第一話 悪役令嬢の生存戦略、はじめます
とはいえ、相手は決まりきったシナリオだ。気合いや根性で、どうにかなる代物じゃない。攻略には、まず盤面の把握がいる。
俺は、現状を課題として書き出すことから始めた。前世で何百回と繰り返した手順だ。頭が真っ白なときほど箇条書きが効く。感情を脇に置いて、ただ事実だけを並べる。混乱というのは、たいてい整理されていないから混乱なのだ。一つずつ書き出してしまえば、絶望的に見えた状況も、案外、ただの作業の集まりに変わる。少なくとも、立ちすくんでいるよりはずっとましだ。
目標——処刑を回避し、生き延びる。
制約——この体から逃げる手段はない。前世にも戻れない。使えるのは、横目で見ただけの不確かなゲーム知識と、ラヴィニアの記憶だけ。
そして、最大の壁が、ここにある。
処刑エンドの条件はひとつじゃない。だが俺がはっきり覚えているのは、そのうち二つだけだ。
ひとつは、主人公への嫌がらせ。
公衆の面前で侮辱したり、ドレスを汚させたり、裏で手を回して陥れたり——その手の加害が一定を超えると、断罪の引き金が引かれる。これらは覚えている。悪役令嬢のいかにもな振る舞いだから、横目に見ていても印象に残っていた。友人の操作するラヴィニアが、主人公に紅茶をぶちまける場面。ああいうものが積み重なって、最後の処刑へ繋がっていく。
あの主人公は——名前も顔も思い出せないが——いつも困ったように眉を下げて、それでも健気に前を向いていた気がする。ラヴィニアの嫌がらせは、そういう相手をいたぶる形で積み上がっていくわけだ。つまり、俺はその逆をやればいい。あの娘に、指一本触れない、視界にすら入らない、徹底して避ける。それだけで、処刑に繋がる条件のひとつはまるごと消える。
もうひとつは、偽りの証言。
王太子の婚約者という立場を笠に着て、嘘の証拠をでっち上げ、主人公を罪に陥れようとする。それが露見したとき、今度は自分が裁かれる。これも覚えている。「うわ、ここで詰むのか」と友人が声を上げていた場面だから、妙に記憶に残っていた。婚約者という地位そのものが、この罪の前提になっている。
裏を返せば、婚約者でさえなくなってしまえば、偽証を疑われる立場そのものから外れられる。地位というのは、力であると同時に、枷でもあるわけだ。
そして、残りが、思い出せない。
一番の問題は、他にも条件があったような気がすること——その感触だけはなぜか拭えない。だが、いくつあったのか、どんな中身だったのか、どれだけ記憶を浚っても出てこない。輪郭すらつかめない。地図を渡されたはずなのに、肝心の落とし穴が紙ごと破り取られている。何個ぶん破られているのか、もしかしたら全く破られていないのか、それすら分からなかった。横目で盗み見た知識など所詮はこの程度だ。
完璧な攻略情報さえあれば、こんな綱渡りはせずに済んだ。だが、ないものねだりをしても始まらない。今ある手札で勝負するしかなかった。
俺は短く息を吐いて、こめかみから手を離した。考え込んだところで、ない記憶が湧いてくるわけでもない。わからないものはわからない。ならば、わかっている二つを完璧に避けることに集中するしかない。それが現時点で打てる、唯一の確かな手だった。
覚えている二つには共通点がある。どちらも「主人公に関わること」と「王太子の婚約者であること」が前提になっている。主人公に嫌がらせをするには、主人公と同じ場所にいなければならない。偽証で陥れるにも、婚約者という立場の力が要る。
逆に言えば。
主人公に近づかず、王太子の婚約者という椅子からも降りてしまえば、少なくともこの二つは、土台ごと封じられる。
答えは、わりとあっさり出た。
原作のラヴィニアは、王太子に執着し、その椅子にしがみついて破滅した。なら、その逆を行けばいい。王太子の婚約者という地位を自分から蹴り、宮廷の中心から物理的に離脱する。社交の渦から距離を取れば、主人公と顔を合わせる機会も減る。一石二鳥だ。
貴族の令嬢が自分の意思で婚約候補の座を降りる方法は、ひとつしかない。
別の相手と先に婚約してしまうことだ。婚約済みの令嬢を、今さら王家の婚約者候補に据えるわけにはいかない。既成事実を作ってレールから降りる。
……我ながら、とんでもないことを考えている。
公爵令嬢が、自分から相手を選んで婚約を申し込む。それも恋でも政略でもなく、ただ「処刑されたくないから」という理由で。この世界の常識からすれば、正気を疑われる暴挙だろう。だが、常識を守って大人しく処刑されるくらいなら、暴挙の一つや二つ、安いものだ。前世の俺なら、絶対にやらなかった。波風を立てず、空気を読んで、無難に流される——それが、俺の三十二年間の生き方だった。そして、その生き方の行き着いた先が、あの軽すぎる幕切れだ。今度くらいは、自分の手で盤面をひっくり返してみるのも悪くない。
