第三十話 どちらでも、あなたの妻です
「俺は……」
言いかけて、ふと口をつぐんだ。
いや違う。その答え方では足りない。三田雄介ですと名乗るのも、ラヴィニアですと名乗るのも。どちらもこの男の問いに、本当には答えていない。
アイゼンが知りたいのは、俺の出自ではない。これから、誰として自分の隣に立つのか。その覚悟のほうだ。
ならば答えるべきは一つだった。名前でも性別でも前世でもない。俺がこれからどう在ると決めたか。それを告げればいい。
俺はゆっくりと息を吸った。
胸の奥で固まった答えを、一つひとつ、言葉に変えていく。
不思議と、もう緊張はなかった。この男の前で嘘をつかずに来た。その積み重ねの、いちばん最後に、いちばん大事な本当のことを置く。ただ、それだけのことだった。
「私が三田雄介だったとしても、ラヴィニアだったとしても」
口にしながら、俺はこれまでの日々を思っていた。この問いに答えを出すために、どれだけの時間がかかったか。生き延びることに必死で。自分が何者かなど考えることからも、逃げてきた。だが、もう逃げない。
声は、もう震えていなかった。
「そのどちらでも――いいえ。そのどちらでなくても」
まっすぐに、アイゼンの目を見つめる。逃げず、誤魔化さず、嘘の匂いの、欠片もなく。
「……どちらでも、あなたの妻です」
言った。
その瞬間だった。
ずっと仮面だと思っていた、「私」という一人称が。これまで、社交の場でだけ令嬢のふりをするためだけにまとってきた、よそ行きの言葉が。今、初めて、嘘でも、借り物でもなく――すとんと、胸の真ん中に落ちてきた。
不思議な感覚だった。これまで口にするたびに、薄い膜が一枚、自分と言葉の間にあったようなあの一人称。それが、今、その膜ごと消えていた。言葉と自分がぴたりと重なっている。
もう、わたくしではない。
私だ。
性別でも、前世でもない。三田雄介かラヴィニアかという問いのその手前で。私はただ選んだのだ。この体で、この場所で、この人の隣に、立つことを。誰かに与えられた役ではなく、自分の意志で選び取った、一つの生き方。
その選択をした瞬間、私の中で長く二つに割れていたものが、ようやく一つに溶け合った。
長い間、私は二つの自分を、別々の箱にしまっていた。男だった前の自分、女である今の体。混ざってはいけないものとして、固く分けて。だが、もうその必要はなかった。箱の蓋を開けてしまえば、中身は一つに溶け合っていた。
私は私だ。
三田雄介の記憶も、ラヴィニアの体も、ぜんぶ抱えた一人の人間。それを、もう誰にも――自分にすら否定させはしない。
可笑しなものだ。生き延びるために、必死で足掻いてきた。処刑を避け、断罪を覆し、この命を繋ぐために。その果てに、私が本当に手に入れたもの。それは、生き延びた命そのものより――この「私」という、たった一人の自分をまるごと肯定できる、その一点だったのかもしれない。
長かった。ここまで本当に長かった。だが、その遠回りの一歩も無駄ではなかった。
アイゼンは、しばらく何も言わなかった。
私の言葉を、ゆっくりと噛みしめるように。その瞳が、私をまっすぐに映している。
窓から差し込む月の光が、彼の傷を負った肩を青く縁取っていた。
その沈黙を、私はただ静かに待った。拒まれるとは思わなかった。この男なら、必ず私の答えをまるごと受け止めてくれる。これまでずっと、そうしてくれたように。
やがて。
アイゼンの、口元が動いた。
ほんのわずかに。本当にかすかに。だが確かに。
その、いつも凍りついていた唇が――上向きにほどけた。
微笑んだのだった。
私は息を呑んだ。
氷公。国境の盾。その無表情で、社交界の貴族たちを幾人も竦ませてきた男。七年もの間、人前では決して崩れることのなかったあの仮面。それが、今、私の目の前で音もなく、溶けていた。
