第六話 悪役令嬢、畑を耕す
翌朝、俺は夜明けとともに起き出した。
昨夜のうちに侍女頭から借り受けた古着――下働きの女が着るような、飾り気のない木綿の服に着替える。絹のドレスで畑は耕せない。髪も後ろで無造作に束ねた。姿見に映ったのは、公爵令嬢には到底見えない、どこかの農村の娘のような姿だった。悪くない。これなら、遠慮なく土に這いつくばれる。
着替えを手伝いに来たマリアンヌは、その格好を見て目をぱちくりさせた。
「お嬢様、その……今日は、何を?」
「畑。庭の空いている区画を耕す」
「畑、ですか」彼女は一瞬きょとんとし、それから、なぜか頬を上気させた。「まあ……お嬢様は、本当に、誰もなさらないことをなさるんですね。素敵です」
どこが素敵なのか、さっぱりわからない。だが、止めようとしないあたり、やはりこの娘は俺の味方らしい。「汚れてもいい水を、後で一桶頼む」とだけ言って、俺は部屋を出た。
裏庭の空き区画に立ち、俺はまず土の状態を確かめた。屈んで一握りすくい、指で揉む。湿り気、粒の細かさ、匂い。悪くない土だ。長く放置されていたぶん、痩せてはいるだろうが、手を入れれば十分に使える。日当たりも、昨夜見た限り申し分ない。水場も近い、条件は揃っている。
納屋から鍬を見つけてきて、俺は土を起こしはじめた。
一振りで、令嬢の細腕に鈍い衝撃が返ってくる。重い。やはり、この体は非力だ。だが、やり方はわかっている。前世で、防災のための家庭菜園を何年も続けていた。地震が来ても、流通が止まっても、自分の食う分だけは自分で確保する――独り身のささやかな保険だった。膝を使え、腰で振るな、体重を乗せろ。体は覚えていなくても、頭が手順を覚えている。
一畝、また一畝。土が黒く返っていく。額に汗が滲み、掌がひりついてきた。マメができるな、と他人事のように思う。それでも、土を起こす手応えは悪くなかった。考え事をするのに、単純な肉体労働ほど向いたものはない。鍬を振るいながら、俺は頭の隅でこれからの作付けの段取りを組み立てていた。豆をまいて土を肥やし、そのあとに根菜。保存の利くものを優先する。まず、冬を越せる蓄えを作る。万一、この屋敷から逃げ出す羽目になっても、携行できる食料があるに越したことはない。畑は保険であり、退路でもあった。
もっとも、ここまで本格的にやるつもりは、最初はなかった。庭の隅を少し借りて、豆でも植えれば十分だと思っていた。だが、いざ土に触れてみると、つい本気になってしまう。性分だ。やるならちゃんとやる。中途半端にやって枯らすのが、いちばん性に合わない。
気づけば、屋敷の窓や物陰から何人もの使用人が、こちらを盗み見ていた。
無理もない。嫁いできたばかりの公爵令嬢が、夜明けから泥まみれで畑を耕している。彼らの知る「貴族の令嬢」の辞書に、こんな項目はないだろう。どう声をかけていいかも分からず、ただ遠巻きにひそひそと囁き交わしている。
好きに見ればいい。俺は手を止めなかった。見られて困ることは何もしていない。むしろ、見ているうちに慣れてくれた方が都合がいい。この屋敷で長く暮らすつもりなら、使用人に遠巻きにされたままでは何かと不便だ。
昼近くになって、一人の老人が、のっそりと近づいてきた。
日に焼けた皺だらけの顔。節くれだった太い指。屋敷の庭を束ねる、庭師頭のヘルマンだった。ラヴィニアの記憶にはない顔だが、その手を見れば、長年、土と付き合ってきた人間だと一目でわかる。
ヘルマンは、耕しかけの畝を一瞥し、それから俺を見て無遠慮に言った。
「……奥様。庭いじりってのは、土遊びとは、違いますぜ」
令嬢の気まぐれだと思っているのだろう。声には、はっきりと侮りがあった。きれいな手で一日泥をいじって、飽きたら放り出す――そういう手合いを、嫌というほど見てきた顔だ。
俺は手を止め、立ち上がって向き直った。
「ええ、知っています。だから、ちょうど訊きたいことがあったんです。来てくれて、助かりました」
「……訊きたいこと?」
「この区画、長く寝かせていましたよね。地力が落ちている。最初に石灰を入れて、酸を中和したい。この土なら、どのくらいまくのがいいですか。それと、最初の作付けは、土を肥やす豆類から始めたい。この気候で、秋までに収穫まで持っていける豆には、何があります?」
