第四話 父上が怒っても、もう後戻りはしません
婚約の約束から、三日が過ぎた。
その三日、俺は屋敷の自室で、ひたすら次の手を考えていた。婚約は受け入れられた。だが、それで安心するほど状況は甘くない。父がこの縁談をどう受け取るか。覆そうと動いてくるなら、どう凌ぐか。最悪の場合の段取りまで、頭の中で何通りも組み立てていた。
そこへ、その知らせは飛び込んできた。
マリアンヌが小走りで部屋に入ってきた。頬を上気させ、何か大きな知らせを抱えている顔だ。
「お嬢様、大変です。……いえ、大変、なのでしょうか。よく、分からないのですが」
歯切れが悪い。要領を得ないので、俺は先を促した。
「宮廷でお嬢様のお噂が、その……広まっておりまして」
聞けば、こういうことだった。クロワ公爵家のラヴィニアが、あの氷公に前触れもなく自ら乗り込んで婚約を申し込んだ——その一件が、社交界を駆け巡っているという。
予想はしていた。あれだけ非常識なことをすれば、噂にならないわけがない。
「皆さま、たいそう驚いていらっしゃるそうです」とマリアンヌは言った。その口ぶりには、嘲笑の気配を読み取った様子がない。驚いている、を額面通り、いい意味に受け取っている。「お嬢様は、これまで誰もなさらなかったことをなさったのですから。きっと、注目の的です」
善意に満ちた誤解だった。実際には、注目の的というより、嗤いの的だろう。あの高慢なクロワ令嬢が、よりにもよって氷公に自分から飛び込むとは——扇の陰で交わされる、その手の嘲りが、目に浮かぶ。
だが、それでいい。
嗤われるのは、むしろ好都合だった。噂が広まれば広まるほど、この婚約は引き返せない既成事実になる。一度、社交界の話の種になったものを、なかったことにはできない。
むしろ、嗤ってくれて構わない。嗤いものになった令嬢を、わざわざ取り合う者はいない。王太子も、他の貴族も、こんな「傷物」の縁談に、今さら横やりを入れてはこないだろう。嗤いは俺にとって最良の盾だった。
「……ああ、それと」マリアンヌが思い出したように付け加えた。「王太子殿下も、お噂をお耳にされたとか。それと、最近社交界に出ていらした、ステラ・メイズという男爵令嬢の方も、お嬢様のことを話していらしたそうですよ。とても可憐な方だとか」
王太子と、ステラ・メイズ。
王太子の名には身構えた。あの男からは、何としても離れなければならない。噂が向こうの耳に入ったなら、なおさら、関わらないに越したことはない。
そして、ステラ・メイズ。その名に、覚えはなかった。だが、引っかかったのは別のところだ。男爵令嬢が、最近になって社交界に。下級貴族の娘が、突然、表舞台へ。——その筋書きには覚えがある。物語の主人公が、ちょうどそういう登場の仕方をするはずだった。
まさか、こいつが。顔も名前も知らなかったあの主人公か。
だが、確かめようはない。今はまだ、ただの推測だ。俺は、その引っかかりを頭の隅に留めるだけにとどめた。近づくつもりはない。主人公に関わらないことが生存の鉄則だ。
噂が広まれば、当然、父の耳にも入る。
その日の午後、俺は当主の間に呼び出された。
クロワ公爵——この体の父親は、執務机の向こうで、紙のように白い顔をしていた。怒りで、ではない。怒りを通り越して、冷えきった顔だ。
「説明しろ、ラヴィニア」声は低く、抑えられていた。「ライラック侯爵に婚約を申し込んだというのは、本当か」
「本当です」
「……正気か」
俺は、まっすぐに父を見た。ラヴィニアの記憶の中で、この男はいつも遠かった。娘を見ているようで、その実、娘の価値だけを見ている目。今も、その目だ。
この当主の間に呼ばれるのは、いつだって、叱責のときだった。ラヴィニアの記憶が、その都度の冷たい言葉を断片的に返してくる。完璧であれ、クロワの名に恥じるな。お前の価値はどこへ嫁ぐかで決まる。——愛情の言葉はひとつもない。
「お前は」と父は続けた。「王家に嫁ぐために育てた。そのために金をかけ、教育を施し、磨いてきた。お前一人の婚姻で、クロワ家がどれだけ上に行けるか、それが分からんお前ではないだろう。それを、よりにもよってあんな国境の偏屈者に——」
