第五話 契約結婚の初夜に、家具を動かす
ライラック侯爵邸に着いたのは、日が暮れる頃だった。
出迎えた使用人たちは、皆、戸惑った顔をしていた。無理もない。突然降って湧いた、主の婚約者。しかも、宮廷で嗤いものになっている、あの変わり者の公爵令嬢だ。どう扱えばいいのか迷っている空気が、玄関に漂っていた。
屋敷の中は、応接間と同じくしんと静まり返っていた。広いのに人の声がしない。笑い声も、生活の物音も、ほとんど聞こえてこない。必要なことだけが、最小限の言葉で進んでいく。主の人柄が屋敷の隅々まで凍らせている——そんな静けさだった。
マリアンヌだけが、いつもの調子で、てきぱきと俺の身の回りを整えてくれた。この静まり返った屋敷で、気心の知れた顔は、今のところ一つきりだ。彼女がいてくれて、助かる。
俺が案内されたのは、二階の客間の一つだった。天井は高く、窓も大きい。調度も、あの殺風景な応接間とは違ってそれなりに整えてある。婚約者を迎えるにあたって、形だけでも体裁を繕ったのだろう。
だが、一歩足を踏み入れて、俺は腕を組んだ。
使い勝手が、悪い。
寝台が、窓から最も遠い、いちばん暗い隅に置かれている。書き物机は明かり取りの窓に背を向ける位置。座れば自分の影で手元が暗くなる配置だ。大ぶりの長椅子に至っては、扉の真ん前に陣取っていて、出入りのたびにわざわざ回り込まなければならない。広いだけで、動線がまるで考えられていない。
俺は、職業病のように、部屋を採点していた。前世で、住みやすい部屋を探して、何件も内見して回った経験が、こんなところで活きるとは思わなかった。採点は、辛口だ。広さは満点。日当たりも悪くない。だが、家具の配置で、その長所を全部殺している。十点満点で、三点といったところか。もっとも、誰かに文句を言うつもりはない。この部屋を整えたのは、俺を迎えるための、せめてもの体裁だったのだろう。その気持ちは、受け取っておく。そのうえで、使いやすく直すだけだ。
たぶん、見栄えだけで並べたのだろう。客間というのは、客に「立派な部屋だ」と思わせるための部屋であって、誰かが実際に暮らすための部屋ではない。一晩泊まって帰る客には、これで十分だ。
だが、俺はこれから、ここで暮らす。
寝るのも考え事をするのも、ここだ。生き延びるための作戦を練る拠点が、こんな使いにくい部屋では話にならない。机は窓に向け、寝台は壁際の落ち着く位置へ、長椅子は扉から離す。理想配置が、頭の中で出来上がっていた。あとは、動かすだけだ。
「まず、この椅子だな」
俺は呟いて、扉の前の長椅子に手をかけた。
長椅子は、見た目よりはるかに重かった。
というより、この体が非力すぎた。十六歳の、深窓の令嬢の腕だ。畑仕事も、力仕事も、生まれてこのかたしたことがない。前世なら片手で押せた程度の家具が、両腕で踏ん張っても、びくともしない。
試しに、全体重をかけて押してみる。ずるり、と少しだけ動いて、反動でよろけた。危うく、尻もちをつきかける。情けない。前世の俺ならこんなものは軽々だったのに。この体の筋力のなさには、本気で対策が要るな。頭の隅に、もう一つ課題を書き留めた。
それでも、諦めるという選択肢はなかった。少しずつ、角度を変え、重心をずらし、滑らせるようにして、じりじりと窓際へ寄せていく。額に汗が滲み、結い上げた髪がほつれて、頬にかかった。我ながら、婚約初夜に何をやっているのかとは思う。だが、手は止まらなかった。
長椅子を移し終え、次は書き物机。これは明かり取りの窓へ向かう向きへ、ぐるりと回した。これで、昼間は影にならずに書ける。寝台は、さすがに一人では無理なので、明日、人手を借りるとして、当面の配置だけ頭の中で決めておく。
ひとつ動かすたびに、部屋が「使える」形に近づいていく。前世の安アパートでも、引っ越しのたびに、こうして一日かけて家具の位置を調整したものだった。動線が整うと、頭の中まで整理される。妙な手応えがあって、つい夢中になる。
長椅子の角度を、もう一度わずかに直していたとき。
背後で、扉が開いた。
「——何をしている」
低い声に振り返ると、アイゼンが立っていた。物音を聞きつけたのだろう。眉をかすかに寄せている。
