表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/32

第三十話 どちらでも、あなたの妻です

 「俺は……」


 言いかけて、ふと口をつぐんだ。


 いや違う。その答え方では足りない。三田雄介ですと名乗るのも、ラヴィニアですと名乗るのも。どちらもこの男の問いに、本当には答えていない。


 アイゼンが知りたいのは、俺の出自ではない。これから、誰として自分の隣に立つのか。その覚悟のほうだ。


 ならば答えるべきは一つだった。名前でも性別でも前世でもない。俺がこれからどう在ると決めたか。それを告げればいい。


 俺はゆっくりと息を吸った。


 胸の奥で固まった答えを、一つひとつ、言葉に変えていく。


 不思議と、もう緊張はなかった。この男の前で嘘をつかずに来た。その積み重ねの、いちばん最後に、いちばん大事な本当のことを置く。ただ、それだけのことだった。


 「私が三田雄介だったとしても、ラヴィニアだったとしても」


 口にしながら、俺はこれまでの日々を思っていた。この問いに答えを出すために、どれだけの時間がかかったか。生き延びることに必死で。自分が何者かなど考えることからも、逃げてきた。だが、もう逃げない。


 声は、もう震えていなかった。


 「そのどちらでも――いいえ。そのどちらでなくても」


 まっすぐに、アイゼンの目を見つめる。逃げず、誤魔化さず、嘘の匂いの、欠片もなく。


 「……どちらでも、あなたの妻です」


 言った。


 その瞬間だった。


 ずっと仮面だと思っていた、「私」という一人称が。これまで、社交の場でだけ令嬢のふりをするためだけにまとってきた、よそ行きの言葉が。今、初めて、嘘でも、借り物でもなく――すとんと、胸の真ん中に落ちてきた。


 不思議な感覚だった。これまで口にするたびに、薄い膜が一枚、自分と言葉の間にあったようなあの一人称。それが、今、その膜ごと消えていた。言葉と自分がぴたりと重なっている。


 もう、わたくしではない。


 私だ。


 性別でも、前世でもない。三田雄介かラヴィニアかという問いのその手前で。私はただ選んだのだ。この体で、この場所で、この人の隣に、立つことを。誰かに与えられた役ではなく、自分の意志で選び取った、一つの生き方。


 その選択をした瞬間、私の中で長く二つに割れていたものが、ようやく一つに溶け合った。


 長い間、私は二つの自分を、別々の箱にしまっていた。男だった前の自分、女である今の体。混ざってはいけないものとして、固く分けて。だが、もうその必要はなかった。箱の蓋を開けてしまえば、中身は一つに溶け合っていた。


 私は私だ。


 三田雄介の記憶も、ラヴィニアの体も、ぜんぶ抱えた一人の人間。それを、もう誰にも――自分にすら否定させはしない。


 可笑しなものだ。生き延びるために、必死で足掻いてきた。処刑を避け、断罪を覆し、この命を繋ぐために。その果てに、私が本当に手に入れたもの。それは、生き延びた命そのものより――この「私」という、たった一人の自分をまるごと肯定できる、その一点だったのかもしれない。


 長かった。ここまで本当に長かった。だが、その遠回りの一歩も無駄ではなかった。



 アイゼンは、しばらく何も言わなかった。


 私の言葉を、ゆっくりと噛みしめるように。その瞳が、私をまっすぐに映している。


 窓から差し込む月の光が、彼の傷を負った肩を青く縁取っていた。


 その沈黙を、私はただ静かに待った。拒まれるとは思わなかった。この男なら、必ず私の答えをまるごと受け止めてくれる。これまでずっと、そうしてくれたように。


 やがて。


 アイゼンの、口元が動いた。


 ほんのわずかに。本当にかすかに。だが確かに。


 その、いつも凍りついていた唇が――上向きにほどけた。


 微笑んだのだった。


 私は息を呑んだ。


 氷公。国境の盾。その無表情で、社交界の貴族たちを幾人も竦ませてきた男。七年もの間、人前では決して崩れることのなかったあの仮面。それが、今、私の目の前で音もなく、溶けていた。


