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第三話 氷の侯爵に、契約結婚を申し込む

 馬車を降りると、足元で砂利が鳴った。


 門前で名を告げると、案の定、取次の者は困惑した。前触れもない公爵令嬢の来訪だ。追い返すべきか、通すべきか。判断のつかない顔で、初老の家令はしばらく俺と門の奥を見比べていた。


 「あいにく、侯爵閣下は来客のご予定を聞いておられず……」


 「ええ。約束はしていません。突然伺ったのはこちらの都合です。お叱りは、後でいくらでも受けます。ですが、お取り次ぎだけ願えますか」


 貴族令嬢らしからぬ、まっすぐな物言いだったのだろう。家令は一瞬、目を見開いた。だが、「クロワ公爵家のラヴィニア」という名の重さが勝ったらしい。ほどなくして、俺は屋敷の中へ通された。


 応接間は外観と同じだった。広いが飾り気がない、壁に掛かるのは色褪せた数枚の絵だけで、調度は必要最小限。塵ひとつ落ちていない。冷たく、整然として、人の気配が薄い。歓待のための部屋ではなく、用件を片づけるための部屋だった。主の人柄が、そのまま部屋の温度になっている。壁の絵は、どれも風景画だった。人物画は一枚もない。家族の肖像も武勲を誇る絵もない。誰の顔も飾らない部屋というのは、初めて見た。


 待つ間、俺は腹を決めていた。気圧されたら終わりだ。こちらは命がかかっている。相手がどれだけ無愛想だろうと、引くわけにはいかない。頭の中でもう一度、伝えるべき三つの利を並べ直す。順番、言い回し、削るべき贅肉。商談の前のいつもの段取りだ。


 やがて、扉が開いた。


 入ってきた男を見て、俺は一瞬、言葉を呑んだ。


 長身。黒に近い濃紺の上着。表情というものが顔から削ぎ落とされている。こちらを値踏みするでもなく、ただ事実として視界に入れているという目だ。歓迎の色も、敵意の色もない。氷公、と呼ばれる理由が一目で知れた。


 彼は足音を立てずに歩いた。無駄のない動きで椅子まで進み、音もなく腰を下ろす。所作の一つひとつに隙がない。長く、誰にも気を許さずに生きてきた人間の、体の使い方だった。

 

 そして、世辞のひとつもなく、短く言った。


 「用件を」


 前置きも、季節の挨拶もない。


 好都合だ、と俺は思った。こっちも、その方が早い。


 俺は懐から、書いてきた便箋を取り出した。だが、渡す前に、まず口で伝えることにした。マリアンヌの言う通り、この手の話は、声の方が早い。


 「婚約を申し込みに参りました」


 単刀直入に切り出す。アイゼンの眉が、わずかに動いた。


 「閣下と私が婚約することで、双方に利があります。理由を、三つ申し上げます」


 俺は指を折りながら、順に並べた。


 「ひとつ。家格の釣り合い。公爵家と侯爵家の縁組は、どちらの家門にとっても不足のない組み合わせです。世間に対しても余計な説明が要りません。


 ふたつ。領地の補完。クロワ家の領は内陸の穀倉地帯、ライラック家の領は国境。穀物の流れも、人の手当ても、互いの不足を補い合えます。両家が結べば、どちらの台所も今より回りが良くなる。


