第七話 氷の侯爵が、自分から口を開いた
畑の次に俺が向かったのは厨房だった。
理由は単純だ。食事がまずい。
いや、正確にはまずくはない。素材は良い。侯爵家の台所だ、肉も野菜も、市場に出回る最上のものが揃っている。だが、それを活かしきれていない。出汁は浅く、火の入れ方は大雑把で、仕込みに手間を惜しんでいる。素材の格に料理人の腕が追いついていない――そういう食事だった。
毎日食うものだ。生き延びるための拠点で、三度の飯がこれでは士気に関わる。改善できるなら改善したい。前世で、独り身の自炊を十年以上続けてきた俺には、口を出せる蓄えがそれなりにあった。
厨房に足を踏み入れると、湯気と熱気の向こうで大柄な男が振り返った。料理長のベルント。腕に古い火傷の痕がいくつもある、見るからに頑固そうな男だ。
「……奥様。こんなところに何のご用で」
声に警戒があった。当然だ。貴族の婚約者が厨房に来るなど、文句をつけに来たとしか思えない。
「邪魔をするつもりはありません。少し、見学させてもらえますか。それと――今夜の仕込みを、見せてもらえると嬉しいです」
俺は、邪魔にならない隅に立ち、しばらく黙って彼らの手元を見ていた。
見ているうちに、いくつも気になる点が出てきた。
骨からとった出汁を、煮立たせすぎて濁らせている。野菜の皮を、使える部分まで厚く剥いて捨てている。仕込みの順番が前後していて、手が空く時間と詰まる時間に無駄な波がある。どれも、ほんの少しのことだ。だが、その少しの積み重ねが、料理の出来を確実に損ねていた。
前世なら、こういうのは「段取りが悪い」の一言で片づく話だった。仕事の効率化と何も変わらない。手順を見直し、無駄を削り、要点を押さえる。料理だろうが、書類だろうがやることは同じだ。
俺は口を開いた。
「ベルント。一つだけ試してもらえませんか。その出汁、煮立たせずに火を弱めて、静かに引いてみてください。濁りが取れて味が澄みます」
ベルントの眉が、跳ね上がった。
「……奥様。料理に口出しを?」
「ええ。差し出がましいのは承知しています。でも、もったいないんです。これだけの素材なんですから」
むっとした顔のまま、それでもベルントは半信半疑で出汁を引き直した。火を弱め、灰汁を丁寧にすくう。やがて、澄んだ琥珀色の出汁が鍋に揺れた。
一口、味見をしたベルントの表情が変わった。
「……違う。雑味が、ねえ」
「でしょう。素材が良いぶん、丁寧に扱えば、それだけ応えてくれます」
そこからは、堰を切ったようだった。俺が知っている自炊の知恵を、片端から並べていく。野菜の皮の使い道、保存の利く仕込みの段取り、香草の合わせ方、塩を入れる頃合い。
「肉は、焼く前にしばらく室温に戻しておくと、火の通りが揃います。冷たいまま火にかけるから、外が焦げて中が生になる」
「……言われてみりゃ、そうだ」
「それと、この香草。煮込みの最初から入れると香りが飛びます。仕上げに加えたほうがずっと立ちます」
ベルントは、いちいち唸りながら、手近な紙切れに俺の言うことを書きつけはじめた。料理長が、令嬢の話をメモを取って聞いている。厨房の下働きたちが、信じられないものを見る目でその光景を眺めていた。ベルントは、最初こそ仏頂面で聞いていたが、一つ試すごとにその目の色が変わっていった。料理人だ。良くなるとわかれば、意地を張る理由はない。
気づけば、俺たちは厨房の隅で、額を突き合わせて、夢中で食材の話をしていた。畑のヘルマンのときと同じだ。職人というのは、自分の仕事を本気で良くしようとする相手の前では、案外もろい。
もっとも、俺の狙いは純粋に飯を美味くすることだけではなかった。厨房を握るということは、この屋敷の胃袋を握るということだ。人は、美味いものを食わせてくれる相手には、自然と気を許す。――いや、味方を増やすつもりなど本当はない。ただ、美味い飯が食いたいだけだ。結果としてそうなっているだけで。
「奥様」と、ひとしきり話したあと、ベルントが、ぼそりと言った。「あんた、本当に、貴族のお生まれで?」
「ええ、一応は」
「妙だ。……料理を、わかってらっしゃる」
わかっている、というほどではない。ただ、毎日自分で作って自分で食ってきただけだ。だが、それは言えない。俺は曖昧に笑って、「独学です」とだけ答えた。