俺は長椅子から手を離して答えた。
「模様替えです。この部屋、動線が悪いので」
「……動線」
「ええ。寝台が暗い隅にあって、机は逆光で手元が見えません。この椅子に至っては、扉を塞いでいます。出入りのたびに回り込まなければなりません。直しておこうかと」
アイゼンはしばらく黙っていた。婚約者として迎えた令嬢が、初めての夜に自室の家具を一人で引きずり回している。その光景をどう受け止めればいいのか、測りかねている顔だった。
「……気に入らなければ人を呼べばいい。侍女でも、下男でも、いくらでもいる」
「自分で動かした方が、どこに何を置くか考えながらできますので。それに、こういう作業は嫌いじゃないんです」
嘘では、なかった。だから、すらすらと言葉が出た。
アイゼンの眉が、わずかにほどけた。怒っているのでも、呆れているのでもない。ただ、見慣れないものを前にして毒気を抜かれた——そういう顔だった。応接間で「嘘の匂いがしない」と呟いたときの、あの目に少しだけ似ていた。
「妙な令嬢だ」
ぽつりと、そう漏らした。だが、その声に、棘はなかった。
アイゼンは、出ていこうとはしなかった。扉のところに立ったまま、俺が長椅子の最後の位置を直すのを黙って見ている。値踏みの視線とは違っていた。理解できないものを、それでも理解しようとして見ている——そんな目だ。
「……重いだろう」
ふいに、そう言った。
「ええ、まあ。この体には少々」と俺は正直に答えた。実際、腕はまだ震えていた。
アイゼンは何か言いかけて、やめた。手を貸そうとして、踏みとどまったようにも見えた。結局、彼は何もせず、ただ最後まで俺が一人で動かし終えるのを見届けた。
彼は、室内をぐるりと見渡した。
窓際に寄った長椅子。明かり取りに向き直った机。令嬢が一人、汗をかいて動かした分だけ、たしかに部屋は、使いやすくなっている。
「……好きにしろ」
ややあって、アイゼンはそれだけ言った。咎める響きはどこにもなかった。
俺は「ありがとうございます」と頭を下げ、それから、ふと窓の外に目をやった。
月明かりに、屋敷の裏手の庭が薄く浮かんでいる。手入れはされているが、ずいぶん空いた区画があった。日当たりも悪くない。土の色も、見たところ悪くなさそうだ。あれだけの広さがあれば——と、頭が勝手に算段を始める。
「あの、ひとつ伺っても」と、俺は振り返った。「明日、あの庭を見せていただいても構いませんか。裏手の空いている区画です」
「庭?……構わんが、何をする気だ」
「畑にできそうだなと」
アイゼンが、今度こそ、言葉を失った。
長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「……侯爵家の婚約者が、土いじりをすると?」
「いけませんか」
「いけなくはない。が、前例がない」
「では、私が前例になります」
あっさり言うと、アイゼンはまた口をつぐんだ。前例がないという言葉は、この男にとって反対の理由になるらしい。だが、俺にとっては何の障害でもなかった。前例がないなら作ればいい。筋書きにない手を打つのはもう慣れている。
婚約者として迎えた公爵令嬢が、嫁いできた初日の夜に、家具を動かし、翌朝には畑を始めようとしている。貴族令嬢の口から「畑」という単語が出ること自体、この男の想定のはるか外にあったのだろう。
虚を突かれたような横顔を見て、俺は内心首をかしげた。畑の何がそんなにおかしいのか。自分の食うものを自分の手で作る。これ以上に確かな備えはない。生き延びるための基本のキだ。明日、土の状態を見て何が育つかを見極めよう。豆か、根菜か。保存の利くものから始めるのが定石だ。頭の中では、もう作付けの段取りが回りはじめていた。
アイゼンは、そんな俺をまだ見ていた。呆れているのか、面白がっているのか、その無表情からは読み取れない。だが、出ていけとも、やめろとも言わなかった。それだけで、十分だった。明日からこの庭に手を入れられる。
もっとも、そのときの俺は、気づいていなかった。
目立たず、波風も立てず、ひっそりと生き延びるつもりだった俺が、その初日の夜から、この静かで、凍りついた屋敷の空気を、少しずつ動かしはじめていたことに。




