第二話 婚約申込書は、箇条書きで
婚約を申し込む、と決めたはいいが、いざ手を動かす段になって、最初の壁にぶつかった。
手紙の書き方が、わからない。
いや、正確にはわかりすぎていた。ラヴィニアの記憶を浚えば、貴族の書簡作法は澱みなく出てくる。出てくるのだが——その中身が、問題だった。
まず冒頭は、相手の家門の繁栄を讃える定型句。次に、季節の移ろいに寄せた挨拶。庭の薔薇がどうの、空の色がどうの、空気の香りがどうの、と当たり障りのない美辞を連ねる。それから、こちらが筆を執るに至った非礼を幾重にも詫びる前置きが続く。そこまで書いて、ようやく本題の入口に立つことが許される。
しかも、その本題すら直接は書かない。「もし叶うことならば」「畏れ多くも」と、遠回しに遠回しを重ねて、相手に意図を察してもらう。はっきり書くのは品がないという理屈らしい。要件にたどり着く頃には便箋が三枚は埋まる計算だった。
俺は羽根ペンを握ったまま、白紙の上で十分ほど固まっていた。
効率が悪すぎる。
試しに、作法どおりに書き出してみた。『拝啓、ライラック侯爵家のいや増す弥栄を、心よりお慶び申し上げます。庭の薔薇もほころぶ頃となり——』そこまで書いて、手が止まった。俺は今、命のかかった婚約の話を切り出そうとしている。なのに、二行目がまだ薔薇の話だ。便箋をくしゃりと丸めて屑籠へ放った。
婚約を申し込みたい。条件は明確で、相手にとっても損のない取引だ。それを伝えるだけのことに、なぜ三枚も要る。なぜ、薔薇の色から話を始めなければならない。前世なら、メール一通、三行で済む案件だった。
ご相談があります。本件、互いに利のある話だと考えます。一度お時間をいただけますか。それで、過不足なく伝わる。相手方に受け入れられるかどうかは、文章の長さでは決まらない。中身で決まる。
考えるのをやめて、俺は思った通りに書くことにした。どうせ作法を真似たところで、付け焼き刃は見抜かれる。ならば、いっそ振り切った方がいい。
羽根ペンの先をインクに浸し、便箋の一行目に、用件を据える。
『ライラック侯爵閣下様へ。婚約のお願い。
一、当家との婚姻は、家格・領地ともに、閣下の不利益にはなりません。
二、私は閣下の私生活に干渉いたしません。互いに不可侵で構いません。
三、ご検討のうえ、可否をお聞かせください。
ラヴィニア・ド・クロワ』
書き上げて、読み返す。
簡潔だ。要点しかない。無駄な薔薇の色も、季節の挨拶もない。我ながら悪くない。少なくとも、何が言いたいのかは一目でわかる。
これでいいだろう、と俺は便箋を畳んだ。
扉が、控えめに叩かれた。
「失礼いたします、お嬢様」
入ってきたのは侍女だった。ラヴィニアの記憶がすぐに名前を返してくる。マリアンヌ。この体に、幼い頃から付き従ってきた専属の侍女だ。歳は二十四。クロワ家に仕える人間でありながら、令嬢の顔色をうかがう気配が薄く、まっすぐにこちらを見る癖がある。記憶の中のラヴィニアは、その遠慮のなさを少し疎んじていたようだが、今の俺には、むしろ好都合だった。腹の探り合いをしなくて済む相手は貴重だ。
その視線が、机の上の畳みかけの便箋に留まった。
「それは……どなたかへの、お手紙ですか」
隠すことでもない。俺は便箋を開いて見せた。口で説明するより、読んでもらった方が早い。
彼女の目が、上から下へゆっくりと文面を辿った。一行、二行、三行。
貴族令嬢の書く手紙ではない。本来なら眉をひそめられて当然の代物だ。作法を一切無視した、商談の覚書のような文面。奇異の目で見られるだろうな、と俺は身構えた。見られたところで方針は変えないが、最初の反応くらいは予想しておきたい。
ところが。
マリアンヌは顔を上げ、少し驚いたように、それから、感心したように言った。
「……率直なお手紙ですね。要件がはっきりしていて」
貶しているふうではなかった。むしろ、わずかに目を見開いて、見慣れないものを見たような顔をしている。
「貴族の手紙は回りくどくないか」と俺は訊いてみた。彼女がどう受け取るか、確かめたかった。