大きな出来事ではなかった。口角がわずかに上向いた。それだけの些細な変化。だが、この男にとって、それがどれほどのことか。七年凍りつかせてきた表情を緩める。それは、もう一度、人を信じるという賭けに勝った者だけが見せられる顔だった。
マレーナに奪われた人を信じる力。それを、この男は取り戻したのだ。よりにもよって、得体の知れない転生者の魂を相手に。
もし、この場に宮廷の誰かがいたら。あの氷公が笑った、とそう聞かされても、誰一人信じはしないだろう。卒倒する者すらいるかもしれない。
だが、私の前でだけこの男は笑う。そう思うと、胸の奥がじんと熱を持った。誰にも見せない顔を見せてもらえる。それは、たぶん、この世界でいちばん得難い贈り物だった。
出会った日、応接間で損得を並べたとき。この男は眉一つ動かさなかった。あのとき、凍りついていた表情が、少しずつほどけていった。自ら口を開き、妙な女だと零し、屋敷の空気が悪くないと認め。そして今。
長い長い道のりの果てに。
氷がすっかり、緩んでいた。
私がいちばん見たかったものを、見ている気がした。
「妻、か」
アイゼンは、その微笑みを口元に残したまま、静かに言った。
「契約で始まったはずだったが」
「ええ」と、私は頷いた。「契約で始まりました」
隠す気はなかった。始まりが打算だったことを。それは、紛れもない事実だ。だが、始まりがどうだったかは、もう大した問題ではなかった。大事なのは、今ここに何があるか。そして、これから何を育てていくかだった。
損得から始まった婚姻だった。生き延びるための方便。互いに不干渉という、冷たい約束。そこには、情も絆も何一つなかった。ただ、利害だけが二人を結びつけていた。
あの頃の私には、想像もできなかった。この無愛想で、無口で、何を考えているか、まるで読めない男と、月の下で手を取り合う日が来るなんて。
それがいつのまにか。
畑の泥と、出汁の湯気と、朝の剣と、雨の夜の打ち明け話を重ねるうちに。気づけば、契約という器の中に、別の何かが静かに満ちていた。
いつ満ちはじめたのか、はっきりとはわからない。たぶんどこか一点ではなく、過ごした日々のすべてが少しずつ。畑で、厨房で、馬車の中で。嘘をつかずに向き合い続けた、その時間の堆積として。
名前をつけるなら。
たぶん、それは――もうわかっている。胃もたれでも、働きすぎでも、ないことくらい。わかっていた。ただ、認める勇気がなかっただけで。
好き、というただ一言。それを認めるのに、ずいぶん長くかかった。男だった前の人生も含めれば、三十年以上こじらせてきた。だが、今は、すんなりとその言葉が胸に馴染んでいた。
「契約から始まって」と私は言った。「……でも、もう、契約だけじゃありません」
言い切ってしまうと、頬が熱くなった。前の人生のくたびれた男には、こんな台詞柄でもない。だが、もう誤魔化さないと決めたのだ。胸の内をありのまま口にする。それが、私の選んだ生き方だった。
アイゼンが手を伸ばした。傷のないほうの手を。そして、その大きな手のひらが、私の手をそっと包んだ。温かかった。剣を握り、私を守ったその手は。
「ああ」と彼は言った。「俺もそう思う」
その短い相槌が、どんな甘い睦言よりもこの男らしくて。私は繋がれた手を、そっと握り返した。
たった、それだけの言葉。
たった、それだけの所作。
だが、その一拍で、私たちは確かに契約の二人から、本物の二人になった。
大袈裟な誓いの言葉も、きらびやかな指輪も、何もなかった。あったのは、ただ繋いだ手と、かすかな微笑みと、白みゆく空だけ。だが、それで十分だった。むしろ、私たちには、それがいちばんふさわしかった。
窓の外で、夜が白みはじめていた。
長い戦いの夜が、明けようとしている。
断罪を待つだけだった令嬢は、もうどこにもいない。物語のレールを外れ、自分の足でここまで歩いてきた。その隣に選んだ人がいる。
繋いだ手のその温もりだけが、これから始まる新しい一日の、確かな手応えだった。