では、誰と。
俺は前世の記憶を浚って、ゲームに出てきた男たちを並べてみた。攻略対象——主人公が心を射止めるために用意された、物語の主要人物たち。
まず、王太子。論外だ。こいつから離れるのが目的なのに、こいつに嫁いでどうする。本末転倒もいいところだ。記憶の中でも、こいつは主人公とラヴィニアの間で揺れ動く、物語の中心軸そのものだった。近づけば、否応なくあの筋書きに飲み込まれる。
次に、騎士団長。脳筋で、人は悪くなかった気がする。だが王宮付きで、主人公の護衛役で、物語のど真ん中に立っている男だ。攻略対象に近づくということは、本筋の歯車に自分から手を突っ込むのと同じこと。主人公絡みの地雷を、わざわざ踏みに行くようなものだった。それに、剣ひと筋の男に政治的な隠れ蓑の役を期待するのも筋が違う。却下。
宮廷魔術師。クールな天才肌で、口数の少ない男。これも駄目だ。あいつは何でも見抜く類の人間で、しかも宮廷から離れない。秘密を抱えた俺が、一番近づいてはいけない相手だった。魂の中身がそっくり入れ替わっているなどと見抜かれた日には、何が起きるか分からない。
そもそも、肝心の主人公が誰なのかも俺は知らない。どこかの下級貴族の娘、という程度の記憶しかない。顔も名前も浮かばないその少女が、いつ、どこから現れるのか。盤面の駒の半分は、まだ伏せられたままだった。
結局、俺が覚えている攻略対象は、揃いも揃って宮廷の中心に立っている。物語の本筋に、がっちり組み込まれた人間ばかりだ。
俺が探すべきなのはその正反対。盤上に乗っていない誰か。物語の歯車から最初から外れている人間だ。
今度は、ラヴィニアの記憶を浚い、この国の貴族の家を頭の中に並べて、条件を整理してみる。
第一に、公爵令嬢が嫁いでも体面が保てる程度には格のある家。低すぎれば、実家が黙っていない。そもそもクロワ公爵——この体の父親は、娘を王家へ送り込むつもりで磨いてきた。その思惑を真正面から蹴る婚約になる。相手の格が足りなければ、父の権力でいくらでも握り潰されるだろう。
第二に、王太子からも、宮廷の派閥争いからも、できるだけ遠い相手。
第三に、面倒事の中心にいない人物。物語の本筋に極力絡まない誰か。
この三つを全部満たす相手など、そうそういるものではない。格が高ければ宮廷の中心に近く、宮廷から遠ければ今度は格が足りない。たいていの家は、どこかで条件に引っかかった。記憶の棚を一つずつ確認していく。あの家は派閥の中核、あの家は王太子の取り巻き、あの家は格が低すぎて父が一蹴するだろう——消去法で残る数は、みるみる絞られていった。
そして最後に、すべての網をすり抜けて残った名前がひとつだけあった。
ライラック侯爵家。アイゼン・フォン・ライラック。
ラヴィニアの記憶によれば、国境地帯に広い領地を構え、めったに王都に顔を出さない。社交界では無愛想で通っていて、どの派閥にも属していない一匹狼。要するに、この国で最も宮廷から遠いところにいる高位貴族だ。侯爵という格も申し分ない。父の権力でも、そう簡単には覆せない相手だろう。
念のため、前世のゲーム知識と突き合わせてみる。
ライラック、アイゼン。覚えている攻略対象の中には、その名前はない。友人の実況で、一度も出てこなかった名前だ。つまり、本筋に絡まないモブ。物語の盤上にすら乗っていない、安全な脇役だった。
しかも、領地が国境地帯にあるというのが、さらに都合がいい。王都から遠ければ遠いほど、宮廷の渦からも主人公からも、物理的に距離が取れる。どうせ引っ込むなら、辺境の方がいいに決まっていた。
条件に、これ以上ないほど完璧に合致する。
俺は鏡の前に立ち、ラヴィニアの整った顔を正面から見据えた。
「決めた。お前——いや、俺の婚約相手は、こいつだ」
声に出してみると、案外、悪くない手に思えた。
地味な侯爵に頭を下げて、政略的な契約を結んで、王都から離れた領地に引っ込む。誰の物語にも触れず、波風も立てず、静かに生き延びる。色恋も栄達もいらない。三十二年生きてきた人間にとっては、むしろそれが望む結末だった。
そう、悪くない手のはずだった。
ただ、ひとつだけ。
頭の片隅で、破り取られた落とし穴がずっと黒く口を開けている。覚えていない条件が、もし俺の打つこの一手に絡んでいたら——その問いに、答えられる材料が、俺の手には何ひとつなかった。
鏡の中の少女は、笑っていない。
その細い体を見ながら、俺は、自分が半分だけ目隠しをして地雷原を歩こうとしていることを、感じていた。