「ええ。正直、わたしには何を仰りたいのか、最後まで読んでも分からないお手紙も、多くて」マリアンヌは少し声を潜めた。「お嬢様のこれは……一行目で、もう分かりました。新鮮です」
裏のある言い方ではなかった。世辞でもない。彼女は本当にただそう思っただけらしい。この娘は、貴族社会の建前という色眼鏡をどうやら持っていない。筋書きだの役どころだのとも無縁の、ただこの世界をまっすぐ生きている人間。そういう相手の素直な反応は、妙に信用できた。
「あの、差し出がましいのですが」と、マリアンヌは続けた。「これは、お手紙でお送りになるより……直接お渡しになった方が、よろしいかと思います」
「直接?」
「はい。お嬢様のお気持ちは、紙よりもお声の方がきっと伝わります」
善意か、天然か。あるいは両方か。彼女の言葉に、裏はなかった。
直接渡す、か。
そう言われて考える。手紙を出し、相手が読み、返事を書き、それが戻ってくる。何度か往復するうちに、デビューの日は近づいてくる。猶予は数えるほどしかない。悠長に文を交わしている時間は、そもそも無かったのだ。
ならば、出向く方が早い。
俺は頭の中で算段を立てた。クロワ公爵令嬢という身分は、こういうときに役に立つ。馬車も、護衛も、外出の名目も、いくらでも都合がつく。父に知られる前に動きたいから、行き先は伏せ、遠縁への訪問とでも届けておけばいい。ライラック侯爵領は、王都から国境へ向かってそれなりに遠いが、馬車を急がせれば日のあるうちに着く距離だ。
前触れもなく乗り込むのは、貴族の常識からすれば、非礼の極みだろう。招かれてもいない令嬢がいきなり門前に立つ。普通なら門前払いだ。
非礼で結構。常識の枠の中で大人しくしていたら、ラヴィニアは筋書き通りに処刑される。枠の外に出るために、俺は枠の外から来た人間なのだ。門前払いされたら、されたときにまた次の手を考える。
「……アポなし直談判か。早いな」
呟くと、マリアンヌが「あの、何とおっしゃいました?」と、小さく首を傾げた。
「なんでもない。ライラック侯爵領へ出かける支度を。今から」
マリアンヌは一瞬、目を丸くした。今から、という言葉に驚いたのだろう。だが、引き留めもせず、理由も問わず、「かしこまりました」と頭を下げてすぐに動き出した。
ほどなくして、彼女は旅装一式を整えて馬車の手配まで済ませて戻ってきた。道中で冷えるといけませんから、と膝掛けまで一枚、抜かりなく荷へ加えている。仕事が速い。そして、細かい。問い詰めてこない相手と仕事をするのが、これほど楽だとは思わなかった。
半日後、俺は走る馬車の中にいた。
窓の外を、国境へと延びる街道が流れていく。王都を出てしばらくは、貴族の屋敷や手入れの行き届いた畑が続いていたが、進むにつれてそれも減っていった。家がまばらになり、畑が野に変わり、道の両脇に低い丘が連なりはじめる。王都の華やかさが薄れていくのと入れ替わりに、空が広くなった。
ライラック侯爵について馬車に揺られながら、ラヴィニアの記憶を改めて確かめる。国境地帯に領地を構え、めったに王都へ顔を出さない。社交界では無愛想で通っていて、どの派閥にも属していない。噂のひとつもほとんど聞こえてこない。つまり、貴族社会の中で最も静かに息をひそめている男だ。
無愛想で、威圧的で、側近以外とはろくに口もきかない——記憶の中の評判は芳しくない。普通の令嬢なら、嫁ぎ先に選ぼうとは思わない相手だろう。だが俺にとって、その付き合いの悪さは、欠点ではなく長所だった。人と関わらない男は面倒事にも関わらない。波風の立たない相手ほど、こちらの計画には向いている。地味で、目立たず、物語の中心から遠い。俺が探していた条件にこれ以上ないほど合っていた。
もっとも、相手がこちらの提案に乗る保証はどこにもない。アポなしで現れた令嬢の縁談など、その場で断られても文句は言えない。だが、断られたらまた次を探すだけだ。今は、打てる手から順に打っていく。考えすぎて足を止めるのが、いちばん下手な手だった。
やがて、緑の丘の向こうに灰色の石造りの館が見えてきた。装飾を削ぎ落とした、武骨で、静かな佇まい。華美なところが、どこにもない。あれが、ライラック侯爵邸。
あの中に、俺の生存戦略の最初の一手がいる。




