の話だった。


 彼が二十一の頃。マレーナ・ド・セルヴァンという伯爵家の令嬢がいた。


 「美しい女だった」と、アイゼンは感情を排した声で言った。まるで、他人の話をするように。「聡明で、よく気がついて……俺の無愛想な物言いを面白がる、変わった女だった」


 その言い方に、俺はかすかな引っかかりを覚えた。だが、口は挟まなかった。


 マレーナは、アイゼンにまっすぐな好意を向けてきたという。氷公と呼ばれて誰からも遠巻きにされていた男に、臆さず近づき、笑いかけ、隣に座った。やがて二人は婚約の話まで進んだ。


 ライラック家は、代々、国境を守る武門の家だ。だが、それゆえに、宮廷では長く煙たがられてきた。王家に次ぐ武力を持つ家。いつ牙を剥くかわからぬ危うい家。そういう目で、見られ続けてきたのだという。アイゼン自身も無愛想な性分も手伝って、社交の場では、いつも一人だった。


 そんな彼にとって、まっすぐに近づいてきたマレーナは、たぶん、初めての例外だったのだろう。語り口の端々に、当時の戸惑うような幸福の名残が滲んでいた。だからこそ、その後の話が、いっそう重く響いた。


 「俺は」とアイゼンは続けた。「生まれて初めて、人に心を許しかけていた。この女の前でなら鎧を脱いでもいいと、そう思いかけていた」


 だが。


 ある夜、アイゼンは、偶然知ってしまった。マレーナが、ライラック家の軍事機密を——国境防衛の配置や、砦の抜け道といった、この家がもっとも秘すべきものを——探り、外へ流そうとしていたことを。


 誰の差し金だったのかは、今も、定かではない。ライラック家の武力を削ぎたい、宮廷の誰か。あるいは、国境の向こうの別の何か。マレーナは、露見すると同時に姿を消し、それきり行方は知れない。残ったのは、抜かれかけた機密の穴と、信じかけた心の行き場のない残骸だけだった。


 「最初から、あの女はそれが目的だった。俺に向けられた好意も、笑顔も、愛の言葉も……すべて、機密に近づくための演技だった。一分の隙もない完璧な演技だった。俺は最後まで見抜けなかった」


 俺はその「完璧な演技」という言葉に背筋が冷えた。嘘の匂いがしない――この男が、初めて会った日にそう呟いたのを思い出す。あの言葉の裏には、嘘を嗅ぎ分けられなかった過去が貼りついていたのだ。匂いひとつ残さない嘘に、一度、致命的に騙された。だから今、必死で嘘を嗅ごうとしている。そういうことだったのか。


 俺は言葉を失った。


 「気づいたのは、婚約のほんの数日前だ」と、アイゼンは言った。「間に合った。家は守った、機密は漏れなかった。……だが」


 そこで、彼は初めて言葉を詰まらせた。


 「俺は、自分が信じられなくなった。人の本心を見抜く目が自分にはない。心を許せば、また同じように裏切られる。……それ以来だ。俺が誰も信じなくなったのは」


 月明かりの中のその横顔は、どこまでも静かだった。だが、その静けさがかえって、深い傷の存在を物語っていた。七年。長い時間、この男はその傷を誰にも見せず、ただ一人で抱え続けてきたのだ。氷公という鎧を着て。


 ふと思い出した。初めてこの屋敷を訪れたとき、応接間の壁に人物画が一枚もなかった。家族の肖像も、誰の顔も、飾られていなかった。あれは、たぶん、偶然ではなかったのだ。人を部屋に飾らない男。人を心に入れない男。その理由が、今、ようやく腑に落ちた。


 俺はなんと言葉をかけていいかわからなかった。安易な慰めは、この男には似合わない。だから、ただ、黙って聞いていた。聞くことしかできなかった。


 長い沈黙のあと、アイゼンは、ふいに俺へと顔を向けた。


 「だから、わかるか」と彼は言った。「なぜ、俺がお前を信用するのか」


 「……私を?」


 「お前は、最初から損得を隠さなかった」アイゼンの声に奇妙な熱がこもっていた。「婚約を申し込みに来たあの日。お前は、家格だ、領地だ、不干渉だと、利を並べた。恋でもない、情でもない、ただの契約だと、言い切った。……普通の女なら、心にもない好意を口にする。だが、お前は、それをしなかった」


 あの日のことか、と俺は思い出した。確かに、俺はひたすら損得を並べた。それが、いちばん通りやすいと思ったからだ。打算でしかなかった。


 皮肉なものだと思う。俺が損得を並べたのは、生き延びるための方便だった。深い考えなどなかった。なのに、その打算がこの男の七年来の傷に、ちょうど噛み合ってしまった。嘘をつかない、というその一点だけで、俺は図らずも、あの女の対極に立っていたのだ。


 「お前は、あの女の正反対だ」と、アイゼンは言った。「嘘の好意で、あの女は本心を隠した。お前は本心の損得で嘘をつかない。……俺には、お前のような女がいちばん信用できる」


 それは、世辞でも、口説き文句でもなかった。


 長く凍っていた男が、ようやく見つけた信じてもいい相手。その確信を、不器用にまっすぐ差し出した——そういう言葉だった。


 その重さに、俺はすぐには応えられなかった。信用すると言われた。よりにもよって、隠し事だらけのこの俺が。後ろめたさと、面映ゆさと、それから、うまく名づけられない別の何かが、胸の中で入り混じる。


 「……光栄です」と、辛うじてそれだけ返した。気の利いた言葉なんて出てこなかった。


 その信頼を受け止めた瞬間。


 俺の胸の奥で、何かが、とくん、と鳴った。


 ……ん?


 俺は、自分の胸に軽く手を当てた。


 なんだ、今の。


 心臓の妙な動き。鼓動がわずかに速い。顔のあたりが、なぜか、少し熱い気がする。


 異常だ。これは何かの不調か。


 俺は、真剣に原因を探った。今日、何か変なものを食ったか。いや、昼の煮込みはベルントの会心の出来だった。働きすぎか。確かに、畑と帳簿で根を詰めてはいる。


 ……ああ。


 なるほど。


 たぶん、胃もたれだ。


 そうに違いない。最近、ベルントの料理が美味すぎて、つい食べすぎている。胃がもたれているのだろう。明日は、少し消化のいいものにしてもらおう。


 我ながら明快な診断だった。


 まさか、たった今、向けられた言葉のせいで、心臓が跳ねただなどとは——俺は、露ほども思わなかった。前世から数えて三十年以上、色恋とは無縁に生きてきた男の感覚は、こういうときは見事なまでに鈍い。


 そもそも、だ。今の俺は、中身は三十過ぎの男で、ガワは十六の令嬢。色恋を疑うにしても、向き合っている相手は男だ。その三重のねじれを、いちいち真面目に考えていたら、頭がどうにかなる。だから考えない。胃もたれ。結論はそれでいい。脳が勝手に、いちばん波風の立たない答えを、選び取っていた。


 「どうした」と、アイゼンが、訝しげに俺を見た。


 「いえ。少し胃が」


 「……医者を、呼ぶか」


 「大丈夫です。寝れば治ります」


 俺は立ち上がり、おやすみなさいと告げて、執務室を出た。


 胸の奥のおかしな動悸は、廊下を歩いても、なかなか収まらなかった。


 困ったものだ。明日からは、本当に食べる量を控えよう。


 ——そう、固く心に誓いながら、俺は、その動悸の正体に、最後まで気づかなかった。

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