ヘルマンの、侮りの色がすっと消えた。
令嬢の口から出るとは思わなかった言葉だったのだろう。彼は、しばらく俺をまじまじと見つめ、それから、品定めをするように一つ、問いを返してきた。
「……奥様。豆を植えると、なんで土が肥えるかはご存じで?」
試している。知ったかぶりかどうかを確かめる気だ。
「根に菌が棲みつくからでしょう。空気中のものを土に取り込んでくれる。詳しい理屈は知りませんが、豆のあとは作物の出来が良くなる。経験で、そう聞いています」
ヘルマンの眉がぴくりと動いた。それから、ようやく、武装を解いたように、真面目な顔で話しはじめた。石灰の量、まくべき時期、この地方の風土に合う豆の種類、連作を避ける畝の回し方。俺は一つひとつ頷きながら、要点を頭に刻んでいった。知らないことは、素直に訊く。知ったかぶりはしない。前世で叩き込まれた仕事の基本だ。
話しているうちに、ヘルマンの口は、だんだん滑らかになっていった。土の話になると止まらない――前世の、商店街の頑固な八百屋の親父にどこか似ていた。良いものを作る人間は、たいてい、自分の仕事の話をちゃんと聞いてくれる相手に弱い。
「この土地はな、夏の終わりに決まって雹が降る年がある」と、ヘルマンは言った。「背の高え作物は、いっぺんでやられちまう。地を這うもんから始めるのが、無難でさあ」
「なるほど。覚えておきます。なら、なおさら豆と根菜が向いていますね」
「……奥様。あんた、本当に、どこでそんなことを覚えなすった」
「いろいろあって。話すと長くなります」
前世で、と正直に言うわけにもいかない。俺は曖昧に笑って話を逸らした。
ひとしきり語り終えると、ヘルマンは、ふと、感心したように呟いた。
「奥様は……貴族様らしくねえお人だ」
言ってから、慌てて付け加える。
「あ、いや。悪い意味じゃねえですよ。……良い意味で、で」
無礼を取り繕う、その不器用な口ぶりがおかしかった。俺は笑って、「光栄です」と返した。
その日から、ヘルマンは、頼んでもいないのに、毎朝、種や苗の話を携えて畑に顔を出すようになった。屋敷の他の者たちも、つられるように少しずつ警戒を解いていった。すれ違いざまに会釈をする者が現れ、汚れた水を桶で運んでくれる下女が現れ、鍬の柄が緩んでいると教えてくれる下男が現れた。一人、また一人。この凍りついた屋敷で、俺に普通に口をきいてくれる人間が増えていく。
目立たず、ひっそり暮らすつもりだったのだが――どうにも、勝手が違ってきている。だが、悪い気はしなかった。
ふと、視線を感じて顔を上げると、屋敷の二階の窓に人影があった。
アイゼンだった。
執務の合間にでも、物音を聞きつけたのだろうか。彼は、畑を耕す俺をじっと見下ろしていた。値踏みでも、咎めでもない。ただ、見慣れないものを観察するような静かな目で。
目が、合った。
俺は、土で汚れた手のまま、軽く会釈した。アイゼンは何も応えず、しばらくこちらを見ていたが、やがてゆっくりと窓辺を離れた。
……何だったんだ。
まあ、いい。畑を咎められなかっただけ良しとしよう。俺は再び、鍬に手を戻した。やるべきことはまだ山ほどある。
後で知ったことだが――あの無愛想な侯爵が、執務を抜け出して、あれほど長く窓辺に立っていたのを見たのは、屋敷の誰にとっても初めてのことだったらしい。
日が傾く頃には、最初の二畝がどうにか形になった。腰は鈍く痛み、手のひらのマメは潰れて、ひりひりと熱を持っている。この体には、明らかに過酷な一日だった。明日は、もう少し加減してやらないと続かない。
それでも、黒く返った土を眺めるのは、悪くなかった。何かを一から作るというのは、書類仕事にはない手応えがある。前世では、終電まで他人の決めた数字を動かすだけの日々だった。自分の手で何かが形になっていくのを見るのは――いつ以来だろう。
部屋に戻ると、マリアンヌが俺の手のひらを見て、悲鳴に近い声をあげた。傷に薬を塗り、布を巻きながら、「お嬢様の、こんなにお綺麗な手が」と、今にも泣き出しそうにしている。手など放っておいたら治る、それより畑のほうが大事だ――とは、さすがに言わずにおいた。代わりに、「ありがとう。助かる」とだけ言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。




