第三十一話 お疲れさま、と前世の俺に
あれから、季節が二つ巡った。
簒奪の冤罪も、王太子の暴挙も、今では遠い出来事のようだった。あれほど張りつめていた日々が嘘のように、屋敷には穏やかな時間が戻っていた。
いや――戻った、というのは正しくないかもしれない。あの騒動の前の、よそよそしい契約夫婦の暮らしに、戻ったわけではないのだから。私たちはあの嵐を二人でくぐり抜け、その先にある新しい日常を生きていた。
侯爵邸の朝は、相変わらず賑やかだった。
しんと静まり返り誰も寄りつかなかった「氷公の屋敷」は、もうどこにもない。庭師の声、料理長の鼻歌、侍女の足音。人の気配が隅々まで満ち、屋敷そのものが息を吹き返したようだった。
中庭の畑は、すっかり実っている。私が最初に土に這いつくばって耕した、あの一画。今では瑞々しい野菜が、青々と葉を広げていた。庭師頭のヘルマンは、その畝を我が子のように、見回りながら、こちらに得意げな顔を向けてくる。
「奥様、今朝の収穫です。どうです、立派なもんでしょう」
もぎたての野菜を差し出す手。節くれだった、土の匂いのする手だった。私はそれを受け取り、礼を言う。たった、それだけのやり取りが、この屋敷の朝の決まりごとになっていた。
半年前なら考えられない光景だった。クロワ公爵令嬢が、下働きの庭師と朝の挨拶を交わす。畑の野菜を、自ら受け取る。身分がすべてのこの国で。だが、この屋敷ではそんな垣根は、とっくに低くなっていた。私が土に這いつくばったあの日から。
厨房からは、ベルントの威勢のいい声が響いてくる。畑で採れた野菜を惜しみなく使った料理。出汁の引き方に、私が口を出したあの日から、この厨房の味は少しずつ変わってきた。湯気の向こうで、料理長が鼻歌まじりに包丁を動かしている。
窓を開ければ、土と、青菜と、出汁の匂いが入り混じって流れ込んでくる。何の変哲もない、けれど、確かに満ちている暮らしの匂いだった。
着替えを手伝うマリアンヌは、ときどき、不思議そうな顔で私を見る。
私が前世の癖で、聞き慣れない言葉を口にしたとき、妙に世慣れた知恵を披露したとき。彼女は何か言いかけて、いつも口をつぐむ。
「お嬢様は……本当に、不思議なお方ですね」
あるとき、櫛を通しながら、ぽつりとそう言った。それきり、彼女はそれ以上踏み込んでこなかった。
何か秘密があることに、薄々、気づいているのだろう。私が、ただの令嬢ではないことに。だが、詮索はしない。ただ、知らんふりをして、これまで通り誠心誠意仕えてくれる。
気づいて、なお、守ってくれる。そういう忠義の形もあるのだと、私は知った。クロワ式の所作を極めた侍女と本人は胸を張るが――その忠義こそが、彼女のいちばんの値打ちだった。
思えば、この屋敷の人間は、皆、そうだった。庭師も、料理長も、侍女も。私が何者であろうと、どこから来たどんな魂であろうと。そんなことは問題にしなかった。ただ、目の前の私と、まっすぐ向き合ってくれた。
中身が何者かではなく、嘘をつかない人間かどうか。アイゼンがいつか言ったその言葉を、この屋敷の誰もが、知らずに実践しているようだった。
ステラは、ときどき屋敷に遊びに来る。
もう、誰かに振り向かれるのを待つ独りの色も、自分を責める影も。その顔にはない。社交界で、自分の足場を少しずつ広げているらしい。困っている令嬢の相談に乗り、人と人を繋ぐ。「私にしかできないことがあるんです」と晴れやかに語る彼女は、もう、誰かの物語の脇役ではなかった。自分の物語の主役だった。
私が壊してしまった物語。その、いちばんの被害者かもしれない娘が、いちばん生き生きとしている。それを見るたび、肩の荷が一つ降りる気がした。レールを歪めたことは、誰かを不幸にしただけではなかったのだ。
宮廷魔術師ユーリは、相変わらず研究と称して、屋敷に入り浸っている。私の魂が、よほど興味深いらしい。茶を飲みながら、こちらを観察し、ときどき突拍子もない質問を投げてくる。協力者なのか、ただの物好きなのか、分からないが――もう、すっかり屋敷の風景に馴染んでいた。
「あなたを見ていると、飽きないんですよ」と、彼はよく言う。「決まった筋書きのない人生っていうのは。……いいものですね」
決まった筋書きのない人生。それは、私が自分の手で選び取ったものだった。
原作の筋書きでは、この屋敷も、この畑もなかった。ラヴィニアは断罪され、消えていくだけの脇役だった。その筋書きを、私はまるごと踏み外した。踏み外した先に、こんな日々が待っているなんて、あの頃の私には想像もつかなかった。
そして――アイゼン。
契約から始まった夫婦だった。互いに不干渉、情も、絆もない。そういう約束だったはずだ。
なのに今は。