 大きな出来事ではなかった。口角がわずかに上向いた。それだけの些細な変化。だが、この男にとって、それがどれほどのことか。七年凍りつかせてきた表情を緩める。それは、もう一度、人を信じるという賭けに勝った者だけが見せられる顔だった。


 マレーナに奪われた人を信じる力。それを、この男は取り戻したのだ。よりにもよって、得体の知れない転生者の魂を相手に。


 もし、この場に宮廷の誰かがいたら。あの氷公が笑った、とそう聞かされても、誰一人信じはしないだろう。卒倒する者すらいるかもしれない。


 だが、私の前でだけこの男は笑う。そう思うと、胸の奥がじんと熱を持った。誰にも見せない顔を見せてもらえる。それは、たぶん、この世界でいちばん得難い贈り物だった。


 出会った日、応接間で損得を並べたとき。この男は眉一つ動かさなかった。あのとき、凍りついていた表情が、少しずつほどけていった。自ら口を開き、妙な女だと零し、屋敷の空気が悪くないと認め。そして今。


 長い長い道のりの果てに。


 氷がすっかり、緩んでいた。


 私がいちばん見たかったものを、見ている気がした。


 「妻、か」


 アイゼンは、その微笑みを口元に残したまま、静かに言った。


 「契約で始まったはずだったが」


 「ええ」と、私は頷いた。「契約で始まりました」


 隠す気はなかった。始まりが打算だったことを。それは、紛れもない事実だ。だが、始まりがどうだったかは、もう大した問題ではなかった。大事なのは、今ここに何があるか。そして、これから何を育てていくかだった。


 損得から始まった婚姻だった。生き延びるための方便。互いに不干渉という、冷たい約束。そこには、情も絆も何一つなかった。ただ、利害だけが二人を結びつけていた。


 あの頃の私には、想像もできなかった。この無愛想で、無口で、何を考えているか、まるで読めない男と、月の下で手を取り合う日が来るなんて。


 それがいつのまにか。


 畑の泥と、出汁の湯気と、朝の剣と、雨の夜の打ち明け話を重ねるうちに。気づけば、契約という器の中に、別の何かが静かに満ちていた。


 いつ満ちはじめたのか、はっきりとはわからない。たぶんどこか一点ではなく、過ごした日々のすべてが少しずつ。畑で、厨房で、馬車の中で。嘘をつかずに向き合い続けた、その時間の堆積として。


 名前をつけるなら。


 たぶん、それは――もうわかっている。胃もたれでも、働きすぎでも、ないことくらい。わかっていた。ただ、認める勇気がなかっただけで。


 好き、というただ一言。それを認めるのに、ずいぶん長くかかった。男だった前の人生も含めれば、三十年以上こじらせてきた。だが、今は、すんなりとその言葉が胸に馴染んでいた。


 「契約から始まって」と私は言った。「……でも、もう、契約だけじゃありません」


 言い切ってしまうと、頬が熱くなった。前の人生のくたびれた男には、こんな台詞柄でもない。だが、もう誤魔化さないと決めたのだ。胸の内をありのまま口にする。それが、私の選んだ生き方だった。


 アイゼンが手を伸ばした。傷のないほうの手を。そして、その大きな手のひらが、私の手をそっと包んだ。温かかった。剣を握り、私を守ったその手は。


 「ああ」と彼は言った。「俺もそう思う」


 その短い相槌が、どんな甘い睦言よりもこの男らしくて。私は繋がれた手を、そっと握り返した。


 たった、それだけの言葉。


 たった、それだけの所作。


 だが、その一拍で、私たちは確かに契約の二人から、本物の二人になった。


 大袈裟な誓いの言葉も、きらびやかな指輪も、何もなかった。あったのは、ただ繋いだ手と、かすかな微笑みと、白みゆく空だけ。だが、それで十分だった。むしろ、私たちには、それがいちばんふさわしかった。


 窓の外で、夜が白みはじめていた。


 長い戦いの夜が、明けようとしている。


 断罪を待つだけだった令嬢は、もうどこにもいない。物語のレールを外れ、自分の足でここまで歩いてきた。その隣に選んだ人がいる。


 繋いだ手のその温もりだけが、これから始まる新しい一日の、確かな手応えだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