 みっつ。私生活への不干渉。私は閣下の暮らしに一切立ち入りません。閣下も私に何かを求めてくださらなくて結構です」


 そこで一度、言葉を切る。


 「これは、恋愛ではありません。契約です。互いに損のない取引として、お受けいただきたいと思います」


 言い終えて、俺は口を閉じた。


 応接間は、静まり返っていた。


 アイゼンは、すぐには何も言わなかった。やがて、低い声で、ひとつだけ問うた。


 「なぜ、私だ」


 もっともな問いだった。婚約者候補なら、王太子をはじめいくらでもいる。よりにもよって、国境に引きこもった無愛想な侯爵を選ぶ理由が、どこにある。


 俺は、正直に答えた。嘘をつく必要のないところで、嘘はつかない。


 「閣下が、宮廷から最も遠い方だからです。どの派閥にも属さず、面倒事の中心から離れていらっしゃる。私が望むのは静かな暮らしです。波風の立たない縁を探していました」


 言ってから、少し失礼が過ぎたかとも思った。お前は地味で無害だから選んだ、と面と向かって告げたようなものだ。


 俺は、持ってきた便箋を卓に置いた。口で言ったことと、同じことが書いてある。念のためだ。


 アイゼンの視線が、便箋に落ちた。三行きりの文面を、ざっと一読する。作法を無視した、商談の覚書のような手紙。彼の指が、紙の端を軽く弾いた。


 「……令嬢の書く文ではないな」


 「ええ。よく言われます」


 屋敷を出る前、侍女にも似たような顔をされた。事実なので否定はしない。


 アイゼンは、その手紙からもう一度俺へと視線を戻し、静かに言った。


 「損得だけで、生涯の相手を決めるのか」


 試すような問いだった。だが、答えに迷いはなかった。


 「生き延びるのに必要なのは、心地よさより安全です」と俺は言った。「それに、損得は嘘をつきません。情は移ろいます。約束は破られます。ですが、互いに得がある限り、この契約は続く。私は続くものを信じたいのです」


 言い終えて、初めて気づいた。アイゼンの値踏みするだけだった視線が、はっきりと、俺という人間に向いている。何かを探るような、得体の知れないものを見定めようとするような目だった。


 貴族令嬢が、損得を隠さず、世辞も飾りもなく、商談のように縁談を持ちかける。そんな相手を、この男はおそらく一度も見たことがないのだろう。


 俺は、その視線を正面から受け止めた。隠していることは山ほどある。前世のことも、処刑の筋書きのことも、口が裂けても言えない。だが、たった今この場で並べた言葉に、嘘は一つもなかった。だから、目を逸らす理由がない。逸らせば嘘になる。


 沈黙が長く伸びた。


 断られるか、と俺は身構えた。普通に考えれば断られて当然の話だ。前触れもなく現れた令嬢の、作法も何もない縁談。普通の貴族なら不快に思って追い返す。それでも構わない。断られたら次の家を当たるだけだ。打てる手から順に打つ。それだけのことだった。

 アイゼンは、卓の上の便箋と、俺の顔を、交互に見ていた。何かを測っている。だが、その天秤に載っているものが何なのかは、こちらからは見えない。俺は急かさなかった。こういう時は口を挟むべきではない。相手が答えを出すまで、静かに待つ。


 だが、アイゼンは追い返さなかった。


 彼はじっと俺を見たまま、ふいに、ひとりごとのように呟いた。


 「……嘘の匂いが、しないな」


 その意味は、分からなかった。何のことだ、と訊き返す間もなく、アイゼンは小さく息を吐き、そして言った。


 「面白い」


 削ぎ落とされていた表情の、ほんの端が、わずかに動いた——気がした。


 「いいだろう。その婚約、受けよう」


 あっさりと、それだけだった。理由も、条件への注文も、駆け引きもない。拍子抜けするほど、簡単に話は通った。


 「手続きは私の方で進める」と、アイゼンは続けた。「届け出も、両家への通知も、こちらで片づけよう。……早い方がいいのだろう」


 その一言に、俺は内心、少し意表を突かれた。急いでいるとは一言も言っていない。なのにこの男は、こちらの事情をもう見透かしている。気が利くというより勘が鋭い。地味な侯爵にしては妙だな——と、そこまで考えて、追うのをやめた。早く片づくなら、こちらも都合がよい。


 俺は内心で安堵していた。第一関門は突破だ。これで、王太子の婚約者という椅子から降りられる。宮廷から離れられる。生存戦略の最初の一手が決まった。契約の細部は追って詰めればいい。婚約の届け出、両家への通知、移り住む段取り。事務の山が待っているが、その手の作業は、むしろ得意分野だった。前世で飽きるほどやってきた。


 相手の真意は最後まで読めなかった。だが、読めなくても構わない。地味で、無害で、面倒事から最も遠いところにいる侯爵。俺が求めていた条件にこの男は完璧に合っている。それで、十分だった。


 だが、油断はできない。覚えていない条件がまだ頭の片隅で黒く口を開けている。今日打った一手が、その落とし穴のどれかを踏んでいない保証はどこにもなかった。それでも進むしかない。立ち止まれば、待っているのは処刑台だ。


 立ち去り際、ふと振り返るとアイゼンはまだこちらを見ていた。値踏みでも、警戒でもない。何か、もっと静かなものを確かめるような目で。


 その視線の意味を俺は深く考えなかった。考える必要を感じなかったのだ。


 ——それが迂闊だったと気づくのは、まだ、ずっと先のことになる。

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