その夜の食卓には、明らかに違う料理が並んだ。
澄んだ出汁のスープ、火の通りを見極めた肉。素材の味がまっすぐに立っている。俺は内心、ベルントの仕事ぶりに感心していた。一度わかれば応用が利く。さすが、腕は確かなのだ。
向かいの席で、アイゼンが黙って匙を口に運んでいた。
この男とは、食事の席を共にするようになって数日になる。だが、これまで一度も会話というものがなかった。アイゼンは食卓で口をきかない。必要なこと以外、何も言わない。俺も無理に話しかけはせず、二人ともただ黙々と食べる――それが、この家の夕餉だった。
最初は、その沈黙がやけに長く感じられたものだった。だが、慣れてしまえばどうということもない。気を遣って言葉を探すより、黙って食うほうがよほど楽だ。アイゼンも、たぶん、同じだったのだろう。沈黙が苦にならない者同士の食卓は、悪くなかった。
ところが、その夜は、違った。
スープを一口飲んだアイゼンの手が、ふと、止まった。
彼は、匙を置き、しばらく何か考えるように皿を見つめ、それから――顔を上げた。
「……これは」
低い声が静かな食堂に落ちた。俺は顔を上げた。
「お前の差配か」
給仕をしていた侍女が息を呑むのが、気配でわかった。あとで聞いた話では、侯爵が食卓で自分から口を開いたのを見たのは、その場の誰にとっても初めてのことだったらしい。
俺は、なんでもないことのように答えた。
「ええ。厨房で、少し。出汁の引き方を変えてもらいました」
「……そうか」
それだけ言って、アイゼンは再び匙を取った。だが、その食べる速さがいつもより、わずかに、ゆっくりになっていた。味わっている、そう見えた。
たかが、出汁の引き方一つ。だが、この男が「美味い」と感じたものを、わざわざ口に出して確かめた――その事実が、給仕の侍女たちをひどく動揺させていた。厨房に戻れば、さぞ騒ぎになるだろう。氷公が料理を褒めた、と。
俺にとっては、ただの業務報告のようなやり取りだったが。
食事が終わったあと、廊下で俺はアイゼンに呼び止められた。
「ラヴィニア」
名を呼ばれたのは、初めてだったかもしれない。振り返ると、アイゼンはいつもの無表情で、こちらを見ていた。
「畑に、厨房に。……お前は、なぜ、そこまでする」
純粋な問いだった。婚約者として迎えた令嬢が、屋敷のあちこちに首を突っ込み、使用人と渡り合い、暮らしを片端から作り変えていく。その動機がこの男には測れないのだろう。
俺は少し考えて、正直に答えた。
「自分が、気持ちよく暮らしたいからです。毎日のことですから。食事も、部屋も、庭も――どうせなら、良いほうがいい。ただ、それだけです」
恋でも、点数稼ぎでもない。本当に、ただ、それだけだった。
俺の答えに、アイゼンは虚を突かれたような顔をした。もっと、裏のある答えを――取り入ろうとする言葉や、媚びを、予想していたのかもしれない。だが、返ってきたのは、身も蓋もない本音だけだった。
「……変わっているな、お前は」
その声は、最初に応接間で会ったときの、刃のような冷たさとは、違っていた。咎める響きも、突き放す響きもない。ただ、不思議なものを見るような、どこか、やわらかい響きだった。
アイゼンはしばらく俺を見ていた。何か言うかと思ったが、結局、彼は「そうか」とだけ呟いて、背を向けた。
噛み合っているような、いないような、奇妙なやり取りだった。
だが、去っていくその背中を見ながら、俺は、ふと思った。この無愛想な男の中で、何かの目盛りが、ほんの少しだけ動いたような――そんな気がした。
気のせいかもしれない――まあいい。飯が美味くなったなら、それで十分だ。
俺は、自室へと続く廊下を歩きながら、明日の畑の段取りに思考を切り替えた。
あの男の心の機微を深く考える余裕は、正直、なかった。俺の頭の大半は、いつだって、目の前のタスクで占められている。畑、厨房、次は何を整えるか。生き延びるための拠点を、一つずつ住みよく作り変えていく。
それが、知らず知らず、一人の男の凍りついた日常まで、作り変えはじめていることに――このときの俺は、やはり、気づいていなかった。