駒だ、と父は言った。お前は王家へ送り込むための駒だ、と。
その瞬間、俺の——いや、ラヴィニアの体がわずかに強張った。肩が縮こまり指先が冷えていく。叱責に怯える、染みついた反応だった。十六年、この男の前で「完璧な娘」であろうとし続けてきた体が、勝手に萎縮している。
だが、頭の芯は冷えたまま動いていた。萎縮しているのは体だけだ。中身の俺はこの人の駒だったことなど一度もない。
俺は縮こまりかけた背筋を、意識して伸ばした。
「損はさせません」と低く言った。「侯爵家との縁は、家格も領地も、クロワ家の不利益にはなりません。それは、書面でお示しできます」
「そういう話を、しているのではない!」
父が初めて声を荒げた。だが、その先の言葉は続かなかった。俺が、怯えも、詫びもせず、ただ事実だけを返してくることに、調子を狂わされたらしい。これまでのラヴィニアなら、泣くか、すがるか、黙って俯くかしていたのだろう。だが、今のラヴィニアはそのどれもしなかった。
父はしばらく俺を睨んでいた。何か言いかけては、言葉を呑む。意のままになっていたはずの駒が、急に勝手に動き出した——その戸惑いが、白い顔に滲んでいた。やがて父は、苦虫を噛み潰したように低く吐き捨てた。
「……下がれ」
俺は一礼して当主の間を出た。背中に刺すような視線が張りついていたが、振り返らなかった。
父は、婚約を潰しにかかった。
権力も、伝手も、金もある男だ。娘の独断の縁談など、握り潰すのはわけもない——はずだった。
だが、数日後、父への使者は当主の間で苦々しくこう報告した。
「……手続きは、すでに完了しております。ライラック侯爵家が、婚約の届け出も、両家への正式な通知も、こちらが動く前にすべて済ませてしまわれました。今から覆すには、両家の体面を潰す醜聞を公にするほかございません」
俺は内心で唸った。
早い、早すぎる。婚約を申し込んだ日から、まだ何日も経っていない。その間に、貴族の縁組という、本来は何ヶ月もかけて進める手続きを、あの男は片づけてしまった。地味で、無害で、面倒事から遠いはずの侯爵が——。
また、あの違和感が顔を出した。応接間で覚えた小さな引っかかり。この男は本当に「ただの地味な脇役」なのか。
だが、俺はその違和感を脇へ押しやった。今は、好都合の方が勝っている。手続きが固まったなら、父にももう覆せない。願ったり叶ったりだ。深く考えるのは後でいい。
婚約が覆せないと知った父は、最後に、冷たく言い放った。
「好きにしろ。だが、覚えておけ。お前はクロワの娘ではない」
勘当、と言うほど大仰なものではないのだろう。だが、後ろ盾を失ったということだ。これからは、クロワ家の名は俺を守ってはくれない。
——それで構わない、と俺は思った。
後ろ盾など、もとから当てにしていない。むしろ、この家との縁が切れるなら、宮廷の面倒事からもそれだけ遠ざかれる。望むところだ。
数日後、俺は荷をまとめ、ライラック侯爵領へ移った。
大した荷物ではなかった。ラヴィニアの衣装や宝飾の類は、ほとんど置いてきた。あの家で「完璧な娘」を演じるための道具立てなど、新しい暮らしには要らない。連れていくのは、必要なものと、マリアンヌだけだ。専属の侍女である彼女は、当然のような顔で、俺の荷馬車に同乗していた。供がこの娘一人というのは、公爵令嬢の輿入れとしてはずいぶん身軽なものだ。だが、気心の知れた相手が一人いるだけで、今の俺には十分すぎるほどだった。
馬車の窓から、遠ざかっていくクロワ家の屋敷を、一度だけ振り返った。十六年、ラヴィニアが「完璧な娘」を演じ続けた家。豪奢で、冷たく、息が詰まり、未来が無い場所。不思議と、未練はまるでなかった。ラヴィニアの記憶の中にすら、この家を恋しがる感情は見当たらなかった。
前を向く。窓の外には国境へと続く見覚えのある街道。
第二の関門も越えた。これで、宮廷の中心から物理的に離れられる。
あとは、あの静かな侯爵邸で、目立たず、波風を立てず、ひっそりと生き延びるだけだ。
ここまでは、何もかも、俺の描いた筋書き通りに進んでいた。
——そのはずだった。