夜、執務を終えた彼が、私の部屋を訪ねてくる。とりとめのない話をする。領地のこと、畑のこと。ときには何も話さず、同じ部屋で別々の本を開いているだけのこともある。それでも、その時間は悪くなかった。沈黙すら心地よかった。
言葉がなくても、間がもっても。気まずさはなかった。互いに嘘をつかずに向き合ってきた者同士、その沈黙には嘘の入り込む隙がない。だから、安心して黙っていられた。
前世では持てなかった時間だった。誰かと同じ空間にいるだけで満たされる。そんな関係を、私は知らなかった。いつも一人で、気を張って、隙を見せないように。だが、この男の前では、それをほどいていられた。
氷公は相変わらず、世間では氷公のままだ。社交の場ではあの無表情を崩さず、貴族たちを竦ませている。国境の盾は健在だった。
だがこの屋敷で。私の前で。
ときどき、彼はあのかすかな微笑みを見せる。出会った頃には凍りついて、ぴくりとも動かなかったその口元を。誰も知らないその顔を、私にだけ。
あるとき、私は訊いてみた。なぜ、最初の頃、あんなに無愛想だったのかと。
アイゼンは、少し考えてから言った。
「人を信じるのがこわかったんだろう。たぶん」
こわかった、という言葉をこの男が口にするとは思わなかった。
「だが、お前は嘘をつかなかった。だから、信じてみる気になった。……それだけだ」
それだけと彼は言う。だが、その「それだけ」にたどり着くまで、この男は七年かかったのだ。私との半年あまりの日々が、その厚い氷を溶かした。誇るべきことが、もし、私の人生に一つでもあるとすれば。きっとそれだった。
その夜も、アイゼンは私の部屋でしばらく過ごしていった。
たわいない話をいくつか。明日の天気のこと。畑の、次に植えるもののこと。彼が、ぽつぽつと、言葉を置いていく。私がそれに応える。かつて、応接間で損得を並べ合ったあの二人とは、もう別人のようだった。
やがて、彼が自室へ引き上げていく。その背中を見送りながら、私は思った。明日もこんな日が続くのだろうと。そして、それを嫌だとは少しも思わなかった。
夜更け。
窓辺で、私はひとり、月を見上げていた。
ふと、前世のことを思い出す。
三田雄介。三十二年。あの灰色の日々。
毎朝、満員電車に揺られ、会社に着けば未処理のタスクの山が待っていた。片づけても片づけても、減らない。終電まで机にしがみつき、家に帰れば泥のように眠るだけ。誰にも頼れず、一人ですべてを抱え込んで。そうして、最後は机に突っ伏したまま、あっけなく事切れた。
報われない人生だった、と、ずっと思っていた。
何のために生きているのか、考える暇もなかった。気づけば、人生はただの消化すべき仕事の行列になっていた。そんな私を、誰も案じてはくれなかった。私自身でさえ。
だが――今なら別のことも思う。
あの三十二年があったからこそ。私は人を駒として扱われる痛みを、知っていた。誠実であることの重みを、知っていた。一人で抱え込んだ果てに、何が待っているかを、嫌というほど知っていた。だから、この二度目の人生では別の選び方ができた。逃げずに頼ることを、嘘をつかずに向き合うことを。
前世は無駄ではなかった。あの灰色の日々が、今の私を確かに形づくっている。
区切りをつけよう、と思った。
あの、くたびれて、すり減って、誰にも看取られずに死んだ一人の男に。長い間、本体だと思い込んでいたあの自分に。もう、引きずられはしない。あの男も、この体も、ぜんぶ抱えて。私はここで生きていく。私が選んだこの場所で。
不思議なものだ。生き延びるために必死で足掻いたその果てに。私はただ生き延びる以上のものを手に入れていた。土に触れる朝。湯気の立つ厨房。遊びに来る友人。物好きな魔術師。そして、隣に選んだ人。
前世で、喉から手が出るほど欲しかったもの。けれど、決して手に入らなかったもの。それが、今、何気ない顔をして、私の日々の中にある。
月の光が、机の上の書きかけの領地台帳を白く照らしている。明日も、やることは山ほどある。畑の世話、厨房の差配、領地の相談事。それに、ユーリの無茶な質問の相手も。
前世も、やることは山ほどあった。あの、未処理のタスクの山。だが、同じ「忙しい」でも違った。あれは、こなしてもこなしても、虚しさばかりが積もる忙しさだった。今は違う。一つ片づけるたびに、何かが確かに育っていく。畑の野菜のように、人との絆のように。
同じ忙しさ。けれど、生きていると思える忙しさだった。
ふっと、口元が緩んだ。
あの、未処理のタスクの山に埋もれて死んだ、三田雄介に。いつか、もし、どこかで会えるなら。
お疲れさまとでも、言ってやろうか。
……いや。こっちはこっちで、けっこう忙しいんだ。




