第零話 残業二〇五号室、薔薇の匂い
俺は死んで、美少女になった。
しかも、何故かこれから、全員に処刑されるキャラとして。
事実を二行で整理してみたが、頭は少しも軽くならない。むしろ二行で済んでしまうことの方が始末に負えなかった。
死んだ瞬間のことは、よく覚えている。終電前の残業を切り上げて駅へ向かう途中、雨で滲んだ横断歩道に踏み出したところまで。ヘッドライトが白く膨らんで、視界の端で雨粒が一斉に光って——そこで途切れた。痛みはなかった。痛みを感じる前に、何かがまるごと終わっていた。三田雄介、三十二歳。死因はおそらく交通事故。
葬式に来る人間の顔を、三人ほど思い浮かべて、すぐにやめた。数えるほどしかいないことを確認しても、得るものは何もない。会社の机に積み残してきた書類の方が、よほど鮮明に思い出せる。三十二年かけて積み上げたものが、未処理のタスクの山だったというのは、我ながら笑えない話だった。
誰かに看取られた記憶もない。最後に交わした言葉が何だったかも思い出せない。引き継ぎ事項を同僚へ一方的に送りつけたメッセージあたりが、たぶん俺の最期の言葉だ。三十二年分の人生にしては、ずいぶん軽い幕切れだった。
思えば俺は、そういう人間だった。頼まれれば断れず、他人の尻拭いを引き受け、気づけば誰よりも遅くまで会社に残っている。仕事はできる方だったと思う。だが、その器用さで掴んだものが何かと問われれば、答えに詰まる。誰かに必要とされている実感も、帰りを待つ誰かもないまま、三十二年が過ぎていた。死んで初めて、自分の人生がいかに身軽だったかを思い知るというのは、なかなか皮肉な話だった。
次に意識が戻ったとき、鼻先にあったのは薔薇の匂いだった。
むせ返るほど甘く、作り物めいて整った香り。安アパートの黄ばんだ天井ではなく、頭上には天蓋から垂れた薄布があった。手の甲に触れるのは、ごわついた寝具ではなく、滑らかな絹。指を握り込むと、爪の先まで自分のものではない感触が返ってくる。骨が細い。皮膚が薄い。腕を持ち上げるだけで、知らない重さの髪が肩を滑り落ちた。寝返りを打とうとして、胸の上にあるはずのない重みに気づき、動きを止める。指先で、ゆっくり、自分の喉から鎖骨へとなぞった。喉仏がない。骨の角が、どこにもない。手のひらを返して、頬に触れてみる。産毛の一本も、剃り跡のざらつきもない、滑らかな皮膚。三十二年つきあってきた体の手応えが、どこを探しても返ってこなかった。
俺の知っている体は、もうここにはなかった。
寝台の脇に姿見があった。
起き上がり、おぼつかない足でそこまで歩く。一歩ごとに腰と膝の運びが自分の感覚とずれていて、他人の操縦席に座らされているような心地がした。鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、十六かそこらの少女だ。銀に近い金の髪、伏せると睫毛が頬に影を落とすほどの目。誰が見ても整った顔。整いすぎて、古びた人形のように、笑い方を忘れたみたいな顔。鏡の中の少女が口を開け、俺の意思でその唇が動く。声は澄んでいて、高くて、俺の知っている自分の声とは一片も似ていなかった。
頭の奥が、二重写しになっている。
三田雄介の三十二年と、もう一人ぶんの十六年。後者が誰のものかは、考えるより先にわかった。記憶が、まるで最初からそこにあったかのように馴染んで流れ込んでくる。ラヴィニア・ド・クロワ。クロワ公爵家の一人娘。社交界デビューを目前に控えた令嬢で、この国——アルテナ王国の、王太子の婚約者候補の筆頭。
この国では、血に宿る魔力の濃さが、そのまま身分の高さになる。王家を頂点に、公爵、侯爵と連なる序列は、要するに魔力の格付け表だ。濃い血どうしを掛け合わせて、より濃い魔力を次代に残す——そのための政略結婚が、貴族の当たり前として回っている。クロワ家は、その頂点に最も近い血筋のひとつ。つまりラヴィニアは、生まれた瞬間から王家に嫁ぐための駒として磨かれてきた令嬢だった。
流れ込んでくる記憶の端に、その娘の輪郭も滲んでいた。誇り高く、気位が高く、そのくせどこか脆い。完璧な令嬢であれと求められ続け、本音を漏らせる相手を一人も持たないまま育った少女。体の所作の隅々にまで、その緊張が染みついている。指の伸ばし方ひとつ、背筋の張り方ひとつが、誰かに見られることを前提に組み立てられていた。気の毒に、とは思った。だが感傷に浸っている余裕は、今の俺にはない。
血筋がいい。魔力が濃い。地位が高い。器量も悪くない。
ここまでなら、引きの強い人生だ。問題はその先にある。
ラヴィニアという名前に、俺は覚えがあった。前世に自然に覚えたものだ。
『薔薇色の誓約』。学生時代の友人が休み時間に遊んでいた乙女ゲーム。俺はそれを、隣の席で横目に眺めていただけだった。自分でプレイしたことは一度もない。だから筋もうろ覚えで、攻略対象の顔も半分は思い出せない。それでも、ラヴィニアという名前だけは記憶に焼きついていた。
なぜなら彼女は、悪役令嬢だからだ。
主人公の恋路を片端から邪魔して、嫌がらせを重ねて、最後には罪を暴かれる役どころ。物語の終わりで彼女に用意されているのは二つに一つ、処刑台か、修道院送りか。どちらに転んでも、ラヴィニアの人生はそこで終わる。きらびやかな大団円の、背景に転がる敗者の骨。それが、この少女に割り振られた役だった。
その悪役令嬢の体に、今、俺が入っている。
しかも、悠長に構えている時間はない。ラヴィニアの記憶では、社交界デビューはもう目前に迫っていた。デビューとは、彼女が物語の表舞台に立つということだ。主人公が現れ、攻略対象たちと出会い、悪役令嬢が役目を演じはじめる——その幕が、間もなく上がる。上がってしまえば、敷かれたレールの上を引きずられるしかなくなる。動くなら、幕が上がる前だ。猶予は、おそらく数えるほどの日数しか残っていない。
俺は寝台の縁に腰を下ろし、膝に肘をついて、こめかみを押さえた。
不思議と、取り乱しはしなかった。叫び出してもおかしくない場面のはずなのに、胸の奥は妙に静まり返っている。三十二年も生きていると、突発的な事態に感情で反応する回路の方が、先に擦り切れてしまうらしい。代わりに動き出すのは、原因と対策を仕分ける癖だった。残業で骨の髄まで染み込んだ、つまらない実務能力。それが、こんなところで顔を出す。
与えられた状況は理不尽だ。だが、理不尽に文句を言ったところで、納期は一日も延びない。それは前世で、嫌というほど学んだことだった。
ならば、やることは決まっている。
処刑される未来が決まっているなら、その未来の方を、書き換える。
幸いと言っていいのか、俺の手元には、わずかながら武器がある。この世界がゲームの筋書きでできているという、最大のカンニングペーパーだ。虫食いだらけで、完璧には程遠い代物だが、何も知らずに筋書き通り処刑されるよりは、ずっとましだった。
俺は顔を上げ、もう一度、鏡の中の少女を見た。整いすぎた、笑い方を忘れた顔。こいつの——いや、俺の人生を、ここから設計し直す。
生き延びる方法を考える。まずは、それからだ。




